次の約束
井上颯斗は静かに私を見ていた。
次にその口が開いた時、絶対に聞いてはいけないことを聞いてしまう。
私の頭の中にはそれしかない。
だから井上颯斗が動いた時、慌てて声を出した。
それを聞かなくて済むように。
「あ、あの……!」
急いだせいで、少し大きな声になってしまった。
「聞きたくないです」
私は大袈裟なくらい首を振る。
誤解されないように、ここは絶対に否定しないといけない。
「別に、新商品のことを知りたいわけではなくて……その、だから井上さんは何も言わなくていいんです」
焦っている私を見ても、この人は顔色ひとつ変えない。
その口が開いた時、私は声を上げた。
「井上さん!この話は…」
「新商品のことはまだ、何も始まっていない」
あまりにもあっさりと告げられた言葉に、全身の力が抜けた。
まだ、始まって…ない?
何も?
その返事に力が抜けた。
「そう…なんですか?」
井上颯斗は静かに頷いた。
よかった……。
思わず気持ちが緩んだ。
胸を撫で下ろすと、その様子をみた井上颯斗が頷いた。
「そうだ。まだ誰にも話してないし、文字にもしてない。だから誰も知らない」
「え?」
それを聞いて、また戸惑う。
と言うより、その時ようやく思い出したのだ。
青柳の製品は全て、この人が考えている。
直前まで、誰も知らないこともある。
全部、この人が……
一人で、考えている。
じっと見上げたら、井上颯斗は手を動かして、その長い指で自分の頭を指差した。
「新商品のことは、まだ全てこの中だ」
「誰も知らない」
私は息を飲んだ。
心臓がどくどくと打っている。
私はあり得ないくらい焦っていて、混乱していて……
だけど、目の前のこの人は悔しいくらい冷静だった。
静かに井上颯斗は前を向いた。
「アイデアはあるが、俺しか知らない。誰かに言うつもりもない。だから今の開発に機密なんて存在しないし、石田が怖がるようなことはない」
キッパリはっきり宣言してくる。
だから私もなんでもないことのように、返事する。
「そ、そう、ですか」
「だから安心して仕事していいぞ」
「でも……」
私は小さく息を吐いて、井上颯斗に顔を向ける。
「でもこの間、新商品の書類って言ってましたよね……」
そう、ついこの間のことだ。
他ならぬこの人から、新商品の話と他の仕事と、どっちがいいのか選べと言われた。
それで私は別の仕事を選んだのだ。
あの時確かに、新商品と言っていた。
だけど、井上颯斗はそれを即座に否定した。
「あれは石田の反応を見たかっただけだ」
「え?反応?」
「石田がどっちを選ぶか、確認したかった」
あっさりと戻ってきた返事にムッとする。
つまり、私がどの仕事を選ぶか、試してみたってこと?
人を試すなんて!
ひどい!
私はムッとしてすぐに言い返した。
「試すなんて、ひどいです。どうしてそんなことしたんですか?」
だけどこの人は顔色ひとつ変えずに、視線だけを私に向けた。
「確認したかったんだ」
じっと私を見つめる。
その目が探るように私を見る。
嫌な予感がした。
「何を……確認しようと……」
「石田がどっちの仕事を選ぶのか。俺には答えが分かってた。そしてそれが正しいか、確かめたかった」
「答え……?」
そうだ。そう言って、井上颯斗は私の前に顔を近寄せた。
長いまつ毛がくっきりと見えるくらい、近い距離に顔がある。
その顔が綺麗さは、近距離になると、より鮮明になる。
だけど、それに見惚れる余裕はない。
だって、その目がまるで私の心の中を見透かそうとするように、切り込んでくるから。
井上颯斗が体を前に倒す。
そのせいで机の上に置いた私の手に、彼の手が触れた。
反射的に私の体がびくりと反応するけれど、この人は眉ひとつ動かさない。
「俺は石田に聞きたいことがある」
逃げたいのに、その鋭い視線に囚われたように、私は動けない。
「石田はいったい何を……」
そこでお店のドアが開いて、3人組の男の人が入ってきた。
「俺、牛丼。大盛り」
そんな大声で話しながら、私たちの反対側のカウンターに座る。
酔っ払っているのかみんな顔が赤くて、そして大声で喋っている。
さっきまで二人しかいなかった店内が、急に騒がしくなる。
井上颯斗は反対側のカウンターを見て、そして私へ視線を移して
最後に大きなため息をついた。
「出よう」
そう私を促すと、立ち上がった。
お店を出て、しばらく無言のまま歩いていく。
何を話したらいいのかわからない。
この人はさっき、何を言おうとしたんだろう。
何を聞こうとしたんだろう。
聞くのが怖くて、話しかけるのが、怖い。
「あの…」
沈黙が耐えられなくて、左隣を見上げる。
ちょうど少し視線を下げた井上颯斗と、目があった。
「ごちそうさまでした」
「気にするな」
「でも……」
井上颯斗は前を向いた。
「次は石田に奢ってもらう」
視線のあったその目が笑って見えて、怒っているわけでも、さっきの話の続きをするつもりでないこともわかる。
私はどうしていいのかわからないまま、苦い笑顔になった。
「じゃあ、その時は卵付きで」
そう返事したら、井上颯斗は小さく笑った。
なんだか不思議だなと思う。
この人とまた食事する機会なんてあるのかな。
普通の上司と部下ならあるだろうけど………
私とこの人の関係を考えたら……きっと、ない。
それに……この人は何か、気がついているかもしれない。
だから、私を試そうとした、なんて言ったんだと思う。
何に気付いたのかはわからないけど、気をつけないといけない。
課長がこの人に私の実家のことを教えた可能性はあるけれど……。
多分、それはない。
もしそうなら、あんな風に直接私に聞いたりしない。
そんな面倒なことをするより、静かに私を開発から遠ざければすむことだ。
きっと、何か気になることがあって……
……もしかしたら、いつかこの人は私の秘密に気がついてしまうかもしれない。
私の秘密……実家のこと。
私はグッと手のひらを握った。
私の実家のことは、知られる訳にはいかない。
この秘密を守るには
…この人に近づいたらいけない。
そう思っているのに、『二人で食事することは、もうない』と口にすることはできなかった。
なんだか口にしたくない。
そう、思った。
会社の中に入ってエレベーターまで並んで歩きながら、井上颯斗は私を横目で見た。
「そうだ。今日のこと、絶対にあの人に言うなよ」
「あの人?……課長ですか?」
「他に誰がいる」
確かに昨日の今日で、また二人でいるところを見られたら、絶対に面倒なことになる。
今日だって散々からかわれたのに、2日連続となったら……考えたくない。
今日の倍以上の勢いとしつこさで絡まれる。
私だって面倒はごめんだ。
「あの人しつこいから、今日も俺と食事したって言うなよ」
「言いませんよ」
「ならいい。石田は嘘が下手そうだから、気になっただけだ」
井上颯斗は私の顔をまじまじと見つめて、ため息をついた。
「全部、顔に出てるからな」
「えっ」
「嘘がつけないタイプだ」
私はムッとした。
「そんなことないです」
「自分で思っているだけだ」
言い返そうとしたら、突然左手を掴まれた。
驚く間も無く、グイッと腕を引かれて、そのまま反対側の腕で体を引き寄せられる。
「え?」
井上颯斗は素早い動きで、私を引っ張ったまま、無言ですぐ目の前の廊下を曲がると、すぐに立ち止まった。
壁に自分の背中をつけて、そして私を両腕で囲って……
そっと曲がり角の向こうを、首を伸ばして見つめた。
「井上さん?」
まるで何かから隠れるような体制に、私は驚いて声を掛ける。
だけど、井上颯斗は無言で唇に人差し指を当てた。
そのままじっと私の目を見て、頷く。
目線で絶対に喋るなと脅してきた。
黙ってろってこと?
どうして?
疑問に思っていると、そこに靴音が聞こえてきた。
そっと廊下の角から顔を覗かせると、廊下を歩いていたのは……
課長だった。
離れた場所に隠れている私たちには気づかずに、エレベーターの前で立ち止まる。
あと少し遅かったら、二人でいるところを見られたかもしれない。
危なかった。
井上颯斗と視線があう。
ほら、言っただろう、と言う視線に、私はムッとしながらも反論することもできない。
でも、助かった。
2日続けてこんなところを見られたら、どれだけ面倒臭い事になるか。
課長がエレベーターホールにいるのを、私と井上颯斗は息を顰めて見守っている。
早くいなくなってほしいと願いながら、
つい、目の前の服を握りしめた。
だけどそこで
「え?」
思わず小さな声が漏れた。
ようやく
私は自分の置かれた状況に気がついた。
その時、私の体は井上颯斗の腕の中で
多分、それは………世間一般的にはきっと、
抱きしめられている、と言ってもいい状態だと。
私が握っているのは井上颯斗のジャケットで
私を囲うのは、この人の腕で
その腕の中は暖かくて、
爽やかでちょっとツンとする、多分井上颯斗がつけている香水の匂いがして
それがいい匂いだなと
どうでもいいことを考えていた。




