一番会いたくない人
実家に帰るのは数年ぶりだった。
お父さんがいないことはわかっていても、あまり長居をしたくない。私は急いで自分の部屋の荷物を漁ると、必要なものをまとめた。思っていたより綺麗だけど、やっぱり着られるものは少なかった。
「一体急にどうしたの?」
そんなお母さんの質問に私は笑って誤魔化した。
「最近はスーツで仕事に行っているの。新しいのを買うと高いでしょ?だから昔のがまだ使えるかなって思って」
「そう」
お母さんはあっさり信じてくれてホッとする。
お母さんが余っている食材をくれるという。大荷物になったけど助かる。
帰ろうとしたら、お母さんは寂しそうな顔をした。
「ご飯も食べればいいのに」
「いや、帰るよ」
夕食を作る約束があるのだ。
一度荷物を置いてから、スーパーで買い物しないと。
朝からずっと夕食のことを考えていた。
そこで急にリビングのドアが開いた。
入ってきたのは、会いたくないと思っていたお父さんで……思わずうっと言葉が出てしまう。
「実桜、どうした?」
「あ…荷物、取りに来たの」
なぜ早く帰ってきたのかと思っていると、隣でお母さんが苦笑いした。
「ごめんなさい。私がお父さんに言ったの。だって、あなたが全然顔を出さないから、お父さんも心配しているのよ」
つい苦い顔でお父さんを見る。
そして気がついた。
お父さん、この間より白髪が増えた。それから……ちょっと、疲れている?
会っていない間に、歳をとった感じがする。
ただ疲れているだけなのか、それとも……本当のこと?
だからと言って何も言うことはできないけど。
いろんな感情を抑えて、私は立ち上がる。お父さんが私をみた。
「忙しいのか?」
「まあまあ。お父さんも忙しいんでしょう?」
それにお母さんが返事する。
「今度青柳が新しい機械を出すんですって。だからお父さん頑張っているの」
思わずドキッとして……なんとか無表情をキープする。
だって、私は知っている。
青柳はいつか新商品を作る。
いつになるかは、まだわからない。
だけど、それがどんなものかは決まっている。
それは全部、井上颯斗の頭の中。
誰も知らない。
お母さんは笑った。
「お父さんも鈴井さんも忙しいのよ」
「鈴井さんも」
私の相槌に、お母さんが笑顔で頷いた。
お父さんの第一秘書の鈴井さんには、私も懐いている。お父さんがいるなら、鈴井さんもいるかもしれないと、ドアを振り返った。
そして、入ってきた男の人を見て、固まった。
黒い真っ直ぐな髪を短く整えたその人は、少し浅黒い肌にスーツを着て立っていて、私を見て爽やかな笑顔を浮かべた。
「ああ、実桜さんもいらしたんですね」
「板倉さん」
笑顔で歩み寄ってくる人を見て、私は無意識に体を一歩分、後退させた。
この人はお父さんの第二秘書の板倉さん。
……そして私が最も会いたくない人。
やっぱり来るんじゃなかった。
私は心の中で大きなため息をついた。
******
板倉さんはお父さんの第2秘書。
そして、私のお見合い相手になる。
私が初めて板倉さんに会ったのは、大学2年生の時。
それまでずっと、お父さんの秘書は鈴井さんしかいなかった。逆に言うと鈴井さんが全てをこなしているから、みんなが疑問に思ったのだ。
鈴井さんがいるのに、どうしてもう一人必要なのかって。
その理由は簡単。
板倉さんはお父さんに見込まれて、私の結婚相手として選ばれた人だったのだ。
「実桜の大学の先輩だから、話してみたら?」
そう、引き合わされたのは、ホテルのティーサロンだった。
今になればわかる。
そこはお見合いに最適と言われるホテルで、事実、板倉さんはそのつもりで来ていて、
それがお見合いだと知らなかったのは、私だけだった。
板倉さんは私の少し年上で、明るくて話題豊富で、一緒にいて楽しかった。
お互いが知る大学の先生の昔話を聞かせてくれて、その話が上手だから、たくさん笑った。
そして板倉さんは美形で、モテそうだった。
あんなに簡単に年下の私の機嫌を取れたのだから、おそらくモテるのだろう。
だけどその時の全てが、板倉さんにとってビジネスだとわかったのは、帰る直前。
盛り上がったせいで、予定より長い時間一緒にいた。帰る前にトイレに行って、急いで小走りで戻った。
その時、廊下の喫煙スペースから、声が聞こえた。
「もう、店を出てご自宅まで送ります。遅くなって申し訳ありません」
それはさっきまで聞いていた板倉さんの声で間違いなくて、変だなと思った。
だから、足を止めて、物陰からそっと声のした方を伺う。
板倉さんの笑顔が見えた。
さっきまでと同じ、爽やかな笑顔だった。
「ええ。色々お話しさせてもらいました。手応えは良いと思います」
「そうですね。嫌われてはいないと思いますので……ですから、ええ、また、お誘いします。ありがとうございました……社長」
電話の相手が誰か、なんの電話か、すぐにわかった。
お父さんだ。
お父さんが私たちがどうなったか気になって……待ちきれずに電話してきたのだろう。
そのときようやく、これがお見合いで、板倉さんは私の結婚相手として選ばれた人で、そして彼もそれを知りながら、望んで私に近づいたのだとわかった。
簡単に楽しんでしまった私、チョロすぎる。
世間知らずで、恋愛経験もなくて……
板倉さんからしたら、何もかも呆れるくらい簡単だっただろう。
……情けない。
それに思い切り腹を立てて、その後悲しくなって……
車で送るという板倉さんを振り切って地下鉄で帰った。途中、コーヒーショップで時間を潰して、家に帰ったのは遅い時間だった。
両親には怒られたけど、どうしても気持ちが落ち着かなかったのだ。
あの時の私は、板倉さんが社長になるために自分に近づいたのが、許せなかった。
初恋もまだの私が、恋愛に夢を見ていたのはある。
だけど、お父さんも板倉さんも、あまりにもひどい。
私が頑として拒絶したせいで、その後、私と板倉さんと二人で出かけることはなかった。
でも、いつか諦めるだろうと思っていたのは私だけで
お父さんは私と板倉さんを結婚させて会社を継がせることを、諦めていない。
実際、板倉さんは同年代の中では飛び抜けて優秀なんだそうだ。
「あいつ以外に会社を継げる人間はいない」
とまで言っているらしいし、頑固なうちのお父さんが、簡単に諦めるなんて思えない。
私が26歳になった時、お見合いする相手は板倉さん、と言うのは決まっている。
板倉さんも私を……、社長を諦めていない気がする。
だからこそ、こんなところで会いたくなかった。
板倉さんは私に愛想よく笑いかけた。
「お久しぶりです。しばらく見ないうちにキレイになられましたね」
早速お世辞を言われたけど、大人になった私はこのくらいでは負けない。
「お久しぶりです」
そして背を向ける。
背中に視線を感じながら、私は荷物を手に取る。
「重そうですね。家まで送りますよ」
「え?」
板倉さんは私の両手いっぱいの荷物を指差した。
大きな紙袋2つにバッグを持っているから、重いのは事実。
だけど……そんなの絶対にごめんだ。
私は板倉さんの目をじっとみて、キッパリと返事した。
「一人で大丈夫です」
驚いたように、板倉さんは目を見張った。
だって私がこんな風に言い返したの、初めてだ。
今までの私だったら、断れなくて途中まで送ってもらっていたはず。
そして二人きりの車で、ものすごく気まずくなって……自分を責めるのだ。
だけど、今日はちゃんと断れた。
どうしてだろうと思って、すぐに答えがわかった。
今、私の近くには、井上颯斗がいる。
あんな綺麗な人と昨日はずっと一緒にいたし、今朝も二人で朝ごはんを食べたし、ここ数日はどっぷり色んな顔を見ている。まつ毛が数えられるようなドアップも何回かみたし、不本意だけど意外に筋肉質な体も見てしまった。
いろんなことがあって
綺麗な顔にも、男の人と一緒にいることにも、免疫ができたと思う。
だから、大丈夫。
頑張れ、私。
こんなところで、嫌いなはずの上司の顔を思い出して自分を励ます。
でもそうしたら、気持ちが強く持てるような気がした。
こめかみに指を当てる苦い顔を思い出して、なぜだか励まされる。
不思議だ。
そんな私を見て、板倉さんは片方の眉を上げた。
「少し……雰囲気が変わりましたね」
その目が少し光った気がした。
だけど、私はそれを無視した。
私は板倉さんの目を見てキッパリと言い放った。
「じゃあ、失礼します」
そして振り返らずに家を出た。
だけど、威勢が良かったのは最初だけで……
家が見えなくなった途端、思わず立ち止まって、大きく息を吐く。
「疲れた……」
井上颯斗効果は5分しか持たなかった。
効果時間が短いことに文句を言いたくなる。
でも……あの人のおかげで頑張れるなんて……
そんなこと、思ってもみなかった。
今、何をしているかな。
仕事よりも嫌な事をしている人を思い浮かべる。
でも、文句言っていても、きっと上手にこなすのだろう。
私は今日、あなたのおかげで頑張れましたよ。
意味がわからないだろうけど、伝えてみたくなった。
そうしたら、どんな顔を見せてくれるのだろう。
想像したら、おかしくなった。
私は荷物を持ち直す。
とりあえず……
「和食、作ろう」
そう呟いて、私は歩き出した。
誤字脱字報告いただきました。おかしな表現をしていてすみません。ありがとうございました。




