約束
目の前の黒い瞳がちょっと開かれた。
顔を逸らせて何か言おうとするのを遮るように、私はもう一度、口を開いた。
「絶対に裏切らないって、約束します」
だけどその目が逸される。
小さく息を吐いた。
「何をそんなに大げさに」
「おおげさじゃないです。いま私が言ったことを、忘れないでください。大切なことなんです」
私の言葉の意味を、今はわからなくていい。
だけどいつか、わかるはず。
その時まで、忘れないで。
井上颯斗は口を開いて何かを言おうとして、口を閉じる。
そのまま一度目を閉じて、すぐに開いた。
その目はもう、迷っていなかった。
強い光のこもった瞳を私に向ける。
私たちの視線がかっちりと合った。
それが思っていたよりずっと嬉しくて、だからつい口を開いたとき、おでこをびしっと指で弾かれた。
「いたっ!」
今までの非じゃないくらいの痛さに、おでこに手を当てる。
「さっきの言葉、本気で言ってるんだろうな」
「本気です。言ったからには、ちゃんとやります」
確かめるように私の目を見る。だから私もじっと見つめ返す。
「……わかった」
井上颯斗は自分の隣の椅子を引き出すと、隣を指差して私を見た。
「急いでパソコン持ってこい。遊んでる時間はない。覚悟しろ」
その飾りも気遣いもない言い方に、私は笑顔になる。
これ、これだよ。
この人が仕事する時はいつもこんな感じで
冷たい言い方も、そっけない態度も全部、通常運転だ。
だけど今日の朝みたいな態度より、ずっといい。
私は大きく頷いた。
「はい」
「だけど、その前に」
そして私を見た。
視線があって、それを逸らして気まずそうになる。
「飲み会はちゃんと断ってから来い」
私はふふんと胸を張った。
「もう断りました」
井上颯斗は目を丸くした。
「ここに来る前に断りました。ちゃんと代理も見つけましたからね」
そう、今日の飲み会にいきたいと言っていた後輩の子に譲ったのだ。
幹事も文句は言わずにOKしてくれたし、全て丸く収まっている。
私の顔を見て、井上颯斗はすぐに呆れた顔になった。
「じゃあ、早くパソコンもってこい」
「はい!」
そう言って私は走って部屋を出た。
この人がやっていたのは、例の早朝の会議に新商品の開発プランを提出するための資料作りだった。
正直、ほぼゼロからのスタートで、かなり大変だった。
井上颯斗の頭の中から出るものを、二人で形や文字にしていく。
恐ろしいのはほぼ完成形で頭の中から出てくること。
この人の頭の中には驚く程いろんなことが詰まっていて、言葉にするのが間に合わないくらいで……
いろんな仕事をこなしながら、ずっと頭の中でいろんなことを考えていたんだと思うと、尊敬する。
私がまだ見たことのなかった、この人の一面。
かなり本気で仕事しているのを、初めて見た。
でもその姿はやっぱりとても、イキイキしていて……
なんだかまぶしかった。
だけど、それは同時に大きな問題でもある。
つまり、私はついに、青柳の機密情報に触れてしまったのだ。
誰も知らない最新情報を知る。……一番恐れていたこと。
もうしばらく大倉の家には帰れない。
少なくても、これが世の中に出るまでは帰れないし、お父さんに会うことはできない。
でも、それだけじゃない。
私の秘密はもう絶対に、青柳の会社のひとには知られてはいけない。
だってそれがバレたら、井上颯斗にも悪影響が出る。
私が、この人を巻き込んだ。
私は絶対に自分の秘密を、
この人を……
守らないといけない。
******
結局家に帰ったのは日付が変わる少し前だった。
いい加減遅い時間だけど、その時間に終わったことが奇跡だ。
「よし、一緒に帰るか」
そう声をかけてくれたのが、どのくらい嬉しかったか、なんて……
うまく言えない。
夜中にどうかしているけど、私たちはカレーを食べた。さすがに夜遅いから、少ない量で。
いつものテーブルでなく、今日はソファの前の床に座って並んで食べる。
豚肉とにんじんとじゃがいものスタンダードなカレーは、たっぷりの玉ねぎをしっかり炒めたことと、スパイスを効かせたせいで、本格的な味に仕上がったと思う。辛すぎないカレーは夜遅くでも、どんどん食べられる。
「うまい」
井上颯斗が一口食べてすぐにそう言ったから、私もほっとした。
普段はテーブルに向かい合って食事するけど、こうして並んで食べるのは、あの牛丼の時以来。
あの時は男性と隣で食事をすることに、実はとても緊張していた。
今となっては懐かしい。
キッチンの大きな鍋を見て井上颯斗が苦笑いした。
「これ一人分じゃないだろ?多すぎる」
「凝って作ったので、私も食べたかったんです」
私はちょっと不満げに言い返した。
たかがカレー、されどカレー。
ちゃんと作ると大変なんだって!
それにたくさん作った方が美味しくなるんだから!
不満そうな私を見て、井上颯斗がクスリと笑った。
「まあ、明日も食べるから、いいか」
「はい」
隣で微笑むその顔にホッとする。
ああ、いつものこの人だって思った。
そんな当たり前のことが、うれしい。
あと少しで、この当たり前が当たり前ではなくなったかもしれないのだ。
考えただけで、怖くなる。
「今日はありがとう。石田がいてくれて助かった」
思わず私は目を丸くしてしまった。
だって、この人がこんなに素直にありがとうというなんて。
信じられない。
井上颯斗は手を伸ばすと、私の洋服の袖をつまんで、すぐにぱっと離した。
呆れたように笑う。
「会社で残業するために買ったわけじゃないけどな」
確かにこんなにおしゃれしておいて、結局残業かと思うと、微妙だ。
でも、それでいい。
私は自分で、そう決めた。
後悔はしていない。
「でもこれを着てたらみんなに褒められました。似合うって」
それにこの人は目を細めた。
「……誰に?」
山下君と言いそうになって慌てて口をつぐんだ。
素直に言ったら山下君に怒られそうだな。
井上さんに殺されるとまで言っていたのに、簡単に教えては山下君も困るはず。
だから誤魔化すことにする。
「……ええと、いろんな人です」
「石田の交友関係は狭いから、それが誰か、すぐにわかる」
……頭のいい人は何でも簡単に答えが分かってしまうから困る。
この場合、問題なのは私の狭い交友関係かもしれないけど。
「いいじゃないですか、井上さんのセンスが良いって褒められているわけだし」
「似合わないものを選ぶはずないだろう。俺のセンスをバカにするな」
それに苦笑いした。
買うときは適当にとか言っていたくせに。
店員さんが選んだものを3パターンくらい見て、「じゃ、これ」と即決で選んだくせに。
まあ、褒められたし、良しとするか。
それに……私だって、この服が気に入っているのも事実。
悔しいから言わないけど。
「……でも、今日の会、本当によかったのか?」
井上颯斗が心配するように見るから、私は慌てて言い返す。
「いいんです。いい仕事できたし、私は満足です」
もし行っても、きっと楽しめなかった。
むしろ、途中で抜けて会社に戻ったかもしれない。
もし人生をやり直すことができて、何回何十回あの場面に戻っても、
私は最終的にこの人のところに行くことを選ぶと思う。
それ以外の選択肢が浮かばないくらい
答えはこの人だった。
「未来の結婚相手に会えたかもしれないのに」
「まあ、いいんです。また飲み会はあるし、運命の人だったら、今日会えなくても、またどこかで出会えますよ」
「都合のいい発想だな」
私は口を尖らせて井上颯斗を見た。
「じゃあ、何が正解なんですか?」
「今を逃したら、次のチャンスはないって考えるのがビジネスの鉄則だ」
それについ、ムッとしてしまう。
手伝って、なぜこんなお説教を食うのだろう。
文句を言うために、ほんの少し体を寄せたら、予想よりずっと、この人が近くにいた。
私とこの人の腕がぶつかる。
顔を上げると、視線があって、黒い瞳がじっと私を見ていた。
「じゃあ、この先私がいい相手に出会えなかったら、井上さんが責任とってくださいね」
その言葉に、井上颯斗ははっきりと固まった。
目を見開いて、言葉を失って……
多分、今まで見た中で1番驚いた顔だった。
だから私の方が、あれ、変なことを言ったかな?と思ってしまった。
こんなに驚かれるようなことを言ったつもりはない。
「え?」
井上颯斗の顔を覗き込む。
「井上さん、どうしました?」
だけどそれを無視して、突然、弾けたように笑いだした。
堪えきれないように笑う姿に驚く。
「ちょっと……井上さん」
だけど止まる気配がないから、ムッとして肩を叩いた。
「笑いすぎじゃないですか?もう」
感じ悪い。
ようやく笑いがおさまると、井上颯斗はいつものように手を伸ばして、
私の頭をぐしゃっと撫でた。
「わかった。約束する」
そして顔を私の目の前に寄せて……笑った。
それはとても綺麗な笑顔で。
思わず私はそれに見惚れてしまう。
何というか………
まるで大切な恋人に見せるような笑顔だった。
ただの同居人に見せていい顔じゃない。
だけど、そんなとびきりの笑顔で、この人は私の頭を撫でると
「その時はちゃんと責任をとってやるから安心しろ」
確かに、そう、言った。




