初めてのディナーの後に
その日は朝から調子が悪かった。
昨日ちゃんと髪を乾かしていたのに寝癖がついていて、それがドライヤーでもコテで巻いてもなかなか取れなくて、準備に時間がかかった。
なのに急いでいれたコーヒーを机の上にこぼしてしまった。
その片付けに時間がかかって、急いで乗った電車が遅れて遅刻しそうになった。
出だしからイマイチだ。
なんとか時間ギリギリに会社に滑り込んで、ホッとした。
昨日の夜に井上颯斗と準備した、朝7時からやっている会議は無事に終わったのだろうかと、パソコンを立ち上げながら考える。もう9時になるから、とっくに終わっているし、私に報告がなくて当たり前だけど……なんとなく落ち着かないのは、なぜだろう。
デスクの上の電話をじっと見つめてしまう。
便りがないのは、無事の証拠って言うから……。
普通に、なんでもなく終わったってことだろう。
それに……
井上颯斗に限って会議でミスするなんて、あり得ない。
電話から目を離したら、課長がやってきた。
じっとこっちを見るのが、なんだか居心地が悪い。
課長は私の隣の誰もいない席に座ると、頬杖をついてこっちを見る。
「おはようございます」
「おはよう」
……明らかに何かあるという目で私を見る。
なんだというのだ。
「なんですか?」
「いや。いつの間にか、仲良くなったなと思って」
「は?」
相変わらず意味がわからない。
何が?
思い切り意味不明だという顔をすると、課長はにっこり笑った。
「仲がいいって?」
「うん?石田さんとあいつ」
あいつが誰かなんて、聞かなくてもわかる。
「最近、石田さんは総務にいる時間より、開発に行っている時間のほうが長いよね」
そこで私はピンときた。
これは…あれだ。
私が最近総務の仕事よりあの人の仕事にかける時間が長くなっているから……嫌味だ。
私が開発に行くのを許可したのは誰ですか?
あなたのせいですよ、と言ってやりたい。
「開発の方が居心地いいのかな。……気の合う人がいるとか」
だけどここで私が怒ったら……この人の思い通りだ。
絶対にもっとからかわれてしまう。
だから私は全力で無表情をキープする。
それに課長は眉を寄せた。
「君たち、気が合っているよね」
「別に、私と課長だって気が合ってませんか?」
「僕から見ても随分仲がいいと思うよ」
私の言葉はあっさりと無視した。
「昨日の夜、あいつと一緒にいなかった?」
思わず指がピクリと動いてしまった。
そっと視線を動かしたら、課長と目が合った。
課長は笑わずに私を見ている。
「昨日の夜、二人で一緒に会社のロビーのあたり、歩いていたよね?急に姿が見えなくなっちゃったけど」
全て分かっているというように言われて、返事に詰まる。
昨日の夜に並んでロビーを歩いていたのは間違いなく私たちで、
そしてこの人に見つからないように、私たちが隠れたのも間違いない事実だ。
ふっと昨日のことを思い出す。
私の体はあの人の腕の中にすっぽり、埋まってしまって
それから……香水のいい匂いがした。
その時の感触とか匂いをリアルに思い出してしまって……私は慌てて首を振った。
そんなことを思い出している場合じゃない。
課長がじっと私を見ている。
私たちが隠れるより先に、この人は見ていたと言うのか。
ごまかすしかない。それは私じゃない。
ここは強い心で否定しよう。そう心に決めた時、課長はニンマリと笑った。
「それは私では……」
「やっぱり、石田さんで間違いないか」
あまりにも確信に満ちた態度に私は言葉に詰まる。
「課長、見たんですか?」
だけど課長はあっさりを首を振った。
「見てないよ。だけど今、この会社であいつと二人でいるなんて、石田さん以外考えられないから」
え?
課長は目を細めて私を見た。
「それに石田さんの顔を見ればわかるよ。思ったことが全部、顔に出てるからね」
誰かさんと同じことを言って、自慢げに笑った。
つまり、カマをかけたってことか。
ムッとして、私は無視してパソコンのキーを押した。これ以上話していたら、ボロが出そうだ。
黙っているほうがいい。
課長はそんなことお構いなしに話しかける。
「あいつが石田さんのこと欲しがったのって、そういうことだったのかな。今まで気が付かなかったな」
欲しがるってなに?
そう言うことってなに?
「……もしかして石田さんもあいつのこと好みだった?顔はいいもんね。だけど、性格は結構クセがあるよ。仕事人間だし」
自分の性格を棚に上げて、言いたい放題だ。
課長はちょっと声を大きくした。
「本当は開発に異動したかった?」
思わず顔を上げて課長を見る。
だって、あまりにも……からかいすぎだ。
課長は私を見て、にっこり笑う。
「よかった。ようやくこっち向いてくれた」
「隣でずっと喋っていられたら、気になって仕事できないです」
「一つだけ言っておきたいんだ」
ちょっと真剣な顔で、課長は私を見た。
「アイデアを盗んでも構わないと言ったのは本当だけど、ダメージは最小限に留めたい」
そこでようやく気がついた。
この人は私が開発から……井上颯斗から機密を盗むかもしれないと思って……
注意しにきたんだ。
この会社に来た時、私は絶対にそんなことしないと約束した。
でも今はあの時と色々変わってしまった。
開発に行く予定のなかった私が、開発に行くようになって……
井上颯斗と話す予定もなかった私が……あの人と話して、一緒に仕事をすることもあって
そして、食事まで一緒にしてしまった。
全部予想外のことだけど。
確かに、心配で注意したくなるくらい、距離が近いかもしれない。
「そんなことしません」
「君のことは信じているけど、やっぱり心配になる」
課長は私を見て、そしてため息をついた。
「最初は君とあいつが一緒に働いてみたら面白いかなって思ったんだけど……」
「面白いって」
「いい化学反応があるかなって思ったんだ」
人で遊ぶなと言っておきたい。
なんだよ、化学反応って。
睨む私を当たり前のように無視して、課長は首を傾げた。
「思ったより、本気になっちゃったのかな」
相変わらず、意味がわからない。
わざとらしく息を吐いて、課長は横目で私を見る。
「君が新商品情報を盗んだら、あいつはきっと傷つくだろうな」
「傷つくって……」
「そう、思わない?」
その言い方はずるい。
それに、疑われるのはやっぱり傷つく。
そもそも、まだあの人の頭の中にしかないアイデアを盗むことはできない。
だけどこれから先、私が開発にいたら、何かのタイミングで手に入れることは……できなくはない。
……あの人がいつか企画書を書いたら、手に入れることはできる。
だけど、もし、
私があの人の……企画を盗んだとしたら?
あの人はどんな顔をするのだろう。
ふっと頭に浮かんだのは、あの人の不機嫌な顔でも、眉を寄せた顔でも、冷たい顔でもなくて
この間初めて見た、優しい笑顔だった。
あんな顔、数えるほどしか見てない。
今まではずっと怒られていたし、ため息をつかれたこともあるし、苦い顔ももっともっとたくさん見ている。
だけど、あの人のことを聞いて一番に浮かぶのがこの顔なんて、どうかしている。
まるで、私があの笑顔を気に入っているみたいだ。
一緒に牛丼を食べた時の顔、初めて見た笑顔
……それから、この間とても近くで見た、顔。
あの綺麗な顔が悲しそうに歪むのは、見たくない気がした。
私は唇を噛み締めた。
「そんなこと、しません」
「本当?」
「本当です」
課長の目を見てキッパリと言い返した。
「絶対に、しません」
でも、私がそんなことをしても、あの人はなんとも思わないかもしれない。
だって、私なんてたくさんいる後輩の一人だから
そんなことをしたら、怒って、軽蔑されて、それから……
黙って切り捨てられて、おしまいになる。
だけど、そんなことをした時点で、私はもう青柳にいられない。
最後だと思えば……もう会わない、関わらないなら、それもありなのかもしれない。
でも、私が嫌なのだ。
あの人の不機嫌な顔も、真剣な顔も、それから……楽しそうな顔も、優しい顔も見た。
だけど……悲しい顔は、見ていない。
あの人の悲しそうな顔だけは、見たくない。
だから絶対に
私はそんなことはしない。
私は課長に向き直った。
その目を見て、しっかりと宣言する。
「私は絶対に、そんなことしません」




