最後の晩餐
それから1週間経った日の夜。
翌日の金曜日に会議を控えて、私と井上颯斗は会社で夜遅くまで二人並んでパソコンに向かっていた。
時間は夜10時の少し前。
あと少し、と言っていたら遅くなってしまった。
「よし。これでいいか……」
隣の井上颯斗が独り言のように呟いて……そして私へ顔を向けた。
少し口角を上げて顔を綻ばせると、小さく、だけどはっきりと頷いた。
「これで行こう」
言葉はそっけないけれど、その顔は満足げだった。
それを見て、張り詰めていた気持ちが緩む。
思わず天井に顔を向けて息を吐いた。
「今回の会議はこれでいける」
その言葉に、私は大きく胸を撫で下ろした。
「よかった。これで終わりですね」
ホッとした顔の私を見て、井上颯斗も笑った。
その顔が充実感でいっぱいだったから、それに一番嬉しくなった。
この人がこんなに自信を持っているなら、きっと大丈夫。
この企画が始まってからは本当に忙しかった。特にこの人は普段の仕事と並行してやっていたからとても大変だったと思う。特にこの1週間はラストスパートでこの人の仕事もいつもの3倍速になっていたから、ついていくのも大変だった。
だけどこんなにいい顔をしているってことは、この人も満足する出来なのだろう。
同時に私の胸に冷えた風が通り過ぎる。
それはつまり、課長との約束の日が来たということで……私が全部を話す時が来た事になる。
つまり、これから先の私たちの話は、もう、ない。
私はそんな思いを振り切るように笑顔を作った。
「終わってよかったです。これで一段落ですね」
それに井上颯斗は片眉を上げた。
「のんびりしている場合じゃない」
そう言って別のファイルを開くと、ある部分を指で示した。
そこにはこの企画のプロジェクトチームのメンバーが書かれていて
責任者 井上颯斗 の横に、当たり前のように、石田実桜 の文字があった。
その話については課長から聞いていたけど、文字になって目の前にくるとやっぱり胸が熱くなった。
本当に、この人にはいつも簡単に泣かされてしまう。
それがおかしくて、泣きそうになりながらつい笑ってしまった。
「石田もここまで頑張ってきたし、これで終わりだとつまらないだろう?商品開発はこれからだから、終わるまではちゃんと手伝って……」
そう言っていた井上颯斗が、ギョッとしたように言葉を止める。
ようやく私が泣いているのに気がついて、急いで私へ体を寄せる。
「石田?どうした?」
「なんだか感動してしまって……すみません」
私は慌てて手で目を押さえて、涙をそっと拭う。
こんなことで泣いていたら、呆れられてしまう。
「なんか色々思い出したら、急に……すみません」
仕事が一段落して感動して泣くなんて恥ずかしいけど、それぐらいこの仕事は私にとって大きかった。
だってこんなに真剣に取り組んだのは、初めてだ。
今までいろんなことを諦めてきて……でも、青柳に来て変わった。
この人が私を変えてくれた。
私にだって少し実家の仕事が手伝えると思えるくらいには、勉強できたと思う。
まあ、やる気があっても、この先実家でそれを発揮する場がないわけだけど。
でも、この人が私にいろんなことを教えてくれた。
私を助けてくれた。
隣で一緒に戦ってくれた。
それがすごく嬉しくて……だからどんなに大変でも辛くても頑張れた。
それだけで、もう、十分。
これが最後だとしても、悔いはない。
私がこれ以上この人と働くことはないし、この仕事を手伝うこともない。
一緒に同じ目標に向かって働くこともないし、思いがけず始まった同居生活も……終わる。
二人暮らしって、最初はどうなるかと思ったけれど、楽しいことばかり思い出される。
それが終わると思うとやっぱり寂しい。
でも、仕方ない。
私の本当の姿を知られたら……今までと同じにはいられない。
「私、井上さんのお手伝いができてよかったです」
俯いたまま指で涙を拭ったら、隣から腕が伸びて私の手を掴んだ。
顔を上げると、すぐ近くにある真剣な眼差しと視線があった。
その視線の強さに驚いて思わず腕を引き抜こうとしたら、反対に腕を掴む手に力が入った。
「い、井上さん?」
井上颯斗が掴んだ手に力を込める。
「石田がいたから、これは完成した。ありがとう」
その言葉に、止まったはずの涙が溢れてきた。掴まれているのと反対の手でそれを拭おうとして……
だけど、それを井上颯斗の指が拭った。
「石田がそばにいてくれたおかげだ」
優しく微笑まれて、私も泣きながら笑顔になった。
頑張ってよかったなと思って。
すん、と涙を飲み込んだ時、井上颯斗がそっと私の頭を撫でた。
「石田は本当によく泣くな」
「井上さんのせいですよ」
声だけは呆れたように言われて、つい言い返す。
こんなこと前もあったなと思うとなんだかおかしい。
だけど、頭を撫でるその手が優しいから涙が止まらない。
よく泣くなって……誰のせいなのか。
「まあ、いいとするか」
視線があってふっと柔らかい笑みが目に入る。
こんな光景もいつもの私たちのやりとりで……
それをとても愛しく思って、胸が熱くなる。
視線があってお互い笑い合う。
だけどすぐにその目が真剣な光を帯びて、
それを見てドクンと心臓が反応した。
私の頭に乗せられた手が静かに首へ降りて、そのまま私の肩を抱くように回されて……そして静かに体を引き寄せられた。
え?
会社ではあり得ない、というかあってはいけない行動に驚いて顔を上げた。
だけど見上げた先にあった目は変わらず真剣で……その目に迷いがないのを感じて、さっきよりも胸が高鳴る。
もしかして、抱きしめようとしている?
今、会社で?
戸惑いながらも体を動かせなくて、だけどそのままお互いの体が近寄って、もう少しで抱きしめられる、という時だった。
がちゃんとドアが開く音がした。
まるで目が覚めたように私たちは顔を見合わせると、距離を取った。
人が来たのを察してドアへ視線を向ける。
そこに現れたのは……
「あ、まだお仕事中でしたね」
ドアを開けて入ってきたのはニコニコと笑った警備員さんだった。
いつも遅くまで働いていると顔を合わせる人で、わたしたちを見ると頭を下げた。
「遅くまでお疲れ様です。戸締まりはまた後で来ますね」
そう何事もなかったような顔で、ごく自然に出ていった。
私たちの間にあった、多分少し普通より甘い空気とか……、気がついていない。
それを二人で見送って同時に顔を見合わせた。
視線があって、だけどなんだか気まずくて、二人で黙り込む。
だって……どんな顔をしていいかわからない。
だけど急に井上颯斗が私の頭に手を置いて、髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。
「うわっ」
「帰るぞ」
そう言って素早く体の向きを変える。いつも通りの声のトーンでいつものように話しかける。
「夕食、どうするか」
「あ、ええと、どうしますか」
もう夜も遅いし、これから作っても、と思いながら考えていると、井上颯斗のため息がした。
「また牛丼にするか」
この間食べたばっかりだけど……、そんな声が続いた。
だけど、私はそれに大きく頷いた。
「いいですね。牛丼にしましょう」
「……本当に好きだな、牛丼が」
呆れたように言われて、私は言い返す。
「そうですよ。美味しいですからね」
可愛くないことを言っているけど、私にはわかっている。
きっとこれが二人で食べる最後の牛丼だって。
だから最後に、一緒に食べたかった。
これから先、自分があのお店を見たら何を考えるか、誰を思い出すか……
私にはもうわかっていた。
きっと私はこの人のことを思い出す。
この人と、この人と過ごした日々のことを。




