秘密だらけの私
二人暮らしを始めるにあたって、いくつか決め事をした。
食事と掃除は私。洗濯は各自。
買い物は週末に二人でする。足りないものは適宜買いに行く。
食費は月の初めにお金を出し合ってそこから使う。
家賃は……月々のお給料から少し出すと言ったけど、断られた。
中途半端に渡すのは面倒らしい。
もちろん、同居のことは会社には秘密。
完全に私がこの人を巻き込んでいるわけだけど、周りには絶対に誤解される。
もし知られたら、私はきっと全女性社員を敵に回す。
女性同士の恨みって怖いもんね……。
絶対に秘密にしておきたい。
だけどバレたら、井上颯斗のほうがダメージは大きい。
課長補佐というそれなりの立場の人が、恋人でもない異性の後輩と同居するって、……どう考えてもアウトだ。
だけど、本人は全く気にしていない。
「言いたい奴には言わせておけばいい」
と、顔色ひとつ変えないし
「何を言われても、実力でだまらせるからいい」
と、強気だ。
自分が商品が開発しているという自信なのか、
さすが、青柳の頭脳と言われる人は違う。
だけど、やっぱり困ることはある。
そもそも私には特大の秘密があった。
青柳の敵対する会社の娘が、青柳の本社で働いている。
今まではそれを会社に知られてはいけないと思っていた。
だけど、今はそれだけではない。
……この人にも絶対に知られてはいけない。
一緒に生活する以上、バレてしまうリスクはぐんと上がる。
いつの間にか私の周りは秘密だらけになってしまった。
いつかそれで、苦しむことになるかもしれない。
今にして思う。
なぜ、こうなった。
同居生活も2週間目になると随分慣れてきた。
家でもリラックスできるようになって、会話も自然になる。
すると今度は別の問題が発生した。
職場でもつい、家と同じ調子で話しかけそうになって……困る。
でもそれは私だけで、あの人は悔しいくらい普通だった。
会社では無愛想だし、仕事をバンバン振ってくるし……
家にいる時の雰囲気を感じさせない態度に、さすがだなと思う。
社内恋愛禁止の会社で付き合う二人とか、こういう感じなのかな?
だとすると、これって恋愛経験の違い?
やっぱり、私、恋愛初心者すぎ?
そんなことをブツブツと考えていて、そこでハッと気がついた。
そもそも……恋愛じゃないよね、私たち。
******
今日も実は同居人の上司に呼び出されて、仕事の指示を受ける。
「……で、書類を受け取ってきて」
言い終えて井上颯斗は外出のために立ち上がる。
「書類は机の上に置いといて。後でチェックする」
「え?じゃあ直帰でなくて、一度会社に戻る感じですか?」
「ああ」
「何時くらいですか?」
夕食を家で食べるのか、帰りは何時なのか……
それで買い物の予定やメニューが変わるから、気になる。
「そこまで遅くない」
「そこまでって」
答えになってない。
不満げに苦笑いすると、井上颯斗はジャケットを羽織りながら、ごく自然に私に顔を寄せた。
髪がふれあいそうな近い距離に驚いて、顔を向ける。
視線があってドキッとした。
私の耳元に唇を寄せて、私にしか聞こえない声で
「食事は家でするから」
確かにそう言って、私の目を見たままスッと体を離す。
「う…」
「じゃあ、頼んだ」
声すらまともに出せない私を置いて、あっという間に出かけてしまった。
ナニ、あれ。
誰かに聞かれたらどうする。
誰かに見られたらどうする。
慌てて周りを見れば、誰もいない。
それに安心して、すぐにそこもわかってやっているんだなと思った。
なんというか、……やっぱり性格悪い。
大きく息を吐く。
心臓はまだ全力ダッシュした後みたいに激しく打っていて……、頬に手を当てたら確実に熱い。
私だけこうなるの、納得いかない。
こんなの、本当におかしい。
ぐったりと疲れて総務に戻ると、今度は課長が声をかけてきた。
「石田さん、いま開発大変なの?あいつの機嫌どう?」
「最近は落ち着いてます。機嫌も……悪くないと思いますよ」
それに課長はニヤッと笑った。
「なんですか?」
「なら良かった。嫌な仕事の後だから、不機嫌かと思った。」
そうして私の前に書類の束を出してきた。
「じゃあ、これ頼んでもいい?」
「……は?」
「体調不良で帰った人がいて、代わりを探してたの。だけど、みんな仕事があって……開発が落ち着いているなら、石田さんに頼みたいな」
「え。今から?」
内容によっては厳しい。
本当は、今日は早めに帰って買い物をしたいんだけど……。
つい手が止まると、課長がニヤッと笑う。
「あれ。井上君の仕事はすぐにやるのに、僕の仕事はだめなの?」
「そういうわけでは……」
「でも、そうだよね?悲しいな。やっぱり本当は開発で働きたいのかな」
「え?」
「開発の仕事の方がやりがいあるもんね」
大袈裟に落ち込む様子に周りの視線が集まる。
外面のいい課長は人気があって、そんな人を困らせている私に冷たい視線が寄せられる。
違うって。
みんな騙されている。
課長はため息をついた。
「いや、違うな。僕より井上君がいいんだよね」
井上君、に力を込めて言ってくる。
「か。課長、ちょっと……」
「悲しいな。じゃあ、これは他の人に頼むよ」
そう言ってちろりと私を見る。
どう見ても裏のある顔に、絶対わざとだと確信する。
腹黒め。
私は課長の手の中の書類を奪った。
そこでようやく課長が笑顔になる。
「じゃあ、お願いね。明日締め切りだから頑張ってね」
「え?」
「明日の朝もらうから。あ、もし今日終わったら、今日でもいいけど」
まさか、明日まで?
早まったかも!
青ざめる私に、課長は思わせぶりに笑った。
「井上君より僕のこと大切にしてよね。言っている意味わかるよね?」
私にだけ聞こえるような声を出す。
「本当のこと、あいつに言っちゃおうかな」
「なっ……」
私の秘密を井上さんにバラそうとしている。
脅迫だ!
悪質!
私はガックリとうなだれた。
******
終業時間が少し過ぎた頃、私はとても焦っていた。
仕事が……終わらない。
このままだと井上颯斗が先に家に帰ってしまう。
いつもは私が先に帰って食事を作って、あの人が帰ったらすぐに食事になる。
だけど、今日は買い物も食事の準備も間に合わない。
ああ、本当にまずい。
お弁当や惣菜で夕食にしても、きっとあの人は文句は言わない。
……だけど、できればちゃんと食事を作りたい。
その理由は……
あの人が私のご飯を美味しいと褒めてくれるから。
そして、美味しいと言って食べてくれるのが、とても嬉しいから。
数分間、真剣に悩む。
残業して仕事を終わらせてお弁当を買って帰ることと、今すぐ帰って食事を作って、残った仕事は家でやるのを天秤にかける。
だけどそこで、頭の中に井上颯斗の顔が浮かんで……
そうしたら、すぐに気持ちが決まった。
やっぱり食事を作ろう。
簡単なものでも、ちゃんと作ろう。
これは住まわせてもらっている人間の意地だ。
あの人が喜んでくれるなら、そうしたい。
本当に、それだけ。
なら、夕食後に家で仕事の続きをやるしかない。
そのためには準備が必要だから、家に帰るのもいつもより遅いし……食事も遅くなる。
それをあの人に伝えないといけない。
そこで私はもう一つの難問に気がついた。
私、あの人の連絡先知らないよ……。
携帯の番号も何も知らない。
まずい。
連絡を取ろうとしたら、社内電話しかない。
私は意を決して人気の少ない場所の電話に近寄った。
受話器を取ると井上颯斗のデスクの番号を押した。
まだ外出中かもしれない。
でも、あの人が出てくれますように、と祈るように受話器を握った。
「もしもし、井上です」
3コール目で聞こえてきた声に、私は思わず声を上げた。
よかった。
神様、ありがとう!
「井上さん?石田です」
「石田?」
電話の向こうで驚いた声がした。
でもすぐに、その声が少し柔らかくなった気がした。
「どうした?急に」
「今日、いつもより30分くらい遅く帰ってきてもらえませんか?」
「……は?何を言っている」
戸惑った声が返ってくる。
だけど私は早口で言い返した。
「少し残業してから帰ってきてください。遅いほどありがたいです。それじゃあ!」
「待て、石田。意味がわからない。わかるように説明しろ」
「時間がないので、後で話します」
言うだけ言って一方的に電話を切る。
周りを見たら、誰も私には気がついていない。
だから急いで自分のデスクに戻って、仕事を再開した。
急がないといけない。
あの人より早く帰ることだけを考えて、私は必死だった。




