運命のいたずら
会わないようにしようとか、関わらないようにしようとか
そう決心する時に限って、その人との接点が多くなってしまうのはなぜなのだろう。
ただの偶然なのか
運命のいたずらってやつなのか
……それとも、その人とはどうしても離れられない関係ってことなのか。
人生って不思議だ。
そして今日も私はその人と仕事をしている。
課長とあんなことがあっても、この人は全く変わらずに私を接している。
私の秘密も、私と課長の会話もこの人は知らないのだから当たり前だけど………。
なんだかモヤモヤする。
時間は夜の21時。
この時間にまだ仕事と言うのも、慣れてきたけれど、やっぱり遅い。
そして今。
この瞬間、確実に、私たちの間に過去最高に険悪な空気が流れている。
他には誰もいない開発部の中で、いつものように自分の椅子に座っている井上颯斗と、その側に立つ私はお互いをじっと見ている。だけど、ここには甘い空気はない。
どちらかというと、睨み合っているというのが似合う。
始まりは、今日の昼。
この人にいつものように電話一本で呼び出された。
「これをまとめといてくれ」
と、机の上に乗った封筒を顎で示された。
「夜に戻るから、それまでに」
ぶっきらぼうに言うだけ言って、私の返事なんて聞かずに慌ただしく出てしまった。
仕方なく開発のデスクに座って、封筒を開けて中を見て……咄嗟に閉じた。
これ、見てはいけないやつ。
実際はそこまで重大機密ではない。と思う。
まず入っていたのは、とある機械を使用したスタッフの感想を書いた紙。
現場ウケがいいと評判の青柳は、綿密に現場の声を聞いているようだ。
これをもとにシステムをいじるのだろう。
そして、もう一つが問題だった。
その機械のシステムの欠点、改良すべき点、改良のための方法案……がまとめられていた。
私は思い切りそれに反応してしまった。
こんなのはわかる人にはすぐにわかってしまうことだと思う。
だけど、もし、そこで、私が見たら………
何かあったら……?
そして周りは、課長はどう思う?
自分が気にしすぎているのはわかっている。
ついこの間、課長に言われたことが、私の心の中に棘が刺さったみたいに、残っている。
そのせいだ。
『機密、盗まないよね』
『そんなことしたら、あいつ、悲しむだろうな』
それを、忘れられない。
そのせいで、これを開けることすら、ためらってしまう。
……これを、私がやって良いはずがない。
なら、どうしたらいい?
固まる私に、隣の山下くんが声をかけてきた。
「石田さん、どうしました?」
私はすぐに笑顔を作る。
「あ、うん。こういうの機密情報は、まだ私には難しいなって……雑務だけにしてくださいって井上さんには言ってあるんだけど」
「でも、これ別に……」
そこまで言って、山下くんは止めた。
言いたいことはよくわかる。
これはそこまで機密じゃないです。って言いたいのだ。
そうだよ、わかる。そんなに重大じゃない。
だけど、神経質になっている私には、怖い。
誰にも理解はされないかもしれない。
だけど山下くんは私と井上颯斗のやりとりをよく見ていたから、なんとなくわかってくれたのかもしれない。
困った顔をした私を見て、心を決めたように笑った。
「じゃあ、僕がこっちやります。だから、石田さんは僕がやっている方をお願いしていいですか?社内のバージョンアップの履歴チェックをするだけだから、これならいいですよね」
「え?」
それには簡単に頷けない。
勝手に仕事を取り替えていいはずがない。あの人は考えて仕事を割り振っているはずだし、私も社会人として、それくらいは理解できる。
「でも……」
「大丈夫ですよ」
山下くんが力強く頷いた。
結局、私は山下くんと仕事を交換した。
だけどそれは戻ってきたこの人に、すぐに見破られた。
この人がそれを見逃すはずがないのだ。
で、山下くんと二人、デスクの横に立たされて怒られることになった。それを横目に見て、あまりの井上颯斗の怒り方にみんなが怯えて、逃げるように帰って行って、
最後に私たち3人だけが残された。
井上颯斗は山下くんを見た。
「山下、お前はいい」
「でも……」
山下くんが心配そうに私を見る。
だけど、そんな山下くんに冷たい声が浴びせられる。
「どうせ石田が頼んだ事だろう。山下は関係ない。帰れ」
それでも心配そうに見る山下くんに私は笑って首を振った。
巻き込んで、ごめん。
山下くんが部屋を出ると、普段はうるさい開発の中はとうとう私と井上颯斗だけになってしまった。
座ったままじっと見つめられて、正直とても……怖い。
いつもよりずっと冷たい、その凍るような視線が突き刺さるようだ。
何も話しかけてこないのが、さらに怖い。
その分、ずっと怖いことを言われる気がする。
その沈黙に耐えきれなくなった頃、井上颯斗が立ち上がった。
静かに一歩、私に近づく。
夜でもボタン一つ緩めずに、きちんと整っているその全身から、隠しきれない怒りと苛立ちが伝わってくる。
ついこの間、この人に優しいという感情を抱いたのが、嘘みたいだ。
「ひとつ聞きたいことがある」
井上颯斗は表情ひとつ変えずに私を見ている。
いっそ冷静すぎるほど。
「石田」
「……はい」
「石田は一体、何を怖がっている?」
思わず、息を呑んだ。
鋭い目が、声が、いきなり核心をついてきたから。
「石田は何をそんなに恐れている?」
「別に、恐れては……」
嘘だ。
私はとても恐れている。
会社の機密に触れること。
自分がそれを見てしまう、手に入れることができる立場にいること。
そして、ここにいられなくなってしまうこと。
だけど声が震えているから、無理をしていることが伝わってしまう。
その証拠に、この人は呆れたように口を歪めた。
「嘘だ。他の仕事ならなんでもやるくせに、開発の仕事を嫌がるのはどうしてだ?」
顔を上げると、真剣にこっちを見る黒い瞳と視線があった。
まるで全てわかっていると言うような目をする。
「石田は何かを怖がっている。しかも強く」
そして静かに息を吐く。
「…正確には開発のシステムや商品、それに関連する話。それに強い拒絶反応を見せる……過剰なほど」
一緒に働いている時間は短いのに、よく見ている。
何を言われるのかわからなくて、息を飲んだ。
「石田が言う機密って…なんだ?そして何をそんなに怖がっている?」
私は精一杯の勇気で首を振った。
「怖がってなんて、いないです」
「嘘だ」
必死の反論はすぐに否定される。
「ある一定の言葉に石田は過剰に反応する」
そうしてまた一歩、近づいた。反射的に一歩、私は後ずさる。
「石田が反応する言葉を教えてやろうか」
「え?」
井上颯斗は私の目の前でその形のいい唇を片方だけ、上げた。
そのままその切長の目を、私に向ける。
「新商品……とか?」
ごくりと唾を飲んだ。
心臓があり得ないくらい早く打っている。
焦る私と反対に、この人は目の前で、とても静かに私を見ている。
顔色も変えず、私の反応を逃すことなく見ている。
もうだめだ、と思った。
この人は、もうわかっている。
私が、何かに恐れていることを
人に言えない秘密を持っていることを……全部、わかっている。
この人はそれを確認するために、きっと私を何度も試したのだろう。
私が気がつかないように、とても上手に。
もう、だめだ。
私は目を閉じた。
その時、静かな部屋に何かが動く音がした。
それは机の上に置きっぱなしにしていた私のスマホだった。
井上颯斗も気がついたのか、眉を寄せて私を見て……視線があった。
でもこの状況で電話には出られない。
無視したけれど、その電話はしつこくて、一度止まってまた動き出す。
あまりにも長く何度も鳴るので、どうしようと思っていると、
井上颯斗がため息をついた。
気になって会話ができない、という顔をする。
「出なくて良いのか?」
「仕事中ですし」
その間も電話は切れて、またすぐに動く。
この状態で電話に出られるほど、私の神経は強くないし、心臓に毛も生えていない。
でも井上颯斗は視線を私のスマホに向ける。
「いいから、電話に出ろ。気が散る」
「はい」
私は走ってデスクに戻って電話に出る。
「大倉さんですか?」
電話口で大きな声で本名を呼ばれて、とんでもなく慌てる。
距離が離れているとはいえ……こんな静かな部屋でそんな大声を出したら、井上颯斗に聞こえたらどうする。
だけど、電話の途中から私は眉を寄せた。
電話が終わって、私は呆然と立ち尽くした。
その様子がおかしかったのか、井上颯斗が私の元へ歩いてきた。
でも、そんなことどうにもできないくらい、思考が停止していた。
「石田?どうした?」
返事のない私の顔を、背の高いこの人が腰をかがめて覗き込む。
「何かあったのか?」
私は顔を上げた。
井上颯斗が心配そうに私を見ている。
本当に、心配している顔だった。
「私の家が……」
「家?」
「無くなってしまって……」
井上颯斗が眉を寄せた。
その電話は私の住んでいるマンションが火事になったという連絡だった。




