表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/50

楽な生き方

二人きりのテーブルで目の前で話をされたら、聞こえないふりも、無視もできない。

だから私は困って俯いた。


「こうしてって」

「たまに、で構いません。お忙しいと思いますので、時々こうやってお会いしてお話しできればと思って」

そんな必要ないと口を開く前に、板倉さんが続ける。


「もっと私のことも知ってほしいし……実桜さんのことも知りたいと思います」


笑っているけど、冗談ですよねと笑って終わりにできない空気があった。

本気なのだ。とても。



私は少し悩んで、それから口を開いた。


「板倉さんが知りたいのは、仕事や会社のことで私じゃないと思います」


それに驚いたような顔をして、だけどすぐに口元を緩めて苦笑いした。


その表情にこの人の本当の姿が見えた気がした。


遠慮とか、私の機嫌を取ろうとする気持ちが消えたように思う。

その証拠に、口調が砕けたものになって、視線も踏み込んだものに変わる。


「そんなことないですよ」

「どうですかね」

つい、可愛くないことを言う私を横目で見る。

「今まではそうでもありませんでしたが……、正直な話、実桜さんに興味が湧きました」


正直すぎる。

それってつまり、今までは興味がなかったってことじゃないか。


「どう言うことですか?」

それにうーんと考え込むような顔になった。

「実桜さん、変わりましたよね」

「どこが?」

「うまく言えませんが……雰囲気が変わりましたね。以前とは全く違います」


何も変わったつもりはない。

だから正直にそう言った。


「別に変わっていませんけど」


「いや、変わりました」


自信満々に板倉さんは言い切った。


「前はもっとお嬢さまって感じでふわっとしていましたけど……」

おもしろそうに目を細めるから、ムッとして睨み返すと、嬉しそうな顔になった。

「ほら、今みたいに」

その反応を見て自分がまずい方向に動いてしまったことを自覚する。


板倉さんは楽しそうに私を見た。


「一本、筋が通ったというか……強くなった気がします。だから気になりますね」

「なにが?」

「何が実桜さんを変えたのか……仕事なのか、それとも何か別のものか、友人か……それとも恋人か」

最後に私を意味深な目で見つめた。


残念ながら、恋人なんていません。


そう答えようとしたら、ふっと頭の中に浮かんだ顔があった。



紛れもないただの同居人の顔が。



どうかしている。




頭を振ってその顔を追い出して、板倉さんに向き直った時、視線があった。

そのじっと見つめてくる目が、まるで私の頭の中を覗いたかのように感じてしまった。


「ほら、今誰かを思い出したんじゃないですか?」

「……そんなことないです」

「素直ですよね、実桜さんは。嘘が下手だ」

言い返そうとして、口をつぐむ。


ああ、どうせ下手ですよ。

だって、みんながそう言うから。

きっと本当に下手なんでしょうね。


「だから今は実桜さんに興味があります」

「私は板倉さんに興味がないです」

やけになって言い返すと、今度はぷっと笑われる。

「お世辞で好きだと言われるより、そっちの方がいいですね」


反論しようとして顔を上げたら、板倉さんはスッと真剣な顔になった。



「嫌かもしれませんが、多分、あなたと結婚するのは、僕ですよ」



見たくない現実を目の当たりにされて、ムッとする。

「だから、なんですか」

「絶対に幸せにしますし、結婚したことを後悔させないです」


ものすごい自信だな。

素直に頷いたりなんて、できない。


「でも周りに決められた結婚でもお互いを思い合えたらいいと思っています。つまらない結婚生活は僕も御免です」

じっと私を見た。

「そのために、今から僕のことを知ってもらいたいんですよね」



店内のざわめきが、急に静かになった気がする。

板倉さんの声だけが耳に届くように感じた。



「会社とか家のことを忘れて、一人の人間として僕を見て……僕を好きになる努力をしてもらえませんか?」

「努力って」

「例えば……、あんな形でなくて、ごく普通に会社で出会って一緒に働いていたら、僕にどんな気持ちを持ってくれましたか?そういう気持ちで向き合って欲しいんです」


そんなの、わかるはずない。

だって、もう出会ってしまったのだから。

やり直しなんて、できない。


「立場とか、会社のこととか、いろんなことを全部忘れて、僕という人間のことだけを考えてみてくれませんか?」


板倉さんは私を見て笑った。


その顔は男性らしく精悍で、

顔だけでなくてスタイルも良くて、着ているスーツだってセンスがいい。

どう見ても素敵な男性と言える。


もし、この人と、何もないまっさらな状態で出会ったら?

例えば、井上颯斗みたいに会社で出会って、一緒に仕事をして、食事をしたり、お互いの話をしたりして

そうやって少しずつ知り合っていったら………?


私はこの人のことを、どう思ったのだろう。



だけどその時の私には、視線を逸らせることしかできなかった。

だって、そんなの………わからないよ。




確かにこの人のいうように、私はこの人と結婚するのだろう。

いま恋人もいないし、もし恋人ができてもその人があのお父さんを納得させるとは思えないし。


井上颯斗とやっている仕事のことは、お父さんには絶対に言えない。

もし、その仕事がとてもいいもので、世間的にいい評価を得られても………お父さんはそれを認めてくれるだろうか。

そんなこと、あり得ない。


だから、あの人が頑張ってくれても………だめなのだ。



そんな現実を考えたら、いつまでも意地になっていないで

歩みよる努力をする方がいいのかもしれない。

変に意地を張り続けるより、少しずつでも距離を縮めていけば

いずれ始まる二人の生活も、ずっとやりやすい。



周りがいうように、この人はきっと私を大事にしてくれるだろうし




この人を好きになったら……

目の前にある未来を素直に受け入れたら……



頑張らなくてもいいし、大きな秘密を持つこともないし、

誰かに嘘をつかなくてもいい。



そうしたら……

もしかしたら、私は今よりずっと、楽なのかな。





私は黙って俯いた。


混乱する頭の中でふと浮かんだのは、さっきも浮かんできた顔だった。



今の生活で一番長い時間を一緒に過ごしているのはあの人で


ほんの数時間前まで一緒にいたのに


なんだかどうしようもなく、会いたかった。






******


「ごちそうさまでした」

店を出て私は板倉さんに頭を下げる。


奢られるのは避けたかったけど、やっぱり払わせてくれなかった。

駅まで並んで歩きながら、隣から声がした。


「またお誘いしても………いいですよね?」

断ると思っていない、誘い方。

断りたいけど、断れない。



黙っていたら、くすくす笑う声がした。


「そんなに断りたいって顔をしなくても」

「そんな顔はしてません!」

板倉さんが立ち止まって笑うから、私もつられて立ち止まる。




だけどそこで、これも向こうの思い通りだったと気がついた。

だって板倉さんは立ち止まったまま、じっと私を見つめたから。


私を引き止めるために、やったんだ。



「また、連絡しますよ」


「……」


今度こそ黙ったままでいたら、今度は笑わなかった。


「さっき言ったこと、前向きに考えてもらえませんか?」


どこか遠いところから声が聞こえているような気がする。



あと1年もしないうちに、私たちが結婚する、なんて、考えられない。

でも、きっと決まってしまう。



だって、この結婚に反対するのは

私以外、誰もいない。




「じゃあ。また連絡します」


それに頷くしかないことはわかっていて、だから覚悟を決めた時だった。



チリン、と自転車のベルの音がした。

振り返ろうとした時、私に向かってものすごい速さで自転車が走ってくるのが見えた。


「危ない!」


隣から伸びてきた手が、私の手を掴んだ。










評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ