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あなたが寝ている間に

ノックをして反応がないから、今度はさっきよりも強く、もう一度ノックした。


返事がない。


席を外しているか、まだ寝ているか。

そう思って辺りを見回したけれど、誰もいないフロアはしんと静まりかえっている。

それとも、こことは違う場所に、いる……?


差し入れの紙袋を持ったまま途方に暮れていると、背後から声がした。

「石田?」

聴き慣れたその声に振り返ると、井上颯斗が開発の入り口で私を見て固まっている。


見て驚くほど、その顔はやつれていた。

前髪は乱れて、切れ長の目の下にクマが見える。シャツの襟は緩めているし袖は捲られていて、いつもピシッとしているのに全体に崩れた印象。

きっと戦争のように忙しくて……ほとんど寝ていないのだろう。


だけど眉を寄せて早足で私へ向かってきた。

「どうした?家で何かあったのか?」

トラブルがあったと勘違いさせたことに気がついて、慌てて否定する。


「いえ。何もないです。手伝いができればと思って……あと差し入れです」

井上颯斗はしばらく黙って私の持つ紙袋を見ていて、それからホッとしたように笑った。

でも疲れているせいか、笑顔が弱々しい。

頭に手をあてて、大きな息を吐く。

「仕事、終わったんですか?」

「終わったけど、寝てない。大変だった……石田は?休みの日に会社に来て、一体どうした」

「どうしたって…」

私は言葉が詰まる。



心配で来たんです。


仕事はちゃんと終わったのか、まだ終わらないのか

ちゃんと休めたのか、ご飯は食べたのか……

元気なのか……

全部が心配で、来ました。




そんな言葉が浮かんで……言葉を飲み込む。


だって、そんなのまるで恋人みたいだ。



「石田?」

私の肩に手がのる。視線を上げると心配そうな顔をしたこの人と、目が合った。

いつものように話そうとして、慌てて距離をとる。


だって、こんなに体がふれあいそうなほどの距離って……

いつもの私たちの家での距離だけど、会社ではちょっと近すぎる気がしてしまう。

こんなに近くにいたら、誤解されても文句が言えない。



「あ、あの……」

口を開いた時、ドアの開く音がした。



誰か来た!


二人同時にドアを振り返る。



別に休みの朝早くに、社員の私が会社にいてもおかしくない。

仕事のために開発にいてもおかしくない。


だけど、休みの日の早い時間に、会社でこの人とこんなに近い距離でいたら……おかしい。

そもそも、今この人が会社にいるのを知っている時点で、まずい。

何かある、と思われる。



つまり………見られたら本当に、まずい。

そう思うのに、体が動かない。

だけどそこで、ぐいっと腕を引かれて私は仮眠室の中に押し込まれた。

振り返る間もなく目の前でドアが閉められて……


一人で仮眠室の中に押し込められた。




ドアが閉まったのと同時にドアの向こうで話し声がした。

危なかった。そう思いながら、反射的に息をひそめる。


『あれ、誰かいる?』

ドアの反対側からそんな声が聞こえて体がビクッとした。


課長だ。

よりによって、この人だなんて……。


ドキドキして冷や汗が浮かぶ。



『なんか話し声がしたけど』

課長の声にドキッとする。


うちの課長、時々鋭いんだよね。笑顔で痛いところを突く。

今も、位置的に見えていないはずだけど、気がつかれたのではないかと思う。


だけど井上颯斗の答えは堂々とした物だった。

『いや、だれもいない』

『そうか?声が聞こえたと思ったけど』

『気のせいだって』

そこで課長の笑う声がした。

『なんだよ……、もしかしてお前が会社に女を連れ込んだかと思った』

またドキッとする。


連れ込んではいない。

自主的に連れ込まれたことになるけど………確かにこの状況はそれに近いけど、でも

心臓に悪いよ。


『会社でそんな事するか』

呆れたという井上颯斗の声の後に、声が少しだけ遠ざかる。

どうやら仮眠室の近くから離れてくれているようだとわかって、ホッとする。

呼吸をするのも怖くて、離れてくれるのは助かる。


『じゃあ、俺は先に帰る。お前は?』

課長の声に井上颯斗が返事した。

『俺は、もう少しやる』

『後は任せるから。親父は俺が送っていく』

『わかった』

『お疲れ、あんまり疲れないようにしろよ』

『すぐに帰るよ』

なんだかずいぶん砕けた会話だな。

うちの課長は一応年上で上司なのに、こんな態度を取れるなんてさすが井上颯斗だ。



だけどそこでまた、からかうような課長の声がした。


『それより………家に誰が待っているの?」


え?


思いもしなかったことを言われて、目を丸くする。



ドアの反対側でも、井上颯斗が答えに詰まったのがわかった。

おかしそうにくすくすと笑う課長の声がする。

『あ、やっぱり。誰かいるんだ。おかしいと思ったんだよな。あんな状態でも絶対に帰るって言うから』

『あんな状態にしたのは誰だと思っている』

『ま、俺だけどね』


話の展開はよくわからないけど、わざと嫌がらせするなんて………

相変わらず課長、性格悪い。


『誰?会社の子?……心当たりあるんだよな、名前言っていい?』

今度は私の心臓が反応した。


誰?

井上颯斗とそういう関係だって課長が思う人って………誰?


いろんな人の顔が浮かんで消えて、気持ちが落ち着かない。



その時、はっきりと声が聞こえた。

『誰もいない。一人だ』

被せるような言葉に課長が笑った。

『ああ、いるんだ。誰?まさか本当に……あそこのご令嬢じゃないだろ?誰?』

『………』

『まあ、いいや。彼女できたらちゃんと連れてこいよ」


そう言って今度こそ会話が終わる。

課長が出て行ったのを感じて安心して、思わず仮眠室のベッドに座り込んだ。

思っていたより緊張していたみたいだ。



仮眠室は初めてきたけど、ベッドと小さなテーブルが置いてあるだけで狭くて、中のベッドに使った形跡はなかった。

やっぱり寝ている時間がなかったのかな。

そう思っているとドアが開いて井上颯斗が入ってきた。

目があって肩をすくめる。

「もう行ったから、気にするな」

私が頷くと、井上颯斗も息を吐いて隣に座った。

そして気まずそうに目を逸らす。


そこでハッとして本来の目的を思い出して、紙袋を持った。

「差し入れです」

それに大きなため息をついたから、怒ったのかと思って「すみません、勝手に」と謝ったら、井上颯斗は首を振った。

「ありがとう」

「井上さんの好きなたまごのサンドイッチです」


一緒に暮らし始めてすぐの頃、日曜日の朝に厚焼きたまごのサンドイッチを作った。それを気に入ったのか、美味しいとたくさん食べてくれた。

以降、休みの日の朝兼昼ごはんによく作る。


今朝、差し入れをしようと思ってすぐに思いついたのは、これだった。

これを食べるこの人の顔が浮かんで、たくさん作ってしまった。



紙袋を受け取って嬉しそうに笑うと、それをテーブルに置いた。

「石田は食べた?」

「まだです」

「後で一緒に食べよう」


その顔を見たら、なんだか胸がほわっと暖かくなった。

いつも会社でのこの人は家と違って他人行儀で、冷たい感じがする。

でも今は会社なのに家にいる時みたいで、ちょっと恥ずかしい。


「今食べるなら、コーヒーを淹れてきますよ。どうですか?」

寝不足ならコーヒーの方がシャキッとするかなと思ったら、首を振った。


すぐに耐えられないと言うように欠伸をする。

「昨日、寝てないんだ。さすがに疲れた」

手を目に当てて肩で大きな息をする。

「少し寝たい」

「あ、じゃあ、ゆっくり休んでください」

隣にいたら、寝にくいだろうと私は腰を上げる。


だけどぐいっと私の手首が掴まれた。


驚いて顔を向ける。

じっと見つめてくる黒い目と目があった。


「石田は?」

「え?」


少し下から見上げてくる目にふっと甘い光が混じる。

そのせいで胸がドキンとして、ありえないくらい顔が赤くなった。


なんだか目の前の人がとても色っぽく見える。


「石田は、眠れた?」


あまり眠れなかった。

落ち着かなくて、なかなか眠れなくて、朝も早く起きてしまった。

だけど素直にそうと言えなくて、つい意地を張ってしまう。


「私は、よく寝ました」

それを聞いて井上颯斗は目をほんの少し丸くして、すぐにニヤッと意地悪そうに笑った。

「じゃあ、付き合って」


そう、本当にさらりと

まるで、仕事を頼む時みたいにあっさりと言い返して


「……え?」


井上颯斗はスッと私の膝の上に自分の頭を横たえた。



膝の上から井上颯斗が私を見上げて、目を細める。

手を伸ばすと、肩より少し下の長さの私の髪を指に絡めた。

「俺が寝るから、石田も付き合えよ」

「え?」

「付き合えって」

そう言ってくいっと指を引いて、優しくでも痛くない程度に強く私の髪を引っ張った。


そのせいで顔が強制的にこの人の方を向かないといけなくなって……

その甘い視線を見つめることになってしまう。


そうしてその目でもう一度つぶやく。


「いいだろ?」


両方の口角を上げたその笑顔に、言葉が返せない。




「私がいると、寝づらくないですか?」

それに楽しそうに笑った。

「逆。……石田がいると家にいるような気がして、ホッとする」

その笑顔と、言われた内容にどきっとする。


そして、それが嬉しい。

自分が必要だと言われたようで、嬉しい。



井上颯斗は私の髪から手を離すと、体を横向きにする。

「だから、少し付き合ってくれ」

微かな重みと、膝の上で人が呼吸していることに胸がドキドキする。


だけどそんな私を気にすることなく、井上颯斗は目を閉じた。


「少しだけ、寝よう」


そわそわして体を硬らせていると、すぐに規則的な呼吸が聞こえた。



本当に、寝てる……?

私がガチガチに緊張しているのに、あっさり眠っているこの人を見て、ちょっと拍子抜けしてしまう。


だけど

その寝顔は穏やかで、安心しているのが伝わる。

背を向けて寝るこの人の顔を、体を前にして覗いてみる。


まつ毛長い。肌も綺麗だな……とぼんやり鑑賞してしまう。


額にかかった前髪が目にかかりそうで、そっと手で避けた。




そうしたら急に、あ、この人のことが好き。と思った。

膝の上で眠る年上のこの人がとても愛しくて、なんだか泣きそうになった。



少し無愛想にも見えるけど、とびきり優しくて……


家を無くした時、自分のリスクも考えずに住まわせてくれた。

いつだって私のことを、考えてくれた。


そんなこの人のことが、好きだ。

どうしようもなく、好きだ。



私がこの人を好きだなんて、口にしてはいけないと思う。

本当の私を知ったら、きっとこの人は私を嫌いになると思う。


私とこの人の関係がそういうものだとわかっていても………

全部、どうでも良くなってしまうくらい、好きだ。



もう一度、手を伸ばしてそっと髪に触れる。

私に背中を向けているから、どんな顔をしているかわからない。


だけどその肩が規則的に動いているのを見て、寝ていると確認する。





この人が寝ているのがわかっているから………

だから私は、それを口にする。



「好きです」




聞こえないくらいの小さな声で、そう囁いた。



この人が起きている時にはこんなこと絶対に言えない。

この先もう絶対に口に出さないし、そんな機会もないと思う。


あとは自分の胸の中にしまうから

だから寝ている時にだけ、伝えよう。




「大好きです」










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