無駄のない方法
「石田?」
声がして目を開けた。
視線を下げたらじっとこっちを見る眠そうな顔の井上颯斗と視線があって
そこでいつの間にか自分もつられて寝てしまったのだとわかった。
寝顔を見られたと思うと恥ずかしい。
同時にこの人が体を起こして目線が同じになって、井上颯斗が私の肩に自分の顔を寄せる。
「短い時間だけど、寝ると頭がスッキリするな」
実感のこもった声で言って、腕を私の腰に回した。
「久しぶりによく寝たよ」
息が感じられるほど近い距離で、綺麗な顔がふうっと柔らかく綻ぶ。
その目からなんとも言えない親密な空気が漂ってきたから、私はその目に捕えられたように動けなくなる。
そんな動揺しまくっている私には気がつかないのか、そのまま腕を狭めて私の体を引き寄せて、反対の手を私の後頭部に添えるとそっと撫でた。
そうしてまた、目を閉じる。
「よく寝た」
息を吐いてしみじみと呟くから、この人から離れたいのに体を動かせない。
だって………
こんなこと、会社でしていたら良くない。
そう思うのに、体が動かない。
井上颯斗の体は私より暖かくて、その体に包まれると気持ちよくて、そこから離れたくないと思ってしまった。
でも、それは……
自分の気持ちに気がついてしまったからかもしれない。
そのせいで、ただ側にいたいと思ってしまうのかもしれない。
自分の立場は、よくわかっているのに。
「とりあえず、帰るか」
軽く私の頭を叩いて、井上颯斗は立ち上がって背伸びする。
「家帰ったら、また寝ちゃいそうですね」
そんな嫌味みたいなことを言いながら、私は急いで笑顔を作る。
いつもと同じように。
立ち上がった井上颯斗が私を振り返る。
「そうだな。ひと眠りするか」
「井上さんはゆっくり休んだ方がいいですよ」
私も立ち上がると、一度離れた目線が近くなった。
この人が笑って私を見る。
「一緒に寝るか?」
その笑顔がとても綺麗だったから、
その分、切なくなった。
だってそんなこと、できるはずない。
一瞬固まって、だけどすぐに私は顔を逸らせた。
「寝ません!」
それにくすくすと笑い声が返ってきた。
ポンと頭に手が載る。
そのまま私の頭に中に手を差し込んで、髪がぐしゃぐしゃになるまでかき混ぜる。
「うわっ」
「………冗談に決まっているだろ」
いつものように静かな顔でそう言い返して、井上颯斗はドアを開けると
「帰るか」
そう言って、先に部屋を出た。
髪を手櫛で直しながら、私もそれを追いかける。
離れてしまった手を寂しいとか、絶対に思わないように。
******
8月に板倉さんとパーティに行くというのは、思っていたより面倒な作業になった。
まず、私、ドレスとか持ってないし。
靴もアクセサリーも全部準備しないといけない。
となると、何回も実家に行って母親と買い物に行ったりすることになって………そこで板倉さんと顔を合わせることになる。
それも予想できることとはいえるけど……
つまりその辺も……思い通りにされているな、と思ってしまう。
今日は仕事帰りにこの間注文したドレスを受け取って、それを実家に持って行ったところで……板倉さんに出会った。
あまりにもいいタイミングすぎて笑えてしまう。
車で家まで送ると言う板倉さんを全力で断って、だけど断りきれなくて一番近い駅までの道を歩いて送ってもらうことになった。
駅まで一人で歩けるし、その方がずっと気楽だ。
だけど、上司の娘を一人で夜道に歩いて帰らせるなんて、普通はしないだろう。
それがこれから結婚する相手なら、なおさら。
これも彼の言う『大事にする』ってことなんだと思う。
そうしても良いと言ったのは自分だから、仕方ない。
でもなんだかスッキリしなくて……
この人と向き合おうと決めたのも自分なのに、諦めが悪いと思う。
「仕事は忙しいですか?」
隣から声をかけられて、ドキッとする。
この人は私が青柳にいることは知らない。
だから仕事の話をされると、緊張して答えに困る。
「……ええ、まあ。それなりに」
「そうですか」
私の返事に納得したような声が帰ってきてホッとする。
「パーティの日は仕事は大丈夫ですか?」
当たり前のことを聞くなと思いながら返事する。
「もちろん大丈夫ですよ」
「ドレスの色は何色にしたんですか?」
「ええと、ブルーです」
「……私も同じ色のネクタイにしていいですか?」
板倉さんが思わせぶりに私を横目で見た。
世間的に格好いい人の流し目は、それなりに攻撃力がある。
恋愛経験の乏しい私はすぐにその攻撃にやられて、思わず動揺して視線を逸らせた。
「好きにすればいいんじゃないですか」
投げやりに答えると板倉さんは私を見てクスッと笑った。
「ちょっと疲れているかなと思ったのですが、お元気そうですね」
その態度に遊ばれているとわかってムッとする。
「疲れていませんよ」
「そんな風に見えましたよ。無口でしたし」
そうかな。
忙しいけど、充実はしていると思う。
多分、自分で思うより私は働くことも忙しいことも好きみたいだ。
確かに昨日の夜は遅かったけど………。
でもそれは井上颯斗だって同じ。
別に大変でも疲れてもいない。
そこまで思って気がついた。
どんなに忙しくても大変でも仕事を嫌だと思わないのは、
もしかしたら……自分よりもずっと忙しくて、一生懸命働く人が目の前にいるからかもしれない。
だけどそこで静かな声が聞こえてきた。
「でも、結婚したらお仕事はしなくていいですから」
「え?」
思いもかけないことを言われて、咄嗟に隣を見上げる。板倉さんは私へ視線を向けて、クスッと笑った。
「仕事は私がやりますし、大変ですから実桜さんはやらなくていいですよ。家でのんびりしてください」
「え、でも……私もやります。だって実家の仕事だし」
「いきなり大倉の仕事を把握するのは無理ですよ。実桜さんには負担が大きいです」
板倉さんは当たり前のことのようにそう言った。
「ずっと私が手伝っていましたから、そのまま私が社長から引き継ぎます。家のこともいろいろありますから、実桜さんはそれをやってください」
最初からダメと決めるつけるような言い方に、ほんの少し気持ちが波立つ。
そりゃあ、私にその実力がないことはわかっていますよ。
課長みたいに人を動かす事もできないし、井上颯斗みたいに能力で人を引っ張るカリスマ性もないし、青柳で働くようになってからも自分に経営のセンスがないことは嫌って言うほど感じた。
だけど……、全く何もしなくていいって……。
いつの間にか足が止まっていた。
社長の娘である以外の私って、いらないんじゃないかな。
自分っていう存在がものすごく価値がないような気がして、暗くなる。
私と一緒に板倉さんも立ち止まって、背をかがめて黙る私の顔を覗き込む。
「慣れないことや無理なことを頑張るのは、負担になりますよ」
「……」
「その方が、実桜さんにも良いですよ」
子供を宥めるような顔をする。
「それに、子供ができたら、子育てに集中してもらいたいですし」
「え?」
「僕が忙しいので、あまり手伝えないと思いますから」
「……」
ああ、そうか。
この人と結婚したら……そういう事か。
子供ができることもある。
私と、この人の間に。
考えていなかった未来をいきなり目の前に出された気がした。
私にはこの人と手を繋いだり、キスをしたり、それ以上のことをするなんて……
とても想像できなかった。
この人と一緒に暮らすって、どんな感じなんだろう。
楽しいのだろうか……今みたいに。
あの人との生活以上に。
板倉さんは困ったような笑顔になった。
当然というように肩をすくめる。
「お互いの適性を考えた分業といった方がいいですね。僕は会社のことをする。代わりに実桜さんには家のことをする。無駄のない方法をとるだけですよ」
無駄のない方法。
ものすごく事務的に言われて、胸が痛む。
どう答えていいか迷っていると、板倉さんはカバンを持つのと反対の私の手を握った。
反射的に体がビクッと反応して、だけど、構うことなく、板倉さんは手を握り込んだ。
「それが良いと思います」
とてつもなく自信を持ちながら、じっと目を見つめられて、
私は言い返すことができなかった。
少しして板倉さんはそっと私の手を解放して、その瞬間に肩の力が抜けた。
そうしてこの人に手を握られて、いつの間にか自分がとてつもなく緊張していたのを理解した。
「行きましょう」
板倉さんが歩き出したから、私はまた歩き出した。
胸に何かが詰まっているような気がした。




