休日の仕事の理由
ほんの数時間前。私たちはホテルの近くの地下鉄の駅前で別れた。
昨日の夜、明日は親戚と食事に行くと言ったら、井上颯斗も実家の用事があるらしく、車で送ってもらったのだ。
「じゃあ、井上さんも楽しんできてください」
休日なのにスーツを着た井上颯斗は私の言葉に、苦い顔をした。
「俺は仕事だ」
「そうなんですか?」
確かにスーツだし、……仕事か。
だけどものすごく苦い顔をしている。以前にもこんな顔を見たと思った。
仕事人間なら、休日の仕事なんて最高に楽しいイベントなのではないだろうか。
難しい。
「石田が終わるころ、迎えに来るよ。連絡する」
「そんなに早く終わるんですか?」
仕事中に申し訳ないと遠回しに断ると
「食事するだけだ」
ため息と共に返事した。
よっぽどこの仕事が嫌なのか。
だから、励ましのつもりで
「終わったらドライブにでも行きませんか?」
と言った。
馬鹿を言うなと怒られるかと思ったのに、
「せっかくの休日だし、遠出するのもいいな」
まさかの乗り気だ。
冗談だと断ると、井上颯斗は真面目な顔で私を見た。
「いや、石田とドライブの方がいい」
その言葉にドキッとする。
たとえそれが嫌な仕事でも、私を選ぶと言われたようで、過剰反応してしまう。
どこに行くか考え始めたこの人を、これで仕事は大丈夫かと心配しながら、車を降りた。
そうは言っても仕事優先だと思っていたから、本当に電話が来た事に驚いた。待ち合わせ場所につくと、すでに車は停まっていて、ドアを開けて乗り込む。
井上颯斗はネクタイを外して、疲れた顔をしていた。
私は持っていた紙袋を持ち上げる。
中身は昼食を食べたホテルオリジナルの紅茶で、美味しいと評判だと聞いて、紅茶派のこの人にピッタリだとつい買ってしまった。
喜んでくれるといいな。
「お土産です」
「ありがとう………俺もあるんだ」
そう言って後部座席を見ると、ケーキらしき箱があった。紙袋には有名なホテルの名前が書いてある。このホテルのケーキといえば、テレビや雑誌で取り上げられて人気で即完売する。
大きいフルーツがゴロゴロ入っておいしいくて……だけど値段も高いことで有名。
食べてみたかったけど、なかなか機会がなかった。
すごい。嬉しい。
「ここのケーキ、有名らしいから買ってみた。石田は甘いもの好きだろ?」
「大好きです。それにこのケーキ、大人気で、滅多に買えないんですよ、すごい!」
思わず笑顔になって……
そこではた、と気がついた。
このケーキのホテルって庭がきれいな事で有名で……、そのせいかお見合いにピッタリと言われているホテルで………
実は私と板倉さんがお見合いしたのも、このホテルだった。
ピンときた。
休日にスーツでホテルって、
家族の用事って
もしかして……
お見合い?
つい、隣をじっと見る。井上颯斗は眉を寄せる。
「なんだよ」
「もしかして……お見合いですか?」
返事は聞かなくてもすぐにわかった。
だって井上颯斗の顔が思い切り苦いものになったから。
それが事実だとわかったら………
急に胸に重しが載ったみたいに、グンと重くなった。
お見合い。
この人が。
慌てたようにこの人が口を開く。
「少し前に家族に頼み事をしたら、交換条件で出された話だ。俺が希望したわけではない」
「はあ」
「実家の仕事の関係で、どうしても断れなかった。だから、これはお見合いというより……本当に仕事だ」
早口で頼んでもいないのに詳しく説明してくれる。
それはそれで、まるで言い訳みたいだ。
だけど私はもやもやして、うまく返事できない。
笑うことを忘れてしまったみたいに、不機嫌な顔しかできない。
だって、お見合いだったなんて。
今日はいつもと違う華やかな印象のスーツだったから、アレ?と思ったのだ。仕事なのにって。
それから……初めて私にネクタイはどっちがいいのかと聞いてきたから、張り切って一生懸命悩んで、一番似合うものにした。
でも、お見合いのため、だったなんて。
このネクタイ、いいなって思ってたのに。
似合っているなって思って、だから選んだのに。
急にイラっとした。
無神経。
私にも、お見合い相手にも失礼だ。
お見合いに行くのに、他の女性にネクタイを選ばせて
しかも、仕事なんて言って嫌そうな顔をして………。
黙った私を、気遣うような声がした。
「石田?どうした?」
「……何でもないです」
「なんでもないって顔じゃないだろう」
車を発進させようとしていた井上颯斗は手を止めて、私の顔を覗き込む。
顔を見られたくなくて、とっさに窓に向けた。
「そんな態度は相手に失礼です……相手の人がそれを知ったら、悲しくなると思います」
後ろではっと息をのむ気配がした。
私は板倉さんとのお見合いで、ものすごく嫌な思いをした。
それ以降、お見合いが嫌で…
それをこの人は知っているし、そこに何かあることに気が付いたかも。
少しして肩に手が載った。
「今日の相手は実家の仕事に関係のある会社の娘さんだ。何かの会で俺を見て会いたいと騒いで……嫌だと言ったのに、相手も引かなくて、家族に強く言ってきて………正直、実家も困っていた」
そうだよね、こんなに格好いい人なら……
また会いたいと思っても、何か力を使って会いたいと願っても、おかしくない。
「人の気持ちも無視してわがままを言う人間の相手はしたくないが、兄弟が困っているから引き受けた」
それでも黙っていると、もう一度肩を叩かれた。
強めに叩いて、それから軽く撫でるように叩かれる。
まるで閉ざしたドアをノックするみたいに。
「でも……悪い。気遣いが足りなかった」
ゆっくり振り返ると、視線があう。
いつも自信に満ち溢れているこの人の目が、ほんの少しだけ揺らいで見える。
返事をしないといけないと思うのに、できない。
どうしたんだろう。
この人だって無理にやらされたことだとわかったのに
気持ちが凍ってしまったみたいに、何も考えられない。
こんな風になってしまう、自分の気持ちがわからない。
どうして私、こんなに……
だけどそこで、俯いていた私の頭を、井上颯斗が思い切りぐしゃぐしゃにした。
「ひゃ!」
「いい加減、機嫌を直せ」
思い切り私の頭を乱した後で、息を吐く。
「彼女とのことは断るし………、もう、こんなことはしない。これが最後だ」
「本当に?」
「本当だ」
そう言って、仕事の時のように真剣な顔で私を見る。
呆れているようにも、困り果てたようにも見える顔に、私は静かに頷いた。
「わかりました」
井上颯斗が安心したように息を吐く。
つられて私も息を吐いた。
だけど……おかしい。
結婚しないと言われて、まるでそれに、安心したみたい。
重くて苦しいくらいだった私の胸も少しだけ、軽くなった気がする。
私……性格悪い。
一体、どうしてしまったのだ。
悩む私の頭を、井上颯斗がポンと軽く叩いた。
そして視線が合うと、しっかりと頷く。
「それに……俺には責任を取らなきゃいけないこともあるからな」
「………責任?」
どこに何の責任を取るというのだろう?
眉を寄せる私を見て、井上颯斗は顔を苦いものにして、肩を落とした。
「もう、いい。……気にするな」
そう言って車を静かに発進させた。
「石田の行きたいところに行こう。どこがいい?海なら高速乗ればすぐだし、買い物でもいい」
少し考えて、私は遠慮がちに返事した。
「……家に帰りたいです」
前を向いたまま、井上颯斗はとても驚いた顔をした。
「いいのか?」
私は黙って頷いた。
できれば
家でゆっくりのんびりしたい。
紅茶とケーキでお茶をして
この人となんでもない時間を過ごしたい。
そうしていたら、この胸のモヤモヤも取れる気がする。
「家でケーキを食べてゆっくりしたいです」
その提案に井上颯斗は頷いた。
「そうだな。紅茶もあるし」
この人の気持ちが傾いているのを見て、ここぞとばかりに私は強く押した。
「そうですよ。家が一番です」
それに小さな笑い声が聞こえた。
信号待ちで車を停めると、井上颯斗は私を見た。
そして私が着ているワンピースの袖を指で摘んで、またすぐに手を離した。
「せっかくおしゃれしているのに、また家に帰るのか」
「え?」
「……これを着ている時、いつも石田は出かけられないな。せっかくの休みなのに」
そうだろうか?
前は飲み会だったのが、行けなくなって残業した。
今日はお出かけ予定だったけど、家に帰ることになった。
確かに飲み会は行けなくなったけど、もう忘れるくらい気にしていない。
今日も私はランチを楽しんだから、満足している。
別に家で二人で過ごすのは、嫌いではない。
むしろ、気に入っている。
だから、今日も早く帰りたい。
信号が変わる直前に、井上颯斗は私をみて笑った。
「また、買いに行くか」
「え?」
「そろそろ季節も変わるしな」
その時のことを私は冗談だと思っていたけれど、
この人は本当に私に新しい洋服を買ってくれた。
運悪く、前回と同じ店員さんがいて………
その生温かい視線と態度に、思い切り居心地が悪かった。
「本当に優しい彼氏さんですね」
それに曖昧な返事をしながら、苦笑いする。
あの人は………
優しい同居人です。




