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新しい朝

翌朝、目が覚めてソファの上で体を伸ばす。うちのベッドより寝心地のいいソファだけど、やっぱり熟睡はできない。体を伸ばしてからリビングを見渡せば、ブラウンで統一された室内は、嫌になるくらいセンスが良かった。


時計は朝7時を示していて、休日の朝としてはだいぶ早い。

私はドアの奥を見つめる。

向こうの部屋で、井上颯斗は寝ているはずだ。


昨晩、井上颯斗は自分がソファで眠ると言って引かなくて、それを説得するのは大変だった。思い切り不満そうな顔をしていたけれど、当たり前だ。

上司の家に泊まらせてもらって、さらに寝場所まで奪うとか……後が怖い。



私は目をゴシゴシと擦る。

昨日思い切り泣いてしまったから、目は腫れているだろうし、きっとひどい顔だ。少しでも回復させておきたいから、冷たい水で顔を冷やして、それからお化粧をしようと、ポーチを持って洗面所へ向かう。

上司の前だし、あんなに綺麗な男の人の前でボケた顔なんてしていられない。


そして何も考えず、ドアを開けた。



「……………え?」

「おい」



目の前にいたのは、まだ寝ていると思っていた上司だった。

しかも、お風呂上がりの。




……見てしまった。


上半身は裸で腰にバスタオルを引っ掛けただけの格好だった。前髪が濡れて後ろに撫でつけられていて、その髪から水滴が垂れて首をつたって、そのまま体に線を描いて落ちる。

水滴のついている胸板は厚くて、体にも腕にも適度に筋肉がついていた。

いつも鋭い切長の目は、少し節目がちのせいか、それとも少し顔が赤いせいか……、ドキッとしてしまうほど、色っぽい。


つまり、その姿は思い切り男っぽくて、色気がダダ漏れだった。


いつもスーツ姿しか見ていない人の、しかも裸なんて……。




私は目を丸くして立ち尽くした。

かなり長い時間、私は見てはいけない姿を見つめていて、そしてようやく気がついて……



大きな悲鳴を上げた。





******


「すみませんでした」

目の前にコーヒーの入ったマグカップが置かれて、私は頭を下げながらチラリと目線だけ上げる。自分の分のマグカップを持った井上颯斗は、私と目があって思い切り苦い顔をした。お世辞にも上機嫌には見えないけれど、激怒ではない、と思う。


さっきまでお風呂上がりのタオル姿だったけれど、今はしっかり服を着ている。

グレーのシャツに黒いパンツという姿は完全に部屋着だったけど、それでもちゃんとして見えるのだから、イケメンってすごい。


だけど、私の反対側のテーブルに座るとその苦い顔を私へ向けた。


「驚きすぎ。ドアを開けるときは中に誰かいないかを考えろ」

「……はい」

「ここは自分の家ではない。気をつけろ」

その会社の時に私に注意をする時と同じ言い方と冷たい視線で、あ、やっぱり怒っていると実感した。


確かにお風呂上がりにいきなりドアを開けられて、体を見て、それから大声で叫ばれたら……イラっとするな。

反省。



その上司はコーヒーを飲んでため息をつく。

「大体、男の裸ぐらいで騒ぐな。見たことあるだろう」

私はそれに俯いた。嫌なことを言われてしまった。

「見たことはありますけど、映画とかテレビとか美術の彫刻とか生物の授業とか……」

「はあ?」

「……なんでもないです」


ここだけの話、男性の裸をちゃんと見たことなんて、ない。

私には兄や弟もいないし、ずっと彼氏もいなかったし、男性の裸を見たのなんて、映画とかドラマの中くらい。



だからわかってほしい。

そんな私に、お風呂上がりのイケメンの裸はちょっと……どころではなく、刺激が強かった。


私からしたら、いけないのはあなたですよ。

生身の男の人が、あんなに男らしくて、色っぽいとか……。

確実に私より色気があった。

信じられない。


ちろっと目線を上げると、井上颯斗がコーヒーを飲むのが見えた。

いつもなら見えない喉仏が、今はくっきり見えている。



私服もそうだし、こんなくつろいだ雰囲気もそうだし、距離の近い会話もそうだし……

なんというかこの人のプライベートスペースに思い切り足を踏み入れてしまっている気がする。

きっと会社の誰も知らないこの人の表情を、見てしまっている。


でも同居するってことは、こういう場面に出くわすことも……絶対にないとは言えなくて

同じことは私にも言えて……


もちろん、ちゃんとするよ。

上司と同居するんだから、最低限の礼儀はわきまえるつもり。でも

寝起きのだらしない姿とか、疲れて帰ったどんよりした顔とか……見られてしまう可能性は大いにあるわけで……



私、こんなんじゃやっていけない。



同居すると決めたのは紛れもない自分なのに、早速その決心が揺らいでいる。





しょぼくれていると、目の前の井上颯斗がため息をついた。そして心配そうにこっちを見る。

「悪い、言いすぎた」

どうやら私が黙ってしまったのを、自分の言葉が良くなかったと思ったらしい。

「俺が鍵をかけておけばよかった。だから、気にするな」

「いえ、私です。悪いのは私です」

私はもう一度謝った。


もう本当に落ち込む。

ただでさえ家に泊まらせてもらって、こんなに大騒ぎするなんて……。

そして、上司に気を遣わせるなんて。



思わずため息が出そうになった時、声がかけられた。

「もう、この話はいい……それより、眠れたか?」

テーブルの反対側から見つめられて、私は頷いた。

「はい」

「……なら、いい」

井上颯斗はホッとしたように、小さく息を吐いた。


その言い方や顔つきに、もしかして、本当に心配してくれていたのかな?と思ってしまって、胸がざわめく。


だけど、すぐに顔を逸らされたので、私の勘違いかなと思う。

その証拠に、立ち上がると事務的に、今日はどうすると聞かれた。


「あ、私は買い物に行かないといけないので」

洋服も靴も下着も化粧品も、全部買わないといけない。

幸い通帳などは実家に置いてあって、カードもいつも持ち歩いていたからお金はなんとかなる。

私はリビングの隅に吊るしてある自分のスーツを見つめた。


これしか着るものがないのは困るから、今日中になんとかしたい。


すると、井上隼人の声がした。

「じゃあ、準備したら行こう。車を出す」

「え?一緒に?」

私は慌てて首を振った。

この人に付き添ってもらうとか、ありえないって!


「大丈夫です。井上さんはゆっくりしてください」

「でも、車の方が楽だろ?それに布団も買わないといけないし、俺も行く」

「私、ソファで眠るのでいいです」

「ずっとか?やめとけ」

そうして私を見ていつものように私を見た。


「家を貸す人間として、ちゃんと生活を整える必要だある。もし、体調を崩したりしたら、俺の責任だ。そんなことはさせられない」


それに気持ちがざわりとする。



私がここにいる間に何かあったらいけないという、ただの上司としての責任感で私を心配するだけで、この人にはそれが一番重要で……それ以上でも以下でもない。

つまり、仕事と同じなんだ。


それが普通で、当たり前で、それ以上があったら、それがなんなんだってことになるのに……

私はそれがなんとなく、それが嫌で、不満だった。


上司が部下を心配するのは当然なのに……

仕事、だと思うと急に堅苦しく感じてしまう。




「井上さん、仕事じゃないんですか?いいんですか?」

つい、刺々しい言い方をしてしまうと、それにむっとした。

「かまわない。今日は仕事はない。とりあえず、出かけるぞ、準備しろ」

「でも……」

間違っても男性と一緒に買えないものもあるし、一人の方がいい。


そう言おうとした時、伸びてきた手に思い切り鼻をつままれた。


「ひゃ!」

「早くしろ。どうせ大荷物になるんだから、車で行った方がいい」

「で、も」

「うるさい。これは上司命令だ」

「わ。わかりましたから…はにゃしてくだひゃい」


必死に頷くと手を離して満足そうに息を吐いた。

だけど、そこでまじまじと私の格好を見て、クスッと小さくおかしそうに笑った。


「なんですか?」

「石田、俺の服、似合わないな」


その目が私の袖と裾をまくった姿をみている。


昨日の夜、この人から借りた長袖のシャツもパンツも恐ろしいほど肌触りが良くて、高級品だとわかる。だけど思った以上にサイズが大きくて、着るとダボダボだった。

特に足の余りがひどい。


仕方なく、袖も裾も何回もまくったのだ。

それでも袖は余っているし、ズボンも余っている。


どうせ足が短いよ。誰かさんみたくモデル体型ではありませんよ。



なんだか悔しくて少し目線を上げて睨みつけると、そんな私の顔を見てまた笑った。


そうして手を伸ばすと、今度は私の頭にそっと自分の手を載せた。



「じゃあ、出かけようか」




その手はやっぱり温かくて


その温かさに昨日の夜のことを思い出して


胸がぽわっと温かくなった。






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