予想もしていなかったことが起きました
生きていれば、思いもかけないことが起きることはある。
で、あれば、今の状況は本当に、本当に一瞬も予想したことのない出来事だ。
もうすぐ日付の変わる時間。
私は綺麗な、どう見ても高級なマンションの一室で、床に正座していた。
側のローテーブルには紅茶が置いてあって、いい匂いがする。
そして……目の前にはソファに座って脚を組む、数時間前にはこれ以上ない険悪な状態になっていた……上司がいた。
ついでに言えば、この人は実家の商売敵の会社で最も重要な仕事をしている人で、私が近くにいるのはよろしくない人物だし、つい先日もこれ以上関わるまいと固く心に誓った人でもある。
だけど私が今いる場所は、紛れもなく目の前のこの人の家になる。
関わらないと言っておきながら、私はこの人のプライベートスペースに思い切り、足を突っ込んでいる。
ああ、もう本当に
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
******
ほんの数時間前、私の住むマンションが火事になったという連絡が入った。
私の家は会社から電車で40分ほどのところにある、10階建てのマンションで、働き始めてからずっとそこに住んでいた。
そこが今日、火事になった。
幸い住人に問題はないし、マンションも全焼したわけでもない。
だけど、火元が私の住んでいる一つ上の階だったのが、よくなかった。
煙と消火活動の影響で、私の家はとてもではないが住める状態ではなくなってしまった。
電話をもらって、マンションに駆けつけて、いろんな人から話を聞いたけど、頭の中は混乱していて、
……正直、何も覚えていない。
で、外から黒く焦げた自分の部屋を見あげて立ち尽くす私の肩が、突然横から叩かれた。
「ひえっ」
「……おい。驚きすぎだろ」
手の持ち主を見上げたら、そこには周りをパトカーや消防車に囲まれても、変わらず冷静で落ち着いた佇まいの上司……井上颯斗がいた。
そこで私はようやくこの人の存在を思い出した。
家が火事になったと聞いた井上颯斗は、私と一緒にマンションまで来てくれた。この人が言うには「いざという時のために人がいた方がいい」ということらしい。
なんというか立派な人だ。
実際は明らかに私の魂が抜けていて、使い物にならなかったからだろう。
だけどこんな時にいつも通りと言うのはありがたくて、その凍るような冷たい視線にすら、安心してしまう。
どこかに行っていた気持ちが、引き戻された気がした。
「だ、大丈夫です」
大丈夫という割に、私は動けない。
でも、わかってほしい。
自分の家がなくなってしまった、なんて……すぐには受け止めきれない。
どう見てもおかしい私に、耐えきれないというように、井上颯斗が声を掛ける。
「いつまでもこうしていても始まらない。石田、今日はどこに泊まるつもりだ?」
そこでようやく気がついた。
家がない。つまり、寝る場所も着るものも何もない。
ずっとここで立っているわけにもいかない。
今夜はどうしたら……?
突然降ってきた重大な問題に、私は慌てる。
「ええと…」
私は働かない頭を必死に動かす。
まず実家。
これは最低最悪。
私がお父さんと約束した実家に帰る期限までは、あと1年もない。今実家に帰ったら、そのまま実家暮らしになって、そして予定を前倒して、お見合い結婚だ。
今までの努力が水の泡だ。
実家に報告されてしまうから、親戚だって頼れない。
ホテルとかネットカフェもあるけど……
空きがあるのかなんてわからないし……。こんな日付が変わる前に探せるもの?
そんな時、急に良い考えが浮かんだ。
絶対に安全安心、セキュリティもアメニティもバッチリのところがあった。
とりあえず住むところが見つかってホッとしていると、井上颯斗は嫌そうな顔をした。
「絶対変なこと考えてるだろ」
私は胸を張って言い返した。
「行くところ、ありました」
「……どこだ?」
私は大きく頷いた。
「会社の仮眠室です」
数秒間、目を見張った井上颯斗は、しばらくして手をこめかみに当てた。
肩を揺らして大げさなくらい大きなため息をつく。
「バカなことを言うな」
私は即座に言い返した。
「いいアイデアですよ。セキュリティもしっかりしているし、お風呂もあるし」
「風呂はない。シャワーだ。それに会社に勝手に住みつくな」
何をいっている。
この人こそが開発の仮眠室に泊まり込んでいるという噂ではないか。
井上颯斗は二度目のため息をついた。
「とりあえず、開発の仮眠室が一番良いって噂ですから、少しの間、借りていいですか?」
「仮眠室はどこも同じだ。それから会社を私物化するな」
「でも井上さんも仮眠室に住んでいるって噂ありましたよ。だから最初に私物化したのは井上さんです」
そこで井上颯斗は手を伸ばすと私のおでこを弾いた。
過去最高に痛かったそれに、私は思わず声を上げた。
「痛い!」
「バカ言うな。本当に住んでいるのと、よく泊まっているのは違う」
「でもタダだし」
「そういう問題じゃない。バカ!」
何回目かになるバカを言った後で、井上颯斗は手を頭に当ててガシガシと動かした。
整えられた髪型があっという間に乱れる。
いつも綺麗にしているこの人には、あり得ないスタイルだ。
「井上さん、髪が乱れてます」
それにものすごく冷たい視線を返してきた。
「誰のせいだと思っている」
私は肩をすくめた。
「でも、他に行くところがないので、今日は借ります。良いですよね?明日は土曜日で会社も休みだし」
今日はもう疲れた。
とりあえず眠りたい。
こんな状態では頭が働かない。
コンビニで必要最低限のものを買って、仮眠室で休もう。
明日からのことは……明日考えよう。
そこで私は井上颯斗に向かって頭を下げた。
「こんな遅くまで、ありがとうございました。すごく、心強かったです」
これは本心だ。
一人だったら、まだぼんやりしている自信がある。
顔を上げると井上颯斗がじっと私を見ていて、ものすごく苦いものを飲んだような顔をしていた。
「井上さん?」
だけど返事はなくて、静かに手が伸びてきて、私の手が掴まれた。
ん?
振り返ると井上颯斗が苦い顔で私を見ていた。
その顔が思いきり何かをいいたそうで、
数秒後にようやく心を決めたように私の腕を引っ張ると、黙ってタクシーを止めて、私を押し込むように中に入れた。
「井上さん?」
「うるさい。しばらく黙ってろ」
え?
そこからタクシーでわずか20分。
タクシーが止まったのは、見るからに高級なマンションの前で、その重厚な作りの低層階マンションの中に、井上颯斗は迷わず進んで、そしてそれを追いかけて……私も中に入った。
こうして私は、この人の家で、二人で向かい合ってお茶を飲むことになってしまったのだ。
今日はいろんなことがあった。
まさか火事で家を失うなんて。
そして同時にいろんなものを失うなんて。
そして、まさか井上颯斗の家に来るなんて。
最後のことに一番びっくりしている。
******
私は綺麗な所作でカップを口に運ぶ井上颯斗をそっと盗み見る。
つられて紅茶を飲むと、とても美味しかった。今まで飲んだ紅茶で確実に一番美味しい。
そこで目の前の人が口を開いた。
「石田、これからどうするつもりだ?」
私は意を決して顔を上げた。
「急いで、家を探します」
ジロリと井上颯斗は私を見た。
「それまではどうするつもりだ?まさか本当に会社の仮眠室じゃないだろうな」
思わずうっと声が出た。
なぜわかる。
実は明日から少し、借りようと思っていた。
私の顔を見て考えを察したのか、井上颯斗はため息をついた。
「女性のやることではない。そう思わないか?」
私はしょんぼりして俯いた。
言い方、冷たくないか。本当に。
井上颯斗はため息をついて、スマホを手にした。
「知り合いにホテル関係の人がいる。今から一部屋頼むから、そこに行け」
私は首を振った。
「でもそれは金銭的に厳しいので……」
冷たい目でじっと見つめられて、思わず口籠もった。
気まずいけれど、仕方ない。
「新しい家の契約とか、買わないといけないものがたくさんあるので、今後を思うと節約したいので……」
「実家は?」
「東京です」
「なら、実家に行け」
私は首を振った。
「実家は……ダメです」
「どうして?」
「詳しくは言えませんが、父親とした約束があって、そのせいで戻れないんです」
井上颯斗はじっと私を見る。私も負けずに見返した。
だって、私が自由にできるのは、これが最後かもしれない。
だから、ここは頑張らないといけない。
この人にだって負けてはいられない。
「家を早く借りて、どうにかします」
私は井上颯斗に向き直った。
「数日間は仮眠室を借ります。その間に行くところを決めます。だから会社には黙っていてください」
井上颯斗はそんな私をじっと見ていて、しばらくして、今日一番大きなため息をついた。
手を頭に当てて考え込むこと数分。
それから私の顔を見て、そしてまた俯いた。
どちらかというといつも即断即決のこの人が、ありえないくらい悩んでいる。
だけど、それから数十秒で顔を上げた井上颯斗は、決心したように私を見た。
そして私の目を見て、ようやく口を開いた。
「ここに住め」




