その理由
「石田……」
あまりの距離の近さに気がついて、今自分が何をしているか理解して、私は猛烈に慌てた。
過去最高に距離が近い。
近い近い近い。
ばあああっと恥ずかしさが込み上げた。
「わわわわっ、すみません」
パッと手を離す。
「ちょっと勢いで……!そんなつもりではなかったんですけど……すみません」
ピッタリ重なりそうだった体を急いで離そうと、上半身を勢いよく起こそうとして
……勢いが良すぎて体のバランスを崩してしまった。
上半身がぐらりと大きく後ろにずれて、体がふっと浮いたような感じがした。
そのまま、ソファから腰が滑り落ちる。
「うわっ」
「バカ!」
ソファから落ちそうになった私の手を、伸びてきた大きな手が掴む。
「ひゃあ」
そのまま落ちてしまうかと思った。
次の瞬間、私は大きな力で引き寄せられた。
結果、私は離れたはずのこの人の胸の中にダイブしてしまった。
******
「………危なかった」
耳元で声がした。
自分の心臓がものすごく早く打っていることは、わかっている。
それがなぜなのかもわかっている。
だから、今の状況もわかっている。
一応、頭はまだ冷静だ。
でも、これはものすごく、困る状況になってしまった。
まさか、この人に抱きしめられる日が来るなんて。
いや、事故だけど…だけど…。
今までのは未遂だと言えるものだけど、
これは本格的に抱きしめられていると言っていい。
その時、私を引き寄せた腕が確かめるように私の腕に触れて、そして大きく息を吐いた。
「よかった……」
そうして腕に力を込めたから、自然とついさっき記録したばかりの最短距離が、あっという間に更新された。
頬にこの人のシャツが触れる。
香水のない、この人の匂いがダイレクトに入ってくる。
その声とか手の動きに、自分がものすごくこの人に大事にされているような気がして……
ドキンと心臓が鳴った。
だけど我に返って私は慌てて口を開いた。
「う、わ。す、すみません!」
ばっと両手を動かしたら、あっさりをその腕の拘束は解けた。
「すみません」
土下座する勢いで謝ったら、井上颯斗もパッと顔を逸らせた。
自分の顔が絶対に赤くなっているのがわかる。
お互い気まずそうに顔を逸らせた。
「気をつけろ」
「すみません」
ソファに座り直すと、井上颯斗もこほんと咳払いをして、座り直した。
よく見ればこの人も少し赤い顔で、もういちど咳払いする。
「まあ、とにかく、開発に来い。俺が何とかしてやる」
視線があって、井上颯斗はしっかりと頷いた。
「絶対にいいものができる。だから、俺に任せろ」
それはわかるけれど……。
でも、それはできない。
実家のことを考えたら、それは……できない。
だから私は首を振った。
俯いて、膝の上でぎゅっと手を握った。
「それは……できません」
それだけいうのが精一杯だった。
「理由は?」
井上颯斗の声がした。その声が少し硬い。
この人は私が断るなんて思ってもいないのだろう。
私が本当は開発に興味があって、頑張ると思っている。
「理由は……言えません」
「なんだそれ」
あきれた声。
信じられないという顔で私を見る。
だけど……できない。
私が大倉の人間だと言ったら……会社も辞めないといけない。
そして……。
それを知った時、この人はどう思うだろう。
怒る?
それとも、情報を盗むために、近づいたと思う?
……そして、軽蔑する?
そう考えただけで、胸が苦しくなった。
「………石田、もう一度聞く」
そのピンと張り詰めたような声に、私はこれから良くない話が始まることを、悟った。
「石田は何を恐れている?」
何、が何を言いたいのか、私はわかっている。
なぜなら、この話は以前もしたから。
正確には、約ひと月前。
私がこの人の家に転がり込んだ日。
あの夜、私たちは今日と同じことを話していた。
あの件で、途中になってしまったけれど……本当はやめてはいけない話だったのだ。
この人はじっと私を見つめた。
時間と縮まった距離のせいで、私はこの人にたくさんのヒントを与えてしまったかもしれない。
あの時よりも、確信を持った目で私を見つめる。
「石田は開発の仕事を拒否するのには、理由があるんだろう?」
だけどその目は決して傷付けるようなものではない。
むしろ、恐ろしく優しい目だった。
隣から手が伸びてきて、私の手の上に重ねられた。
「その理由を教えてほしい。解決できる方法が絶対にあるはずだ」
重ねた手がグッと握られた。
さっき抱きしめた手を同じ。
強いけれど、どこまでも優しい手だった。
「話してくれないと、何も始まらない」
この人が私のことを本当に考えてくれているとわかる。
でも、これだけはわかってない。
それを話したら、全て終わりなのだ。
私は全部失ってしまう。
ここでの生活も。
それに
本当の私を知ったら……、
きっと、この人も私のことを絶対に嫌になる。
だから絶対に
この秘密は……知られる訳にはいかない。
視線を上げたら、目の前で井上颯斗が私をじっと見ているのが見えた。
その目が心配そうに私を見ているのも。
私は口を開いた。
「私、開発で頑張る自信がないです」
その時の井上颯斗の顔は、忘れられない。
静かに、だけど、失望するような顔をした。
もしかしたら、この人は私がウソをついているのに気がついているのかも知れない
きっと……わかっていて
いつまでも真実を言わないことに、きっと呆れている。
あんなに私にたくさん優しくしてくれた人に、
私は本当のことを言うことができない。
私の手の上に重なっていた手が離れていった。
「そうか。ならいい」
静かな声が響いた。
「やる気のないやつは、やってもどうせ、ついていけない。だからその場にいられても、みんなのやる気が下がる」
「井上さん」
「迷惑だから、最初からやらない方が賢明だ」
当たり前のことを言われたのに、私はものすごく、ショックを受けた。
断ったのは自分なのに、相手がそれを受け止めたら、嫌がるなんて。
いつまでも誘って欲しいなんて……。
井上颯斗は小さく息を吐いた。
「仕事が無理なら、早く親が納得できるような結婚相手を見つけるんだな」
「え?」
驚く私に、井上颯斗は眉を顰めた。
「石田に残された道はそれしかないだろ?」
確かにそうだ。
仕事を諦めた段階で、私が思い通りに生きていくには、良い結婚相手を見つけるしかない。
「まあ、早いとこ相手を見つけて、ここを出ていくんだな」
突き放すような言葉に、思わず息を飲んだ。
井上颯斗が私を見ていた。
「でも、そう言うことだろう?」
だけど、私はそれにもショックを受けた。
いつの間にか、私は今の生活が心地よくて……どこかでこのまま続けばいいと思っていた。
それが心地いいものだったから。
だけどそれは、この人のおかげだってこともわかっている。
しゃべるのも、一緒にご飯を食べるのも、ただ黙って隣にいるだけでもよかった。
二人で過ごす時間が、よかったのだ。
自分がそう思っているから、
いつの間にか……この人も、同じように考えていると思っていた。
でも、それが私一人の考えだったなんて。
この人が私に早く出ていけばいい、なんていうなんて。
「私、ここにいたら邪魔ですか?」
それに井上颯斗は眉を寄せた。
「別にそんなことは言ってない」
「やっぱり……私がいたら、迷惑ですか?出て行った方がいいですか?」
「そういう意味じゃない」
井上颯斗は私の顔を見た。
「この話は終わりだ」
強い口調で言った。
そしてソファから立ち上がった。
目に前髪がかかったせいで、よく見えない。
感情の読めない目がじっと私を見ている。
急にこの人がとても遠くに行ってしまった気がした。
「部屋に行っている。何かあったら呼んでくれ」
「え?」
そして身をひるがえして自分の部屋へ向かう。
「井上さん!」
だけど返事はない。
その背中から強い拒絶が感じられた。
それを見ていたら、いつかこんなふうに、この人が私の前からいなくなる気がして……
怖くなった。
腕でも、手でも、それから……服の袖でも、
どこかに触れるだけで、安心できるような気がした。
本当はその背中を追いかけたかったのに……
できなかった。
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