決戦の日
決戦の時は今日、金曜の午後3時から。
井上颯斗が会議で重役相手に新商品の説明をして、そこでOKが通れば私たちの企画が通ったって事になる。
噂では井上颯斗は今までどんな企画でも一回で通しているという。
そのせいか、この人は全く緊張していなかった。
反対に私は前の日の夜も緊張でよく眠れなかった。
朝、顔の強張った私を見て、井上颯斗は吹き出した。
「なんて顔しているんだよ」
「だって、私も緊張して」
私は会議には出ないのに、異常に緊張してしまう。
「そんなに気になるなら、石田も会議に出るか」
「絶対に嫌です」
どんなことできるわけないだろうと、本気で言い返すと、井上颯斗は楽しそうに笑った。
「大丈夫だよ」
そっと手が伸びて、私の頭が撫でられる。乱暴に髪の毛を乱すけど、でも優しい手に不安がかき消されていく。
すっと細められた目に会社では見せない親愛が宿る。
「誰と誰の仕事だと思ってる」
その言葉に胸がつきんとする。
今までのこの人だったら、きっと自分の仕事だから間違いないって言ってたと思う。
自分がやった仕事だから、大丈夫に決まっているって。
でもいまは違う。
私と一緒にやった仕事だから、うまくいくって言ってくれた。
それがとても嬉しいけれど、少し胸が痛い。
「結果が出たら、連絡する」
視線を下げた私に、この人は笑った。
その笑顔にきっと大丈夫だという予感がした。
いつも通りに仕事をしようとしたけれど、時計が3時になってからは、何も手につかなくなってしまった。落ち着かない私に反して、会議が長引いているのか、その会議に出ているはずの課長は、かなり長い時間席を外している。
井上颯斗からも何も連絡がない。
もしかして何かあった?
問題が起きて会議が長引いている?だとしたら、原因は何?
自分で言うのもおかしいけど、あの企画書の完成度は高いと思う。それで文句を言われるなんて……。
いてもたってもいられなくなって、私は立ち上がると総務を出た。
お茶でも飲んで気持ちを落ち着けようと自販機へ向かっていたら、ポケットの中でスマホが震え出した。
急いで廊下の影に隠れて電話に出る。
「もしもし?」
「……石田?」
井上颯斗の声は電話が聞こえにくいせいか、感情が読めなくて……もしかしたらダメだったのかもしれないと思ってしまう。電話を持つ手に力が入る。
「会議、終わったよ」
「はい」
「企画、通ったから」
思わず息を飲んだ。
よかった…。
ホッとして壁に寄りかかる。
「……はい」
やっとの思いで返事したら、電話の向こうで笑った気配がした。
「なんだ。反応が薄いな」
「なんだか実感が湧かなくて。……おめでとうございます」
「昨日も言ったけど、石田のおかげだよ」
どんな返事をしたらいいかわからなくて笑うと、反対に
「じゃあ、今夜はお祝いだな」
電話の向こうの声は明るかった。
でもそれに私は戸惑う。
「あの、今日は……」
私は遠慮がちに声を掛ける。
明日は例のパーティがあるから、今夜から実家に帰る予定だった。明日の朝から美容院でヘアメイクをしてパーティに行く事になっている。
板倉さんと参加すると思うと不安だしゆううつだけど仕方ない。
「ああ、そうか」
思い出したように井上颯斗も呟いて、そして苦い声になる。
「そうだった。忘れてたな」
この人も今日明日と用事があるから実家に帰ると言っていて、お互い日曜日に帰る事になっていた。
「じゃあ日曜日だな」
「そうですね」
電話を切ろうとする井上颯斗を、急いで引き止めようと声を出した。
「あの、すみません」
「どうした?」
私は電話を持っていない方の手をぎゅっと握る。
言葉にするのに、勇気が入った。
「……日曜日、帰ってきたら、少し時間をもらえませんか?」
「時間?」
電話の向こうの声が戸惑ったように揺れる。私は息を吐いて付け加える。
「お話ししたいことがあって」
私の深刻さと反対に、この人の答えはあっさりしていた。
「夕方には帰るから。その時でいいか?」
とても気軽な返事に、つい笑ってしまう。
「はい、お願いします」
だけど、そう言った後で電話を切って、泣きそうになった。
総務に戻ろうと体の向きを変えた時、ギョッとして足を止めた。
目の前にいたのは課長で、見たことがないくらい険しい顔をしていた。
「あの……」
躊躇いがちに声をかけた私に、課長はあっさりと告げた。
「企画は通ったよ」
「え?」
「それが気になってるんでしょう?」
返事に困る。
だって、ついさっき他ならぬ井上颯斗から結果を聞いていたから。
そんな私の表情を見て、課長が息を吐いた。
「なんだ。もう知っているのか」
私が誰から結果を聞いたかわかっている様子に、気まずくなる。
「嬉しい?」
「……はい。もちろん」
「そう。よかったね」
ちっともよかったと思っていないような言い方だ。
「あいつ、プロジェクトメンバーに君の名前を入れてたから、それはやめるように言った。だけどあいつが引かなくて、僕とあいつで意見が割れて、会議が長引いた。昔から頑固なんだよな、あいつ」
私のせいで会議が…。心臓が止まるかと思った。
「最終的に、社長の一声で決まったよ。あいつが必要なら、それでいいって。あの人、相変わらずあいつには甘いんだよな」
呆れたように息を吐いて課長は私を見た。
「君はプロジェクトメンバーに選ばれる」
とても重みがある言葉だった。
「君を選んだのは、あいつだ」
だけど私は首を横に振った。
「私、自分がやらないといけないことは、ちゃんとわかってます」
自分のやるべきこと。
日曜日の夜帰ったら、私は井上颯斗に全てを話すつもりだ。
全てを話して…そしてあの家を出ていく。
もうそのつもりで、準備もしている。
予想外に増えてしまった荷物をまとめるのは大変だったけど、気持ちに蓋をして事務的にやった。
だって、それしかないのだから。
「石田さん」
課長が心配そうに私をみる。
「前も言ったけれど、僕は君がこの企画に参加するのを怒っているんじゃない。君が一番大事なことを伝えていないことが問題なんだ」
「……」
「君がどこの家の人間でも、信用できる人間なら一緒に仕事はできる。そうだろう?」
今の時代、ライバル会社の人間が協力するはいくらでもあるだろう。
だからもしかしたら、あの人もそんな風に考えるかもしれない。そうなら、私がこのまま働くことだって受け入れてくれる。
でも……
私は笑顔を作る。
「会社、辞めるつもり?」
思わず笑みが溢れた。
「もうあんまり時間も残っていないので」
課長には最初に全てを言ってある。だからこの理由もわかるはずだ。
私が親の決めた人と結婚しなければいけない、というのは課長も知っている。
そしてそれが、私があの家を出ていく理由の一つでもある。
これ以上、あの人を好きになったらいけない。
私はあの人のことが好きになりすぎてしまった。
これ以上一緒にいたら、この気持ちを封印することはできなくなる。
そのまま、他の人と結婚なんて……できない。
課長が一歩私に近づいた。今までで一番真剣な顔をしていた。
「本当にいい企画だったよ。よくできてた」
私は前を見た。課長は私をみて頷いた。
「君とアイツが二人でやった仕事だから君がこれ以上参加できないのは残念だし、もったいないと思う」
「でも、これ以上私が参加するのは無理です」
私がこの先もこの仕事に関わるには、私の事情を井上颯斗にはもちろん、社長にも言わないといけない。
そうすると自然とうちのお父さんにも話す必要が出てくる。
正直、そこが一番高いハードルだ。
私が青柳で働いていた、なんて知ったら怒るではすまない。
私はもちろん、知っているのに黙っていた課長も、きっと社長も文句を言われる。
そんな事になったら、これから先の青柳と大倉の関係も、今と変わらず最悪のまま。
大騒ぎするお父さんを想像してさらに気持ちが落ち込む。
「あのさ、一度アイツとちゃんと話し合いなよ。話してみたら、意外となんでもないかもしれない」
「はは…」
「でも、君もそう思わない?アイツが家の事にこだわると思う?アイツは絶対に肩書きではなくて、君という人間を見て判断する。違うかな?」
本当のことを言ったら、私を軽蔑するかもしれないし、スパイだと思うかもしれない。
やっぱり裏切っていたことに変わりはないし、そうなると今までの信頼関係だってどこかに行ってしまう。冷たい視線を向けられたらと考えると、やっぱり怖い。
好きな人に、好きになってもらえなくても、
少しでもいい印象のままでいたいと思うのは、わがままだろうか。
井上颯斗にいい人だと思ってもらいたい。
恋とか愛でなくても、人として好きでいてもらいたい。
そして、できるならそのまま、いなくなりたい。
それが全てかもしれない。
実家に帰ったら、もうすぐに結婚だと思い出して深いため息を吐いた。
それをみて、課長が驚いた顔をする。
「大丈夫?」
「はい。先のこと考えると暗くなってしまって」
それを聞いて目を丸くして、首を振った。
「辞めたり勝手にいなくなったりしないでね」
そして静かに息を吐いた。
「僕だって君のこと、家族みたいに思っているんだから」
家族ってちょっと大袈裟だなと思いながら、これも課長なりの冗談かと笑ってしまう。
「ありがとうございます」
そう言った後で、なんだか泣きそうになった。
******
パーティの日は予想よりも忙しかった。
思えば美容院にもロクに行っていなかった私の髪は結構な状態になっていて、普通ならアレンジだけで終わるところをシャンプー、カット、トリートメントとやる羽目になって、結局アレンジが始まる前にはぐったりしてしまった。
思わずウトウトしてしまったのは許してほしい。ずっと寝不足だったのだ。
だけどやっぱり有名ホテルのヘアサロンというのは優秀で、全て終わる頃には、私はそれなりにちゃんとした状態に仕上がっていた。
鏡に映る自分がいつもと違って、目もぱっちり、まつ毛もバサバサでお肌も倍キレイに見える。
すごい……。
「お似合いですよ」
そう言って板倉さんが私に近づいてきた。
この人も華やかなスーツを着込んでいて、それがよく似合っていた。
イケメンだから、なんでも似合う。
事前に言っていた通り、私のドレスと同じ色合いのネクタイをしている。
さすがというか、やっぱりというか、それに苦笑いしてしまう。
「行きましょうか」
そう言って手を差し出した板倉さんを見て、私はため息をついた後、
歩いて板倉さんの隣に立った。
「行きましょう」
そうして、板倉さんより先に立って歩き出した。




