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私が私に戻る時

走って会議室までくると、その勢いで大きな音を立ててドアを開けた。

さほど大きくない会議室の中で井上颯斗は一人で仕事をしていて、ドアの空いた音に視線を上げて眉を寄せた。


そしてうっとおしいというように顔を逸らせる。

「うるさい。ドアはもっと静かに開けろ」

それを無視して、私は勢いよく歩いて、あの人が座る机に勢いよくどんと両手をついた。


真っ黒い切れ長の瞳がじっと私を見る。

その目の奥の感情はわからない。けれど、私がここにいるのを良く思っていないことは伝わった。

超絶不機嫌、という言葉が頭の中をかすめた。


だけど……私も猛烈に腹が立っていた。


この人が一人で仕事をしている事にも、その仕事を私に言わなかったことにも怒っていた。


でも、よく考えたら当然だ。

だって私は開発の仕事はやる気がないからやりたくないとまで言ったのだ。

そして、そんな私にこの人はもうこの話はしないと宣言した。


この人にとっては終わった話なのだ。


なのに、勝手に私のために動くなんて、どうかしている。

だから私には、それを知る権利も文句を言う権利もある。


「どうして一人でやっているんですか?」

井上颯斗は冷静な顔でじっと私を見つめ返して……うんざりしたように息を吐いた。




その冷たい視線やこれ以上話しかけるなと伝えてくる空気に、初めて会った時のことを思い出した。

そう、最初はこんなだったよ。


それが少しずつ話すのに慣れて、一緒にいても怖くなくなって、今はもう、一緒にご飯を食べることもできるし、冗談みたいなことも言い合えるし、この人の前で私はいとも簡単に泣いてしまう。


もし、いま何か嬉しいことや辛いことがあったら、この人に真っ先に話す気がする。

美味しいものを食べたら、一番にこの人の顔が浮かぶと思う。

今度はこの人と一緒に食べようって考える気がするのだ。


それって……

自分が思うよりもずっと、私がこの人を信用している証拠だと思う。




「どうしてって、これは俺の仕事だ」

「でも、色々大変だったんですよね?だったら……」

井上颯斗は片手を上げて私の言葉を遮った。

そのまま壁にかけた時計を指差す。


「もう出かけないとまずいだろ」

眉を寄せて私を見る。

「未来の結婚相手が逃げるぞ。早く行け」

そうしてパソコンに向き直ろうとしたから、とっさに私はその画面の前に掌を出した。

私の手に邪魔をされて本格的にムッとした顔になる。



「行きません。井上さんが終わるまで、私も行きません」

今度は面倒そうな顔をする。


「これは俺の仕事だから俺が一人でやる。それがいちばん早いし、確実だ」

「システム障害で大変だったって聞きました。その後で一人だと大変なんじゃないかって思って」

「関係ない。一人でできる」

「でも、時間がかかりますよね?」

顔を上げて、私を見ると皮肉げに笑った。

「時間を気にする必要なんてどこにもない。夜はまだ長いし、それに……家に帰っても今日は一人だからな」

それに胸がずんと重くなった。

井上颯斗は息を吐いた。

「終わらなかったら、泊まる。明日は早いしな。だから今日は気にせず楽しんでこい」


私は唇を噛み締めた。

「じゃあ……カレーは?」

「カレー?」

井上颯斗はその質問に驚いた顔をした。


「あのカレー、すごい時間かけて作ったんです。玉ねぎもちゃんと飴色になるまで炒めて、新しいスパイスもいれてお店のカレーに負けないように作ったんです。だから食べないとか絶対、ない。……あり得ないです」


昨日の夜、丁寧にカレーを作った。

美味しいって思ってもらえるように……

この人に食べて欲しくて、この人のことを考えて作った。




視線があうと、井上颯斗はすぐに逸らせた。

「わかった。帰ったら食べる。帰らなかったら、明日食べる。それでいいだろ?」

「ちゃんと今日中に食べてください。今日、帰ってきますよね?」

帰ってこない気がして聞くと、しつこい私に呆れたのか、うんざりした顔をした。

「終わったら帰る。それより、俺のことはもういいから、早く行け」


そうして私を見る。

「せっかく綺麗にしてるんだから、早く行ってこいよ」

背けた横顔から、拒絶が伝わる。


私は首を横に振った。

息を吸って、一息に言った。




「私にも手伝わせてください」




井上颯斗が見たこともないくらい驚いた顔になる。


「何を……」

「私もやります」

「やらなくていい」

井上颯斗はキッパリと断った。


そのまま指で机の上に散らばった紙を指でトントンと叩いた。

視線を上げて私を見る。


「これは新しいシステムとそれを搭載する新しい機械の話だ。……言いたいことはわかるだろ?」

私の目をじっと見つめる。


「石田には開発の仕事をどうしてもやりたくない理由がある。でも、理由を言いたくない。つまり、それぐらい重大な理由ってことなんだろう?だけど、俺が今やっているのはきっと、その言いたくない理由に関係するものだ」

顔を上げて私の顔を覗き込む。

確信に満ちた顔に、私の考えが読まれていると実感する。


「それはよくわかったから、もう石田には頼まないと決めた。やりたくない仕事を無理にやらせるつもりはない」

そう言って深く息を吐いた。


「それに、今日は仕事よりも大事な事があるだろう。優先順位をまちがえるな」


その突き放すような言い方に、ムッとした。

だけど、そんなことを言わせた自分にもっと苛立った。



違う。

優先順位はまちがってない。



私は井上颯斗の顔を見た。

真っ黒い瞳をじっと覗き込んで、息を吸った。

「やります」

そう、キッパリと宣言した。

「私に井上さんの仕事を手伝わせてください」

今度こそ、井上颯斗が息を飲んだのが分かった。



自分が言ったことの重大さを、よく分かっている。

青柳の中でも、まだ井上颯斗しか知らない機密情報を、私が知ろうとしている。


この会社の一番大切なことを、

ライバル会社の娘の、私が知る。


それがどれだけ問題になるか、わかっている。

覚悟している。



今の私には、あの家でこの人と暮らす今の生活が楽しくて、心地よくて

……だからそれを守りたい。

会社とか実家とか課長との約束とか、全部忘れてしまうくらい、大切だった。



今、この人の手を離したら、

もう二度と以前のようには戻れない気がする。




だから、いまこの瞬間、


私の人生で一番大事なのはこの人で

それは、もう絶対に、間違いない。





「言えなかった理由を教える気になったのか?」

私は首を振った。

「今は……教えられません」

予想外の返事に、井上颯斗の眉が寄る。

だけど口を開く前に、わたしはかぶせるように続けた。


「でも、あと10か月したら言います」


それに、目の前の人が反応した。

机の上に置いた手が、微かに動いたのだ。

10か月、と最初に言ったのはこの人だから、もしかしたら何か気が付いたかも知れない。



「約束します。あと10か月したら、すべてお話します」



いまから約10か月後、

私が石田実桜から大倉実桜に戻る時。


その時が来たら、全部……家のことも家族のことも全部、この人に話す。



だけど、いまは話せない。

この人の側にいるためには、私は特大の嘘をついて、それを隠し続けないといけない。

この人の前では、本当の自分ではいられないのだ。

悲しいけど。



「でもその間はしっかり働きます。井上さんの邪魔にならないようにします。それから……」



私は目の前の人をじっと見つめた。


全部は言えない。

本当のことなんて言えない。


だけど、この気持ちは本当だから

それが少しでも伝わるように、私はこの人を見つめた。



「この先、絶対に、何があっても……私は井上さんのことを、裏切らないって約束します」






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