絶対に知られてはいけない秘密
私と井上颯斗の二人でやっている新商品の仕事は、順調に進んでいた。
その手伝いを始めたのは、ちょうどあの飲み会の時。
あの日に作った資料には新商品のコンセプトや商品の詳細が書かれていて、社長をはじめとした会社の上層部全員の賛成を受けて、正式に企画書を出すことが決まった。
企画書には新商品アイデアだけでなく、予算や作成期間など、細かいところも決めて書く必要がある。だからその辺りの調整をして、それから井上颯斗は機械の機能面にも手を加えていた。最初ので十分ではないかというと
「もっといいものができる」
そんな貪欲なことを言っていた。
そして今度の会議に企画書を提出して許可が出たら、正式にプロジェクトチームを立ち上げて制作に入る。
もちろん、すべてを考えているのはあの人で、私はお手伝いだけ。
でも二人だけで同じ仕事をするというのは、自分がこの人に信頼されている特別な人間だという、確かな感覚があって、私はそれがとても、嬉しかった。
井上颯斗はこの仕事にとても集中していて、絶対に成功させるという強い意志を感じた。
出世や自分の実績のためではなく、純粋に自分が2年前に作ったものを越えようとしているとわかる。
怖いくらいに研ぎ澄まされた表情で机に向かっているのを見て、胸が詰まった。
だから……絶対にうまくいってほしい。
あの人が満足するものができたらいい。
そしてその新しい商品が……
誰もが認める、青柳を代表する新しい製品になればいい。
あの人のために。
そんな気持ちを胸に、私はただあの人だけを見つめていた。
その夜、家で書類を広げて仕事をするあの人に、お茶を持って行った。
カップを差し出すと、パソコンを打つ手を止めた。
「どうですか?」
「あと少しだな。この機械にこの機能が載せ切れるか、悩んでいる」
そう答えて手にしていた書類を机の上に置いた。
気になってついそれを覗き込んで……中を見て、驚いた。
その企画はタブレット型の機械で、それを見てハッとした。
だって、それは………私があの時のコンペに出したアイデアだ。
当初の井上颯斗が出していたアイデアは普通のノート型の機械だった。
少なくても私が一緒に手伝い始めた時から、最近まではそうだった。
それをどこかで変えたのだ。
この人が。
どうして?
「これ………」
隣にいた井上颯斗は私の視線を見て、とても気まずそうな顔をした。
「この春のコンペに出した石田のアイデアだ。会長も言ってただろう。石田の企画はいい評価だったんだ」
「え……でも」
会長は私を賞に推薦してくれたのに、周りに止められた。
会話の流れから、私は勝手に課長と井上颯斗が止めたと思っていた。
「でもダメだって言ったんですよね?」
「そりゃあ、あんなに非現実的な商品を最優秀にしてどうする。翌年からみんなやりたい放題のコンペになってしまう。現実的なアイデアが出てこないと評価がつけられない」
私の頭をコツンと叩く。
口調も手つきもぶっきらぼうなのに目が優しいから、注意されているのにそんな気がしない。
井上颯斗は視線を書類に戻して眉を寄せた。
「全部がダメと思っていない。……石田の企画は俺もいいと思った。だから少しそのアイデアを取り入れようと思ったんだが……」
そうして私を見る。
その顔がちょっとだけ不安そうに見えた。
「勝手に使うのはダメか?」
黙ったままの私を不機嫌と思ったようで、気遣うような顔になる。
だから私は笑って首を横に振った。
「いいです」
だって、そんなの嬉しいに決まっている。
どうしようもなく嬉しくて、少し泣きそうになったのを堪えて笑った。
「とても嬉しいです」
この商品が世に出るには、きっと私は結婚している。
その時、私の隣にいるのは板倉さんで、
私はもう青柳にも、この人の隣にもいられない。
もしかしたら、この人の隣にも誰か他の女性がいたりして、
私たちが会うこともないと思うと、ちくりと胸が傷む。
だけどこの人が作ったものがたくさんの人に使われていたら……満足だ。
なによりも………
私とこの人が少しでも一緒に時を過ごした証拠が残るのかと思ったら
それはすごく嬉しい。
「もう少し整理したらいけそうな気がするんだよな……」
独り言のように井上颯斗が呟いて書類を手にする。
私はそれをじっと見つめた。
それからしばらく経った日の午後、課長から声をかけられた。
「石田さん、ちょっといい?」
課長が真っ直ぐに会議室に入ったから、人に聞かれたくない話だとわかって……どんな話か予想できた。
多分、私たちの仕事のことだ。
椅子に座った課長は、
「言いたいことはわかるよね」
怒りを滲ませた声で切り出した。
「石田さん。これは契約違反だと思わない?」
課長はそのまま両手を机について顎に手を添えると、じっと私を見つめた。
「今、あいつがやっている企画、あれを一緒に石田さんもやっているんだよね?」
課長が言っているのは……新商品のことだ。
もう答えはわかっていて、あえて聞いていると理解して、私は黙って頷いた。
課長はため息を返してきた。
「驚いたよ。石田さんが当たり前のように手伝っているし、…しかもあいつ、この後のプロジェクトメンバーにも石田さんを参加させるって言ってた」
「え?」
それは聞いていなかったから驚いた。
私は今回のお手伝いで終わるつもりだったから。
だから信じられない思いで課長を見ると、課長は目を伏せて首を振った。
「君も知らなかったのか……」
「……」
課長は大きなため息をついた。
「それはまずい。君の家のことを知っているならともかく、知らずにやるのはまずい」
そして、私に視線を向けた。
「君の家のことは、あいつには言っていないだろう?」
私が頷くと、課長はさっきよりも大きなため息を吐いた。
「あいつも何をやっているんだか」
呆れたように息を吐く。
「君のことは応援するといったし、ここで働いていいと言った。あいつが君と仕事を始める時も、最終的に許可したのは僕だ。……でも、それは君が会社の機密には絶対に関わらないと言ったからだ。僕はそれを信用した。だから、君はここで働くことになった。そうだよね?」
課長の目を見て、頷いた。
「実家の関係者に会っても仕事のことを話しません」
「君を信用していない訳じゃない。だけどあまりにも機密情報を知りすぎている。さすがにハイリスクだ」
私は口をつぐんで俯いた。
「今の状況なら、君が大倉に帰ってうちの機械を同じものを作ることができる。それは困る」
確かに、そんなことも簡単にできてしまう。
企画書を作ったのも私と井上颯斗だし、細かなところまで再現はできなくても、その書類を持ち出すことだってできる。私はそれが家のどこにあるかも、わかっているから。
「もちろん一番悪いのはあいつだ。……だけど断ることはできたよね?」
断ることはできた。
そのタイミングがどこだったか、私にはわかるし、覚えている。
だけど、あの時手伝わせて欲しいと言ったのは、私。
あの人を選んだのは、私だ。
私は首を振った。
「絶対に誰にも言いません。だって……」
私はあの人の苦労も大変さも一番知っている。
だからこそ、裏切れない。
「井上さんを裏切ったりしません」
課長は私を見て、また息を吐いた。
「もうひとつ、嫌なことを言うよ」
そしてまた探るような目をした。
「石田さんはあいつとずっと仲がいいよね」
私はそれを遮るように口を挟んだ。
「ずっと、ではないです」
「そうかな。僕から見たら、二人は最初からずっと仲がいいよ」
決めつけるような言い方にムッとしながらも、反論できない。
それくらい課長が真剣だったから。
「あいつと……そう言う関係ではないよね?」
胸がドキッとした。
そう言う関係、の意味はわかる。
つまり、恋人、と言いたいのだ。
私は首を横に振った。
「違います」
「そうだよね、あいつもそう言っていた」
それに胸がずきりと痛む。
でも考えれば、当たり前。
私はただの同居人。あの人にとってはそれしかない。
わかっていると言いながら、あの人の答えに不満を感じるなんて本当にどうかしている。
課長が私を心配するように覗き込む。
「社内恋愛禁止ではないし、僕もあいつにいい人ができればいいと思っているし、その相手が誰でも基本的には許すつもりだよ」
基本的には、その言葉に胸がドキンとする。
「だけど、二人の間に隠し事があって付き合っているなら、手放しで祝えない」
「あの、私たちそんな関係ではないです」
喉がカラカラだった。
私は首を振った。
自分が文句を言われるのはいいけれど、あの人が悪く言われるのは耐えられない。
「本当にそんな関係ではないです。それから井上さんは私のことをそんな風には見ていません」
私は課長の目を見て頷く。
「この仕事が終わったら、私はあの仕事からは手を引きます。井上さんにも会社にも迷惑をかけないと約束します」
課長は苦い顔をした。
「僕はね、君がこの仕事をやったことを怒っているんじゃない。こんなに大事な仕事を一緒にやりながら、君があいつに一番大事なことを伝えていない事に怒っている」
「でも」
「話さないとはじまらないことってあるよね?真実を話し合ったら、解決する。これもそうだと思わない?」
課長は正しい。
だけど一つだけ間違っている。
私が大倉の人間だってわかったら
井上颯斗は私に仕事の手伝いなんて頼まなかった。
……それから、一緒に暮らそうなんて絶対に言わなかった。
だから、私は言えなかった。
あの人のそばにいるためには、本当のことは絶対に言えない。
言わなければいけない真実は、絶対に知られてはいけない秘密になってしまった。
それを課長は知らないし、きっとそんなこと考えもしない。
でもそれが、本当のことなのだ
「君の家のことは、新商品に君が関わる前か、君たちが親密になる前に言っておくべきだったね」
そうかもしれない。
だけど、気がついた時にはもう、言えなくなってしまった。
一緒に暮らし始めてしまったし、それから……
その時にはもう、私はあの人に恋をしていた。
いつの間にか、好きになっていた。
だからどうしても、言えなかった。
そばにいたかったから。
「あいつに君の家の事情を話してもいいかな?」
できる限りの優しさと気遣いを加えたその声は、それでも私の胸に刺さった。
課長は目を閉じて、頭を振る。本当に苦しそうな顔だった。
「これからもあいつと一緒に仕事をするなら、真実は話さないといけない。これは君とあいつのためだ」
それから私を見て、頭を下げたから、私はとんでもなく驚いた。
だって、この人が私に頭を下げるなんて。
「本当のことを知ったら、あいつも驚くだろうけど、必ず受け止める。君からは話しにくいだろうから、僕から話すよ」
絶対に言った方がいいことはわかる。
これ以上、秘密を持ち続けるのは良くない。
でもそうしたら、あの人は私のことをどんな目で見るのだろう。
それを考えると、怖くて決心できない。
あの人から冷たい視線を向けられるのを想像して、耐えられなくなる。
迷って、悩んで、私はようやく口を開いた。
「私が言います」
これはやっぱり私が言うことだ。
周りの人から教えられたら、あの人はきっと嫌な気持ちになる。
だから、私が言うしかない。
課長の困ったような顔が目に入った。
「本当に言える?」
「言います」
課長はしばらく私の顔を見て、それから頷いた。
「わかった。君を信用する」
「一つだけ、条件を出してもいいですか?」
「何?」
私は課長をしっかりと見つめて口を開いた。
「話をするのはこの仕事が一段落してから、でもいいですか?」
課長の片眉が上がった。
「それっていつ?」
「今作っている企画書を提出する、次の会議までは、待ってくれませんか?」
あと1週間でその会議になる。
その会議を通過すれば、もう怖いものはない。
新商品が出ることは決定するし、プロジェクトチームが動き始める。
そこまでいけば、あの人の周りには専属のスタッフがつく。
私なんて、いらなくなる。
だけど今は二人でやっていて、私しかあの人を手伝う人はいない。
あの仕事を一人で全部やるのは厳しい。そんなことはさせられない。
「井上さんは今とても集中しているので、邪魔したくないです。私なんかのことで迷惑をかけたくないです」
「私なんか、ね」
大きな息を吐いて、課長は立ち上がった。
「わかった。そこまでは待つよ」
「ありがとうございます」
「……二人でよく話し合って解決して」
「はい」
課長は立ち上がってドアへと向かおうとして、私の横で立ち止まった。
「あいつは、僕にとっても大切な人間なんだ。だからちゃんとしてほしい」
いつにない真剣な顔だった。
「大事にしてほしいんだ。青柳の会社も、あいつのことも」
大事にしている。
誰よりも、何よりも大切にしている。
だけど私がやっていることは、結局彼に嘘をついている事になっている。
大事にしている、なんて言える立場ではない。
黙って頷くと、課長はもう一度念を押すようにお願いと言って部屋を出ていった。




