もし、いい相手が見つからなかったら
昼休みの女子トイレでは仕事とか恋愛とか……いろんな話がされている。
今日、私はそこで驚くことを聞いてしまった。
「開発の井上課長補佐っていいよね」
「ちょっと怖くない?」
「そうそう、仕事厳しいし」
くすくすと笑う声の中に、他の声が響く。
「私もそう思うな。やっぱり素敵。うちの会社では一番格好いいよ」
その声で周りの空気が変わった。
「っていうか、スーツ姿いいよね。社内で1番スーツが似合う」
「わかる。スタイルいいよね」
「私、あの少し冷たい感じも好きだけど」
いつの間にか会話に参加する人が増えて、みんながあの人を褒めている。
どういうこと?
少し前まで井上颯斗といえば怖い上司で、見た目はいいけど一緒に働きたくない人だったはず。
いつの間にこんな流れになったのか、仕事ばかりしていたからわからない。
女子トイレの中ではひとしきり盛り上がった後で、一人が首を傾げた。
「でも、最近前より優しい気がする。他にもそう言ってた子がいたよ」
ドキッとしてする。
あの人は元からとても優しい人で………みんながそれに気がついただけ。
最近、ではない。優しいのも素敵なのも。
でもそれは私しか知らないことだったのに、いつの間にか……みんなが知っている。
それに胸がモヤモヤする。
この気持ちが寂しさなのか、失望なのか、わからない。
ぼんやりしていると一際大きな声が上がった。
「いいことあったんじゃない?彼女ができたとか」
「え、あの人に彼女いないとかないでしょう」
「じゃあ、本命ができたとか」
うわーと盛り上がって、また甲高い声が上がる。
「ああ言うタイプが、彼女にはめちゃくちゃ優しかったりして」
「ありうる!」
全員の揃った声がトイレに響く。
これ以上聞いていられなくて、私は逃げるようにそこから出た。
******
「なんだよ、一体」
食後にソファでのんびりしている井上颯斗を隣からじっと見ていると、眉を寄せた。
「ジロジロ見るな」
「ちょっと気になって」
「何が気になるんだよ」
「……なんでもないです」
「なんだよ、それ」
昼間みんながやっぱり素敵だと言ってたから、つい………確認のため。
まあ、わかっていたことだけど。
この人が格好いいのも、素敵なのも、優しいのも。
井上颯斗はタブレットをテーブルに置くと、私の額を指で弾いた。
「いったい!」
「何があったか、言え」
その尋問するような言い方と迫ってくる威圧感に、私は渋々口を開いた。
「井上さん、最近女子社員から人気です」
「……は?」
たっぷり10秒くらいの間、井上颯斗は驚いて、思いも寄らないことを言われたって感じだった。
その顔を覗き込む。
「聞いてます?」
そう、腕をつついたら、我に返ったように顔を逸らせた。
「そんなことか」
今度は私が驚く番だった。
さすが、モテる男は違う。
「そんなこと、じゃないです。めちゃくちゃ人気でした。実際どうですか?誘われたりしてますか?」
私は体を寄せて、井上颯斗の顔を見ながら肩をゆする。
この人が首を振る。
「今までと変わらない」
「えっ、今までもモテてたんですね?なら、これからはもっとすごいです」
「うるさい。別にモテなくていい」
私は目を丸くする。
モテる人、怖い。
モテなくていい、とか、どの口が言うのか。
非モテ女子としては聞き捨てならない。
「なんか感じ悪い」
思わず目の前の腕をガシッと掴んだ。
「そりゃあ、井上さんならモテるのは当たり前かもしれないけど、普通はそうではないですからね!」
「勝手にそう思ってればいい」
井上颯斗は肩をすくめて私を見た。
「そういう石田はどうなんだよ」
「え?私?」
井上颯斗は体の向きを変えて、私の肩に自分の腕を回すとぐいっと私の体を自分へと引き寄せた。
さっき見ていた綺麗な顔が目の前にくる。
まつ毛が揺れる。
黒い瞳がじっと私の中を覗き込んで、視線が絡んで……
心臓が反射的にドクンと鳴る。
「石田は見つかったのか?」
「え?何が?」
言いにくそうに井上颯斗が口を開いた。
「その……親を納得させられる結婚相手は」
胸がちくりと痛む。
この間、夜に板倉さんから電話が来て、リビングでこの人と話していた時だったから、聞かれたくなくてベランダに出た。この人も時々そうする時があったから、真似ただけ。
でも、それを気にしているような気がした。
だって、電話中に目があったし、その後少し無愛想だったし、
気のせいかと思ったけれど………やっぱり、気にしていたんだ。
「何も……ないです」
「山下は?」
「は?山下くん?」
思いがけない名前が出て驚く。
山下くんは可愛い後輩枠で、いつも私を気にしてくれるよくできた後輩だ。
「山下くんはいい後輩ですよ」
「本当か?……後は?」
急に尋問を受けてオドオドする。
板倉さんのことがあるから、後ろめたい。
「まあ、その、親がうるさいので………」
隣で空気がピシリと固まったように感じた。
肩に回った腕に力がこもった。
「あのさ、石田」
「はい?」
視線があって、それを逸らしかけて……もう一度見つめてくる。
ものすごく迷う様子に、今度は私が戸惑う。
はっきりしているこの人にこんなこと、珍しい。
「この間も言っただろ?あの話…」
どの話だ?と思っていると、井上颯斗が私の顔を覗く。
「もし……いい相手が見つからなかったら」
目の前の顔がとても真剣で。
いつもよりずっと真剣に見える目の奥に、見たことないくらい強い感情が見える。
こんな顔、見たことがない。
「俺が…」
「え?」
井上颯斗は私の目をじっと見つめた。
肩に回ったのと反対の手が、そっと私の顎にかかる。
この間のことを思い出して、ドキッとする。
今は二人とも座っているだけで、それ以外はあの時と同じだった。
酔っていたとはいえ
キスしそうになった、あの時と。
「俺が、石田の………」
この人が、
私の………?
その親指が、そっと私の下唇に触れた時、
私たちの間に割って入るように電子音がなった。
見ると、テーブルの上のスマホが鳴っている。
私のではない、井上颯斗のものだった。
苦い顔で体を離すとスマホに手を伸ばす。電話を持って立ち上がるとベランダに出た。
その体がベランダに出たのを確認して、息を吐いた。
何、今の。
この間と、同じ……。
体が離れても、胸のドキドキがおさまらない。
聞こえてくる声と表情からは、あまり良い話ではなさそうだけど……。
じっと見ていたら、不意に私を見たから、視線があった。
さっきの真剣な顔が頭から離れない。
どうしてあんなことをしたのか
……あの後、何を言おうとしたのか。
触れられた唇にそっと手を当てる。そこだけ熱を持ったように熱く感じた。
最近、私とこの人の距離が縮まった気がする。
気がする、じゃない。前よりも一歩分、確実に近くなった。
それがいつからか、わかる。
あの、この人が酔っ払って帰ってきた日。
あれから、変わった。
この人は当たり前のように私の体に触れるし、
私はそれを嫌だと思っていない。
それに、自分でも信じられない。
少しして井上颯斗は電話を終えると、私を見つめる。
「急なトラブルで、会社に戻らないといけなくなった」
私は腰を浮かせた。
「え、トラブル?」
井上颯斗は頷くと、自分の部屋へ入ってあっという間にシャツとパンツに着替えて、ジャケットを手にして出てきた。
もう完全に仕事仕様だ。
「俺は会社に行く。戻れないかもしれないから、気にせず休んでいい」
「そんなにかかりますか?」
「海外支社のトラブルで時間がかかりそうだ」
だけどそれに驚く。
その話、開発部には何の関係もない。
「システムのことですか?」
「いや、システムではない」
「それで開発の井上さんが行くんですか?どうして?」
システム関係でもない海外トラブルなんて開発には全く無関係。電話がくるのも、会社に行くのもおかしい。
しかもわざわざ井上さんが?
それに対する答えはとても歯切れが悪かった。
「いろんな事情があるから。とりあえず行く」
「じゃあ、私が行きます。誰でもいいなら私でいいですよね」
そう言って立ち上がったら、井上颯斗はとても困った顔をして私の前に手を出した。
「俺に連絡して石田が行ったら、周りは変なことを考えるだろ?」
言われてあっと気がついた。
確かにそうだ。
それって一緒に住んでいるか、住んでいなくても、少なくても一緒にいないとダメで
今が23時だとすると、そんな時間に一緒にいる男女って
………ほぼ、付き合っているよね。
だけど、なんだか嫌な気持ちで、私はついその袖を掴んだ。
「もう、行くんですか?」
「仕事だから」
「明日は休みなのに」
その唇が弧を描いて、笑顔になる。
困ったような顔だった。
手が伸びてきて、私の頭を撫でた。
「終わったら帰るよ」
そう言って、出かけて行った。
だけどその後にきたメッセージには、
「今日は帰れなくなった」
「明日は帰る」
そっけない言葉が並んでいて、私を落ち込ませた。
最後の
「おやすみ」
の文字をそっと指で辿る。
その夜、私はなかなか寝付けなかった。
で、眠れなかった私は、いつもよりもずっと朝早く目覚めてしまって……。
翌日の土曜日の朝。それも9時の少し前に、私は会社の廊下を歩いていた。
別に休みの日に自分の会社にいても、問題はない。だけど私は人目を避けるようにしている。
手には小さめの紙袋。
中には卵焼きのサンドイッチが入っている。
つまり、差し入れだ。
帰れないくらい仕事が忙しかったのだから手伝いと、それから何も食べていないかもしれないから、朝ごはん。
そんなのは全部言い訳で、ただ、気になるだけかもしれない。
もはや自分の所属部署のような開発部の中に入って、奥の井上颯斗の机の横を曲がったところに仮眠室を目指す。
昨日は帰らなかったから、ここにいるはず。
井上颯斗のデスクにバッグとジャケットがあるのを見て安心する。
ないとは思うけど、会社の用事が他の女性の家に行く言い訳ってこともないわけではない。
もしそうなら、ものすごくショックで立ち直れなくなる予感がした。
勇気を振り絞って、私はドアをノックした。




