本当の名前
「井上さん……?」
井上颯斗はベッドに膝立ちになると、私の両手首を掴んでベッドのシーツに縫いとめるように押さえた。
そして上からじっと私を見下ろす。
その視線にはいつもの鋭さのかけらもない。
少し……とろんとしていて、どこか眩しそうに目を細めている。顔はほんのり赤くて、目元はそれよりもさらに赤みが強かった。
下を見下ろすその目に、長いまつ毛が影を作る。
酔っているせいか、顔が赤いせいか、直視できないほど色っぽい。
多分きっと………いや、絶対に酔っている。
それはわかる。
わかるけど……
じっと私をみるくせに、何も言わない。
そのくせ、私を解放もしてくれない。
だけど私も、離してという事もできない。
私の左手首を掴んでいた手が離れて、その手がそっと私の頬へあてられた。
その熱い手が頬を撫でると、背中がゾクゾクした。
それは、驚いているせいじゃない。
「石田……」
酔っているとわかっているのに、その目が真剣に思えてしまう。
その手が私の頬から、髪をかき分けて後頭部に回って、また頬に戻る。
戻ってきた手が、そっと頬を包んで………、
そして、その親指が私の下唇に触れた。
「い……いのうえさ……」
静かにその指が私の下唇の輪郭を辿るように撫でる。
ゆっくりと触れた後で、真ん中に戻って……ふに、とそこを少し強めに押した。
弱すぎないその力で、唇の形が変わる。
「……石田」
まるでため息を吐くように、悩ましげに私の名前を呼ぶ。
その時には、この人の両手は私の手から離れていたから、その気になれば私はここから逃げられるはずなのに、体が動かない。
見下ろしてくる目に囚われてしまったみたいに、体が………
動かせない。
自分の心臓が今までで一番、早く打っているのを感じている。
「石田……」
名前を呼ばれて、私の心臓が反応する。
「俺が……」
俺が?
「俺が、絶対……」
絶対?
だけどそこでこの人は目の前の目を閉じると、小さく息を吐いて
そして……口元を緩めて笑った。
その笑顔が存外穏やかでキレイだったから、胸がぎゅっと掴まれたみたいになった。
そして目を開いたこの人は手を伸ばすと私の顎に指をかけた。
少し指に力がこもって、顔が上向けられる。
え?
そうして、そのまま、目の前の綺麗な顔が静かに下りてくる。
少しだけ角度を変えて、私の顔に重なるように。
え?
ええ?
「い、井上さん!」
これは………、恋愛経験の乏しい私でもわかる。
これは……
キス、
キス、される………?
逃げようと思うのに、手で押しても体がピクリとも動かない。
その綺麗な顔が静かに近づいてくるのを、じっと見ているしかなくて
だけどその顔が目の前まで迫ってきた時
もう、あとほんの少しで、唇が重なる、という時
「え?」
覆いかぶさっていた体からくたりと力が抜けて、どさりと体がベッドに落ちた。
そう、そのまま私の体の上。
私の顔のすぐ横に、その顔が沈み込んだ。
えええ?
まず最初に、唇が重なることがなかったのは、わかった。
だけど
「井上さん!起きてください!」
上から押し潰されてしまった私は、大声を上げる。
重い!
でも、問題はそこじゃない!こんな体制、困るって!
「井上さん!」
反応がない代わりに、耳元で寝息のようなものが聞こえる。
もしかして………寝た?
今?
こんなところで?
「起きてください!」
背中を叩くけど反応がない。体をどかそうとしても、男の人の体は思っていたよりずっとずっと重いから、どかす事もできない。
だけど慌てているのは私だけで、隣からは、規則的な寝息が聞こえる。
完全に熟睡している…かも。
「もう!」
ムッとした私は、手を伸ばして背中を思い切り引っ叩こうとした。
だけど、そこで急に体の周りに腕が回って、
グルンと体が横向きにされた。
体の向きが変わって、お互い向かい合うような体制で横になる。
そうしてこの人の腕が私の頭を囲って、片手が後頭部に回って私の顔を自分の肩へ押し当てた。
「い、井上さん!」
グイッと両手を胸に当てて距離を取ろうとしたら、反対に私を囲む腕がぎゅうううっと狭まって、より距離が近くなる。
寝ているくせに力が強すぎる。
視線を上げると、目を閉じた井上颯斗が見えた。
「井上さん!起きてください」
まだ同居する前、アクシデントで抱きしめられたことがあった。
あの時の私はそれだけで、心臓が壊れるんじゃないかと思った。
だけど、その時の私に教えてあげたい。
あれは、そんなんじゃない。
今日のはそんなもんじゃない。
今度こそ、私の体は、この人の腕の中で
その腕の強さとか体の重みとか………
これが、抱きしめられるっていうんだよって。
教えてあげたい。
心臓があり得ないくらいバクバクしてキャパオーバー寸前だ。
いや、オーバーしている。
これ以上このままでいたら、心臓がもたない。
急いで体を離そうとしたら、井上颯斗が顔を寄せて、私の首元に顔をすり寄せた。
その拍子に私の首を柔らかいものが掠めて、体が固まった。
その感触が何か
知りたいような、知りたくないような
知ってはいけないような気がした。
今のって…
体を離そうともがく私の手から力が抜ける。
同様に私を拘束していた腕からも力が抜けた。
「い、いのうえさん……?」
返事の代わりに、ただ意味もなく名前を呼ばれる。
「石田……」
それを聞いて、驚いた。
その呼び方が……ものすごく、気持ちが入っているように思えたから。
自分がとても大事にされていると、勘違いしてしまいそうな呼び方だった。
井上颯斗はそのまま私の肩に自分の額をごりごり押し付けて、
そこが落ち着いたのか、そこに頭を寄せたまま、
………今度こそ本当に寝てしまった。
規則正しい呼吸の音が、静かな部屋に響く。
寝てる。
もう本当に、ぐっすり寝ている。
私はその背中に恐る恐る手を伸ばして、広い背中をそっと撫でる。
「井上さん……」
いろんな気持ちを込めて、背中に触れる。
触れたら急に、胸の中からいろんな気持ちが溢れてくる。
うまく言えない。嬉しいとも言うし、そのくせ切ないような
思い切り泣きたいような………たくさんの気持ち。
とてもじゃないけど、受け止めきれないような、たくさんの感情。
でもその一番奥にある気持ちが何か、私にはわかった。
もうすっかり寝ているのを確認して、私はぽつりとつぶやいた。
「私、本当は石田じゃないんですよ」
私の本当の名前は石田ではなくて……
大倉実桜っていう名前です。
「私の本当の名前は………」
そこまで言って私は言葉を飲み込んだ。
こんなことを言っても、何にもならない。
この人に本当の名前を呼ばれることなんて、これから先、絶対にない。
だって、それを言う時は、私たちのお別れの時だから。
せっかくこんな風に呼んでもらったのに、
それが、本当の自分の名前でないなんて……やるせない。
なんだか切なくて、泣いてしまいそうだ。
一度でいいから、私の名前、
ちゃんと呼んでくれないかな。
でもその時は、私たちが別れる時で、
その秘密がきっと私たちの間のたくさんの楽しい思い出も、信頼も………全部なくなってしまう。
だからきっと、その時はこんな風に名前を呼ぶことはないだろう。
悲しいけど。
それでも、いつか本当の名前、呼んでほしいな。
少し間だけでも本当の私を、見てくれないかな。
私は目を閉じると、勇気を出して目の前の肩にそっと寄りかかる。
そうしたら、心なしか腕の拘束が強くなった気がした。
意外にもしっかりしているこの人の体は、私が寄りかかったくらいではびくともしない。
それに甘えて、私はそこで目を閉じた。
そうしないと、泣いてしまいそうだったのだ。
******
「石田」
翌日の朝、この人はいつも通りだった。
二日酔いでもないし、体調も問題なさそうだし
本当にいつもと同じ。
休みの日らしく、いつもより少し遅めの時間に、だけど私が起きてリビングに入ったときにはもうシャワーも浴びてさっぱりしていて、私を見て眉を寄せた。
昨日の夜、あれから必死になってこの人の腕から抜け出した。
だから起きた時はこの人は一人で、私とあんなことがあった痕跡なんて、何もないはず。
それに………私とのことなんて、覚えているはずがない。
なかったことになっているはずだ。
全部。
その証拠にこの人は私に向かって思い切り事務的に話しかけてきた。
「石田」
「おはようございます」
「昨日、遅くなって悪かった」
私も首を振って、いつもと同じように返事した。
「いえ、井上さんが本当にお酒が弱いと思わなかったんで、驚きました」
それに思い切り苦い顔をした。
キッチンでお茶を淹れようとする私の後ろをついてくると、カップを準備する私の手にそっと触れた。
それになんとなく昨日のことを思い出してしまって、体が僅かに硬直する。
顔を上げて心配そうに見つめる目を見返す。
「どうしました?」
「いや……」
珍しく歯切れ悪く答えて、また眉を寄せる。
だから笑って思い切り濃いコーヒーを作ってあげた。
私がソファに座ると、当然のように隣に座って、差し出したコーヒーを飲んで思い切り苦い顔になる。
昨日のお返しだ。
だけど、苦い顔のままじっとこっちを見た。
「昨日の夜、石田と話したような気がするんだが………」
「少し話しましたよ。お酒飲んだって聞きましたし」
「いや、もっと大事な話だった」
悩ましげに首を傾げるこの人に、ドキッとする。
もしかして、少し覚えている?
……それは、困る。
だからさりげなく視線を逸らした。
「今だから言いますけど……実は酔った井上さんを部屋に連れて行った時に、私が思い切りベッドに落としちゃったんです。すみません。でもそれだけです」
視線を戻すと、じっとこっちを見ていたこの人と至近距離で目が合う。
思っていたより近い距離に驚くと、この人は私の驚いたのなんか関係ないって顔をする。
目にかかった私の前髪を片手で横によけると、隠すもののなくなった私の目をじっと見つめてきた。
その目が思いのほか、真剣だった。
「本当にそれだけ?」
あまりにもじっと真剣に見つめてくるから、急に実は全て覚えているんじゃないかって怖くなった。
全部覚えていて、その上で私を試しているんじゃないかって………。
だけどそんなはずない。
この人はじっと私を見て顔を背けると、肩をすくめた。
「気のせいか」
「そうですよ」
私が笑うと首を傾げながら、コーヒーを飲んだ。
その様子はもうすっかりいつもと同じで、ほっとした。
そしてこの人がこの話をすることは、
もう、なかった。
それに安心して………
だけどほんの少し残念な気持ちになった。




