私を泣かせる天才
それから1時間後、私はパソコンとエコバッグを抱えて、マンションの入り口を早足で通り抜ける。
美人のコンシェルジュが私を見て目を丸くしていたけど、そんなの気にしていられない。
あの人には残業をお願いしたけど、予想より帰るのが遅くなってしまったから、あの人が先に帰っているかもしれない。
どうしよう。
焦りながら、バッグから鍵を出して差し込む。
鍵が空いてる!
ドアを開けたら、玄関に黒い靴が並んでいるのが見えた。
先に帰っている!
……まずい!
絶望的な気持ちでリビングのドアを開ける。
そして、私はとても驚いた。
******
目に入ったのは、キッチンに立つ井上颯斗だった。
「井上さん?」
言葉を失った私へと振り返る。その顔が笑顔になった。
「ああ、思ったより早かったな」
そのまま大きなお皿をテーブルに置く。
入り口で立ち尽くす私へ渋い顔を向けた。
私の目の前までくると、腕を組んで私をじろっと見つめた。
「あ、あの……」
「俺は石田に言いたいことがたくさんある」
そして私のおでこに人差し指をぴっと当てて、ぐりぐりとおでこを押した。
「い、いた……い」
「人の話はよく聞け」
見上げた顔の険しさに、ひっと声が漏れた。
怒っているよ、これ。
「なんだよ。あの電話。普通に遅くなるから、食事が作れないって言えばいいだろ?少し残業してこいとか、意味がわからない」
そう言って、今度こそ私のおでこを指で弾いた。
「いたっ」
いつもより痛い気がする。
井上颯斗は肩をすくめてキッチンへと戻る。
「俺は今日は早く終わったから、そういう時は俺がやればいいだろ?」
言いながら茶碗にご飯をよそう。
私の分と自分の分。
それをテーブルに並べると、いつも通りに椅子についた。
私も井上颯斗の反対側に、いつものように座る。
「ほら、食べるぞ」
「あの……すみません。井上さんにこんなことさせちゃって」
それに大きなため息をついた。
「石田は俺をどれだけ傲慢な奴だと思っているんだ」
実家ではお父さんは料理なんてしないし、
遅くなったら急いで帰って、焦って食事を作るのがいつもだった。
そう、それが普通だった。
「……料理はしないって言っていたから」
「まあな。でもネットで調べたら簡単にできたぞ」
ほら、そう言ってスマホの画面を私へ向ける。
テーブルの上と比べると、同じに仕上がっている。
すごい再現能力だ。
頭のいい人は何でもできるという証明を見てしまった。
「ほら、食べるぞ」
箸を手にして、野菜炒めを見つめる。
キャベツと豚肉とピーマンの野菜炒め。シンプルな具材の、王道の野菜炒め。
食卓のランプに照らされて、ピーマンの緑がきらりと鮮やかに光る。
ほかほかでいい匂いがして、自分が本当はとてもお腹が空いていたことを思い出す。
「いただきます」
一口食べて目を丸くした。そのまま顔を上げて井上颯斗を見つめる。
野菜はシャキシャキだし、鶏ガラのさっぱりした味付けがちょうどいい。
自分が作るより、ずっと美味しい。
「美味しい、です」
「だろ?俺は器用なんだよ」
自慢げにいう姿に目を丸くして、思わず大笑いした。
こんなこと言う人、初めて見たかも。
そんな私を見て、井上颯斗がふっと笑った。
そしてようやく、自分も食事に手を出した。
「すごく美味しいです」
「俺が作ったからな」
「井上さんが料理上手だと思わなかったです。また作ってください」
だけどそれに井上颯斗は首を振った。
「たまにはいいが、普段は石田に作ってもらう」
「は?」
私は目を丸くした。
え?あんなに自分は器用だとか傲慢じゃないとか言っていたのに?
思わずじとっとした目を向けると、井上颯斗は涼しい顔で私を見た。
「俺は石田の料理が好きなんだ。だから普段は石田の料理が食べたい」
その言葉の衝撃に、私は数秒間、固まった。
あまり人を褒めない人だと知っている。
そんな人に、こんなにストレートに褒められて、驚かないはずがない。
その証拠に私は不満だったはずなのに、それを忘れてしまった。
そして、あろうことか、それを受け入れてしまった。
「……じゃあ。頑張ります」
「ああ。楽しみにしている」
井上颯斗はそう言って、口元で笑った。
ちょっと皮肉げにも見える笑顔なのに、
思わずそれに見惚れそうになって、私はそれを誤魔化すように野菜炒めを口に運んだ。
騙されているような気がするけれど……
だけどその野菜炒めは、今まで食べた中で一番、美味しくて
私は絶対にこの味を忘れないと思った。
******
食事を終えて片付けをする私の隣で、井上颯斗がお茶の準備をしてくれる。
仕事の時もこれくらい優しかったらいいのになあ、と思ってしまう。
「たまには人に頼るのもいいだろ?」
「え?」
「石田はいつも一人で頑張っているからな」
井上颯斗はカップを出しながら私を見た。
その目がじっと私を見て、ふっと口元が綻んだ。
「できない時は俺を頼れ」
それにとても驚いた。
頼っていいなんて言われたの………はじめてだ。
嬉しいくせに、どこか信じられなくて、だから私はもう一度、聞き返してしまう。
「あの……本当に頼ってもいいですか?」
つい、いつもよりも真剣な声になってしまった。
軽く言った言葉に、本気の返事が来たら誰だって嫌だ。
だから冗談にして軽く言いたかったのに、できなかった。
でも、井上颯斗はなんでもないことのように肩をすくめた。
「別に石田一人、なんでもない。いくらでも甘えろ」
「私、本当に面倒なんです。それでも、甘えていいですか?」
本当の私は、この人にとってただの後輩以上に、とてつもなく面倒な存在だ。
だって、ライバル会社の社長の娘なんだから。
そんな最大級に面倒な存在の私でも、この人を頼っていいの……?
井上颯斗は私を正面から見つめた。
「いい加減、覚えろ」
怒ったような声のくせに、顔は真剣だった。
そうして、念を押すように私の目を覗き込んだ。
「俺は同じことを二度言うのは嫌いだ」
それはもう何度も聞いたから、わかってます。
言い返そうとして、でもなんだか泣きそうになってしまったから、
慌ててそれを飲み込んだ。
実際に甘えられないことはわかっている。
……よく、わかっている。
でもその時の私は、その言葉がとても嬉しかった。
視界がぐにゃんと歪んだ。
まずいと思った時には、涙が頬を滑り落ちた。
ダメだ、こんなの重すぎる。
こんな風に真剣になるのも、簡単に泣くのも、面倒で……重たい。
物分かりのいい、手間のかからない後輩でいたかったのに
最悪。
だから急いで顔を俯けて、手のひらで涙をゴシゴシと擦った。
その時、私の頭の上にフワッと手のひらが載せられた。
頭の上から呆れたような声がした。
「石田は良く泣くな」
「……泣かせてるのは、井上さんです」
だけど、その手が離れていかない。
代わりに笑い声が聞こえた。
「いいじゃないか」
「家にいる時くらい、好きに泣けばいいだろ」
この人は私を泣かせる天才かもしれない。
その時の私は、どうしてもこの人に触れたくて……手を伸ばすと目の前のシャツを小さく摘んだ。
「なんだよ、それ」
「ほんの少しでいいので」
「なんだよ。ほんの少しって」
少しでいいんです。
本当の私を知ったら、きっとあなたは私のことを嫌になるから……
だから少しだけ、甘えさせてください。
思わずしんみりしてしまった時、井上颯斗の声が響いた。
「じゃあ、泣き止ませてやろう」
「え?」
「こんなにのんびりしてていいのか?まだ仕事終わってないだろう?」
仕事……?
私は顔を上げた。ぼんやりしている私を、井上颯斗は呆れた目で見つめ返す。
「課長に明日までって言われたんだろ?」
「あっ!」
そこでようやく思い出した。
そうだ!
どうしても終わらなかった仕事を家でやろうと思っていた。
だけど…
まだ、終わってない!
突然井上颯斗が手を伸ばして私の鼻を摘んだ。
「うわああっ」
「早くやらないと眠れないぞ」
「は…はにゃしてください」
「ぼうっとしてないで、早く終わらせろ」
モゴモゴ言っていると、パッと手が離された。
「ひどい!」
「でも、泣き止んだだろ?」
それに、むぐ、と口をつぐむ。
自慢げな顔をして私を見るの、やめてほしい。
こんな止め方、アリ?
さっきまでの空気が全てどこかに吹っ飛んでしまった。
だけど、私はそこでいいことを思いついた。
「井上さん、ちょっとだけ書類を見てもらってもいいですか?どうしたらいいのか、悩んでるところがあって……」
どう処理するか決められない部分があった。
でも、この人に聞けばいいんじゃない?
絶対に完璧に仕上げられる。
それに井上颯斗は首を振った。
「仕事は自分でやれ。甘えるな」
それに突き放した言い方にムッとした。
「え?頼れって言ってくれましたよね?」
「頼るのと甘えるのは違う。勘違いするな」
「は?」
井上颯斗はキッチンから出ると、ソファでお茶を飲み出した。
「悪いが俺は先に寝る。頑張れ」
「はあああ?」
優しいと思ったの……撤回。
今夜は眠れないかも……
そう思ってため息をついた。
だけど、ふと気になった。
私、課長からの仕事があること
この人に言ったっけ?




