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すれ違い

その日の夕方、突然井上颯斗は「夕食はいらない」と言って出かけた。

遅くまで帰ってこなかったけど、多分実家に帰っていたと思う。

井上颯斗が実家に帰ると、いつも実家で余っているというお菓子をもらって帰ってくる。それらしいお菓子がリビングに置いてあった。


昨日の夜、私はずっと自分の部屋に閉じこもっていて、帰ってきた時に出迎えもしなかった。ただ帰ってきた気配がするのを、布団の中で聞いていただけ。


だって、どんな顔をしていいか、わからない。

何を話していいのかも、わからない。




翌日の朝、井上颯斗の様子はいつもと違った。

口数が少ないし、表情が硬い。


まるで、私とあの人の間に壁ができたみたいだった。


それに……口数が少ないのも、表情が硬いのも……

私も同じ。




いつもよりも静かに朝食を済ませると、あの人は立ち上がった。

「じゃあ、先に行く」

「あの」

玄関へ向かう後ろを追いかける。

「井上さん」

靴を履くと、ドアの前で立ち止まったタイミングで、私は勇気を出して口を開いた。

「……あの、昨日のことですけど」

「その話はもういい」

「でも」

遮るように首を振るから、これ以上何も言えなくなる。

「石田が開発の仕事はやりたくないってことは、よく分かった」

「それは」


何か言おうとしたら、井上颯斗は小さく笑った。

ものすごく寂しそうな顔で。

「無理強いはしない。……嫌な思いをさせて悪かった」

「いえ……」


「もう、この話はしない。だから安心しろ」


それを確認するように、私の目を見て頷いた。

「じゃあ、行ってくる」

そうして今度こそ家を出ていって……私はしばらくそこから動けなかった。





******


昼休み。

ぼんやりしながらトイレを出ると、同期が声をかけてきた。

頭の中は昨日のことでいっぱいで、適当に相槌を打っていたら、急にガバッと抱きつかれた。

「ありがとう!石田さん!助かる」

「え?」

話を聞いていなかったから、戸惑う。


彼女は嬉しそうに笑いかけてきた。

「じゃあ、明日19時半から」

「え?」

「相手は公務員で5人。人数が減って困ってたの。助かる!しかも石田さんなら、清楚系女子で向こうも喜ぶって」

「え?飲み会?」


そんなの困る。

……と思った時には遅かった。


「ありがとう。じゃあ明日」

「あ、あの!」


そこで彼女は少しだけきつい顔になった。

「いいお店でやるから、綺麗な格好でお願いね」

「き、綺麗な格好?」

「そう!スーツはやめてね」


今、私が今日来ている黒いスーツじゃダメって顔をした。

「じゃあ、また明日!よろしくね」

彼女は離れていって……残された私は猛烈に焦る。


困る。困るよ。



綺麗な格好なんて持ってない。会社に来て行く服か、普段着しかない。

……そう、あれを除いては。



でも問題はそんなことじゃない。

洋服なんて買って帰ればいい。別にどうだっていい。


一番困るのは……


井上颯斗に話をすることを想像して……私は大きく息を吐いた。





夕食の時に明日の夜はいないことを伝えたら、予想通り不審な顔をされた。

「出かけるのか?」

「あ、ええと、同期に誘われて……」

そこまで言ったら、苦い顔をした。

「男だな」


仕事に優秀な人は、鋭い推理力を持っているのだろうか。

なぜすぐにわかったのだろう……。


視線を彷徨わせていると、井上颯斗はため息をついた。

「その通りか。……男と飲み会ってとこか」

「どうしてもって頼まれただけで、私が行きたいわけではないです」

つい、言い訳みたいなことを言ってしまう。

みたい、じゃない。完全に言い訳だ。



だけど井上颯斗は黙って食事を続けている。


「カレーを作っておきます」

「……」

「カレーは嫌ですか?」

「……カレーでいい」

「辛口派ですか、それとも甘口ですか?」

「……どっちでもない」


そっけない返事しか、返ってこない。

食後も、いつもならリビングで一緒に過ごすのに、さっさと自分の部屋に入ってしまった。

やっぱり不機嫌?怒っている?


夜に一人でキッチンでカレーの玉ねぎを切りながら、なんだか涙が浮かんだ。


何をしている、私。


カレーを作りながら、なんだか泣けてきた。





だけど、そこで、重大なことに気がついた。



明日の洋服、買ってくるの忘れた……。




******


翌日、私は井上颯斗に買ってもらったワンピースを着た。

青色の半端袖のワンピースは、膝丈の広がるスカートのせいか華やかだけど、きちんとして見える。


昨日の夜、何度も迷って。

数少ない洋服を色々と組み合わせたけれど……お出かけ用にはならなかった。


本当はこんな時に着たくない。


買ってもらった時は何度も見返してしまうくらい、嬉しかったのに。

このワンピースを着て初めて出かけるのに、気持ちが全く上がらない。





朝、私を見ると井上颯斗は目を見開いて、ほんの少し眉を寄せた。

だけどそれは瞬間的なもので、すぐにいつもの表情に戻った。


おしゃれをして、気合が入っていると思われたかもしれない。

こんな時にこの服を着たことに、苛立ったかもしれない。



焦った私は、口を開く。

「いいお店での食事会で、綺麗な格好でないとダメって言われたから……別に張り切っているわけではないです」

「俺は何も言ってない」

「頼まれただけで、私が望んで行くわけではないです」

「……だから、俺は何も言っていない」

井上颯斗はいつも通りで、必死になっている自分がバカみたいだ。


完全に空回り。


私はグッと言葉を飲み込んだ。


「……なんでもないです!」


いつものスーツにすればよかったと、心底後悔する。





「いいじゃないか。今日、運命の相手が見つかるかもしれないんだぞ」


「え?」


胸がドキッとした。

井上颯斗は私を見る。


「石田が結婚したいと思う相手と、今日出会うかも知れない。俺は気にせず楽しんでこい」

「運命の相手って」


その表情にも言い方にも、なんのためらいもなくて、

私がいないことなんて、どうでもいいって感じだ。


……事実、そうなんだと思う。

私なんて、この人にとってはなんでもない。



だけど、なぜだかそれがツラい。

        

もちろん、運命の相手は探したい。

でも……それは今日でも、今でもない。


いま、私がしたいことは、違う。

違うのはわかるけど、何をどうしていいのか、全くわからない。




私は箸を置いた。

「着替えてきます」

「……遅刻するぞ」

その言葉に私は俯いた。


結局そのまま会社に行った。

もう、自分でもどうしていいかわからない。





就業時間近に開発に行くと、山下君が話しかけてきた。

「石田さん、何かあるんですか?」

「どうして?」

「だっておしゃれしてるし」

「………もうこの話やめてもらっていい?」


暗い顔をする私に山下君は笑った。

「石田さん、その服似合いますね。もっと着ればいいのに」

「……ありがとう」

いつもおしゃれしていないと言われたみたいで、地味に落ち込む。

私、女子力低いんだな。


そんな私に山下君が笑った。

「もっと喜んでくださいよ。褒めているんだし」



そこで急に室内をキョロキョロ見渡して、安心したように息を吐いた。

「よかった。今の見つかったら、怒られちゃうから」

「誰に?」

「井上さんに」

「どうして?」


山下くんはとても苦い顔になった。

「それは……言ったら本当に、僕、殺されちゃいます。ただでさえ、昨日から超絶機嫌悪いのに」

「は?」




そこで山下くんが壁の時計を見て首を傾げた。

「でも、大丈夫ですか?間に合います?」

「え?なんで?」

私の仕事は順調に片付いて、あと30分後の終業時間には間に合う。

「だって、井上さん、今、大変でしょう?」

「井上さんが?」


思わずひゅっと喉の奥で音がした。


「昼過ぎにシステムの障害の連絡が来て、それが複雑で、誰も直せなくて……井上さんが長い時間かけて直して」

「え?」

「一人であれを直したんですよ、あの人。さすがというか、超人です。あんなに早く終わると思わなかったな。僕なら1日かかっちゃうかも。さすがです」


「え、でも、井上さんは?システム障害が治ったのに、どうして大変なの?」

終わったならいいじゃないかと思っていると、山下くんは顔を寄せて声をひそめた。



「ここだけの話……明日、会議があって、その準備です」

「会議?」

山下くんは頷いた。

「明日の会議は新商品の開発に入るための検討会議なんです」

その言葉にドキッとした。

「新商品の?」


まさか。

嫌な予感がした。


「そう、新商品のコンセプトや機能、大まかな予算とかを上層部に提案するんです。そこで許可が出たらスケジュールや予算を細かく決めて、正式な会議に提出する。普通は何回も話し合うけど、井上さんは今まで全部1回で企画書を通しているので、今回も一回で通すつもりだと思います」

「その会議って…前から決まってたの?」

私はつい聞いてしまった。


だけど、山下くんは首を横に振った。


「突然井上さんがこれからやるって言い出したんです。本当は新商品開発はもっと後の予定だったみたいですよ。明日の会議もいつもの会議とは別に特別に集まるみたいだから……井上さんが頼んだんですかね」


思わず息を飲む。



私には心当たりがある。

ありすぎる。


だって……私のせいだ。




私の約束の時間まで、あと10ヶ月だと言い出したのは、あの人。

本当はもっと先になるはずの新商品開発を前倒そう、なんて……

社長を説得しようなんて……


私のために、何かをしようと思うなんて






山下くんは息を吐いた。

「だから今、急いでやっていると思います」


私は井上颯斗の机を見た。そこには誰もいない。

「でもここにいない」


「一人で会議室でやってます。集中したいから、誰もくるなって」

「どう言うこと?」

「そのシステムのことは井上さんしか知らないので。だから井上さん一人でいいのかもしれないですけど」

「けど?」

山下くんは辺りを見回して、声をひそめた。

「かなりの機密情報だから、一人でやりたいのかなって思います。誰かに知られて、何かあってもまずいので」

その言葉に反射的に手を握りしめた。



機密情報。

まだ、誰も知らない、青柳のトップシークレット。


あの人は今、一人でそれをやっている。


確かに誰にも知られたくない。

同じ会社の人にも。

ましてや、商売敵の大倉の人間には、絶対に知られたくないはず。




私は時計を見た。

「それいつのこと?」

「1時間くらい前ですかね?」



ほんの30分ほど前、私は井上颯斗と廊下ですれ違った。


あの時、あの人は手にパソコンを抱えていた。きっと別の場所に行く途中だったのだ。

私とすれ違ったのに、何も教えてくれなかった。


自分が大変なことも、急ぎの仕事があることも、

何も、教えてくれなかった。





「でもさすがの井上さんでも、この時間から一人はきついですよ。あれだけシステム障害に時間と頭を使った後だし、精神的にもかなり削られてます。……だから石田さんに手伝いを頼むのかと思ったのですけど」


驚いて、でもとても気になって、私は山下君に向き直った。


「どうして?」

「え?」

「どうして私に声をかけると思ったの?」


山下君は驚いた顔をして、でもすぐに笑った。

なにを今さら、という顔をする。



「重要な仕事の時、井上さんはいつも石田さんを呼ぶ気がして」



はっとして、山下くんを見た。

「僕が知る限り、井上さんは大事な仕事は石田さんに頼んでたと思います。だから、今日もそうだと思っただけで……」



ずっと前に言われた言葉が蘇った。


私となら、大変な仕事も、大事な仕事も一緒にできそうだ……って。



あの言葉が、私はとても嬉しかった。



それだけじゃない。



あの人はいつも私のことを助けてくれた。

そんな人……他に誰もいない。






頭の中に井上颯斗の顔が浮かんできた。



そうしたらいても立ってもいられなくなって


私は何かに突き動かされるように、走って開発を飛び出した。






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