大切な場所
「………え?」
呆然とする私に、井上颯斗はキッパリと言い放った。
「俺の家に住め」
私の思考が停止した。
ここは、井上颯斗の家で。
そこに、私が……住むってこと?
「ええええええ?」
思わず大声を出すと、井上颯斗は思い切り嫌な顔をした。
「……夜中にうるさいやつだな」
「え、だって。だって……ええええ?私が?井上さんの家に住むってことですか?」
井上颯斗は呆れたように息を吐いた。ものすごく苦い顔で、だけどキッパリと
「そうだ」
と言い切った。
この人と、私が……一緒に暮らす。
嘘でしょう?
ない。絶対ないよ。
恋人でも家族でもない人と住むなんて信じられないし、ましてやこの人は
……別に仲がいいわけでもない上司で、どちらかといえば苦手な部類になる人で
ついこの間、関わるのはやめようとまで思った人なのに。
突然、井上颯斗がずいっと私のそばに体を寄せて、私の両肩を両手で掴む。ぐいっと強く引き寄せて、その国宝級に整った顔を私の目の前に突き出した。
その視線の迫力に思わず息を飲む。
「行くところがないんだろ?」
「……はい」
「つまり、金を節約できて安心に暮らせる場所が欲しいってことだろ?」
その通りです。
頷いた私を見て、井上颯斗がなんでもないことのように、軽く言った。
「ここに空いている部屋があるから貸してやる」
「え?」
「ここはセキュリティもしっかりしているから、女性でも安心して暮らせる。部屋は余っているから、金は払わなくてもいい。他に行く家が見つかるまで、石田がいても構わない」
なんだ、それ。
思い切り好条件じゃないか。
「ほ、ほんとうですか?」
「嘘を言って何になる?」
呆れたように息を吐いた。
井上颯斗はソファに座ってさっきみたいに優雅にお茶を飲んだ。一仕事終えた感じで、いつものペースを取り戻している。
腕を組んで私を見て、不機嫌オーラをバンバン漂わせる。
「他に行くアテがあるならいい。だけど、勝手に仮眠室に住み着いたり、変なことをする様なら上司として見過ごせない。だったら、ここに住め」
「変なことって」
「しようとしていただろう?」
むぐ、と言葉を飲み込む。
私だって、必死なんです、と心の中で舌を出した。
だけど頭の中では冷静に、ここに住まわせてもらうことと、それ以外の方法を天秤にかける。
そして……
悔しいけど、ここに住まわせてもらうのが一番いいってことは……すぐにわかる。
家を探すのも、借りるのも大変。敷金礼金、家賃のほか、家具だって電化製品だって買わないといけない。いくら貯金があると言っても、限りがある。
それに家を借りるのに、保証人を頼む人も難しい。
ありがたいことに、お金はいつでもいいって言ってくれていて……
ここは今まで住んでいた家より会社に近いし、ここは高級マンションで安心安全。
文句のつけようのない、いい場所だ。
問題なのは……
この人が実家のライバル会社の、中でも一番重要人物だということで、同居なんて危険すぎるということ。
それに上司だから気も使うし、この人と一緒に暮らすなんて私生活でも色々注意されそうで怖い。
だけど……やっぱり今の私にこの話は魅力的すぎる。
これ以上ない、好条件。
同居だけなら、別に問題ないんじゃないだろうか。
あれだけ会社で仕事をしているから、家でも仕事をしているとも思えないし……家に機密書類を置いていることもないはずだ。
だから、一緒に住むだけなら、大丈夫。
心の中でもう一人の自分が、そんな甘い囁きをしてくる。
ちろりと視線を上げたら、井上颯斗は片方の眉を上げて私を見た。
「どうする?」
「確認していいですか」
私はじっと井上颯斗を見つめる。
「私がここにいて、嫌がる人…恋人とか、大丈夫ですか?」
だって、この人は見た目も肩書きもいい、口を開いたり、視線を合わせなければ、一般的にはとても素敵な人で
恋人とか、それに近い存在の人に誤解されて変な恨みを買っても困る。
だけど、それはとても冷たい視線で返された。
「知られて困るような人はいない。……それに恋人がいるのに他の女性を連れ込むようなことは、絶対にしない」
絶対、に力を込めてキッパリと否定した。
「それから」
井上颯斗は片方の口角をあげて皮肉げに笑う。
「石田をどうこうしようなんて気持ちは、絶対に、ない。だから安心しろ」
これまた絶対、に力がこもっている。
私は苦笑いした。
「……ありがたいですけど……」
女性として魅力がないとはっきり言われたことに、密かに気持ちが落ち込む。
それから数分間悩んで……私は井上颯斗に顔を上げた。
「…………よろしくお願いします」
悔しいけど、これが最適解だ。
その答えに井上颯斗は満足そうな顔で笑った。
きっとこの人は私がものすごく変なことをすると思っていただろうな、と思うとなんだか情けなくなった。
小さくため息を吐くと、井上颯斗がじっと私を見ていた。
その視線が居心地悪い。
「なんですか?」
「あの家、ずっと住んでるのか?」
「え?」
「長く住んでいる家だったのか?」
どうしてそんなことを聞くのだろうと思いながら、仕方なく私は答える。
「……あの家、大学卒業してからずっと住んでいるんです……」
大学卒業して、なんとか一人暮らしを勝ち取って、一人で探した家。
もちろん、親の援助なんてない。お金がなかったから、本当に小さいお部屋しか借りれなくて、最初はカーテンもテレビもなかった。ベッドと冷蔵庫と洗濯機、パソコンの最低限の持ち物だけで暮らし始めて……そして、自分の欲しいものを見つけて、毎月のお給料をやりくりして少しずつ買い集めた。
大変なこともたくさんあったけど、少しづつ部屋が完成していくのが楽しくて、嬉しかった。
「そうか。……残念だったな」
「え?」
当たり前のように、この人は言い切った。
「だって石田にとっては大切な場所だろう?」
改めて実感する。
大切な場所だったことに。
私のお城だったことに。
「そうですね。この家に比べたら、本当にちっぽけな家だけど、でも……確かに私には……」
大切な場所。
だけど、それは今日全部なくなってしまって……
大切にしていたものも全部、なくなってしまって……
何か心にポッカリと穴が空いたみたいだった。
「頑張ったのに……残念だったな」
その井上颯斗の声を聞いたら、急に目の奥が熱くなって、慌てて顔を俯けた。
思い切り泣いてしまう気がした。
いつもみたいに冷たい声で、鼻を摘んだりしてくれたらいい。
そうしたら私もいつも通りに振る舞える。
だけど……
こんなに優しくされたら、泣きたくなってしまう。
この人に泣かされるなんて、嫌だ。
私はグッと涙を飲み込んだ。
なのに、この人は本当に嫌な人だ。
静かにソファから降りて、私のそばに膝をついた。
そして私の頭の上に、何かが載せられた。
それは人の手で、間違いなく……この人の手だった。
驚くより先に、声がした。
「よく、頑張ったな」
そう言って、下を向いたままの私の頭を、そっと撫でた。
確かに、私は一人でずっと、頑張ってきた。
誰にも頼ることができなくて、辛いことも一人でなんとか頑張ってきた。
それをまさか、この人に気がつかれてしまうなんて。
こんな心の弱っている時に、そんなことを言うのは反則だ。
そんなことをされたせいで、我慢できなくなった私の目から、涙がこぼれた。
ポタリと涙が床に落ちたら、もう、止まらなかった。
私は声を堪えて静かに泣いた。
きっとそれがわかっているはずなのに、井上颯斗は手を離してくれない。
「井上さん、手離してくれませんか」
返事はない。そして、手も離れていかない。
本当に、腹が立つ。
「石田」
「……なんですか」
「どうしたら、泣き止む?」
一体何をいうのか。
泣かせたのは、自分なのに。
だけど私の頭を撫でる手は、優しいもので
だから止めるどころか、もっと涙が溢れてきた。
気がついたら、とても近くにこの人がいて
息を吸ったときに漂う香水の匂いを、なんだか懐かしく感じてしまう。
手を伸ばして、そのシャツをそっと握りしめた。
そうして、静かに体を前に倒して、額をこの人の胸に押し当てた。
「少しだけ、こうしてくれてたら、それでいいです」
「……わかった」
「あとは……明日になったら、今日のこと全部、忘れてください」
私が泣いたことも、一人で頑張っていたことも
どうしても誰かに頼りたくて、胸を借りてしまった事も。
明日になったら忘れてほしい。
「……それはできない」
そのそっけない返事に笑ってしまう。
笑った拍子に、また涙がこぼれた。
もう、最悪。
他に言い方、あるよね。
嘘でもいいから、頷いてくれればいいのに。
だけど、人に寄りかかるのは、やっぱりとても……心強かった。
なんだかとても安心できて、
私はしばらく、泣き止むことができなかった。




