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初体験

井上颯斗は裏口から会社を出る。

「大丈夫ですから、忘れてください」

「食べて帰った方が楽だろ?俺も腹へったし」

私の言葉を無視してぐんぐん歩いていく。


そのまま飲食店が並ぶ通りに出ると、急に立ち止まって顔をしかめた。

「この時間だと、店も空いてないな」

もうすぐ22時という時間のせいか、多くの店には準備中の札が掛かっている。少し歩いて駅前に出れば、遅くまで空いている店はあるけど、そうすると帰りが面倒になる。


ため息ともに声がした。

「牛丼って訳にはいかないしな」

井上颯斗の視線を追うと、少し先にチェーンの牛丼店が見えた。


だけど息を吐いた井上颯斗が私を見た。

「ちょっと歩くけど、駅まで行くか」

そこで私は首を振った。


「あの……ここではダメですか?」

「え?……俺はいいけど、石田はいいのか?」

信じられないという顔をする。


きっと、この人が付き合うような美人は、おしゃれな店でワインと綺麗に盛り付けた食事を望むだろうから、このタイプのお店に行くことはないのだろう。

だけど…私は違う。


「私、このお店に入ったことがなくて……ずっと食べてみたかったんです」


私の周りはほぼ全員、ここの牛丼を食べたことがあった。みんなが美味しいと言うから、一度は食べたいと思いながら、機会がなくて、ずっとそのままになっていた。

もちろん一人でなんて、入る勇気がない。


恋人がいたら、行けたんだろうけど……残念ながら、いなかったし。

寂しい恋愛事情を思い出して暗い気持ちになる。


でも、今ならいい気がする。

私もこの人もお腹が空いていて、そして気取ったお店に行くような仲でもない。

早い、うまい。

最高でしょう。


私は顔を上げて井上颯斗を見上げた。



こんな提案は困るかな?

できれば、嫌がらないで欲しいなと思う。



そんな私に井上颯斗は思い切り驚いた顔をした。


「今までここで食べたことがないって、もしかして石田ってものすごいお嬢様なのか?」


「……えっ」


その言葉にどきりとした。



井上颯斗は純粋に驚いた顔をしていて、そこに変な意味はないとわかる。

だけど私には衝撃だ。


だって事実だから。



私、お嬢さまなんです。

よりによって、青柳のライバル会社の、お嬢さまです。


   



なんて言って誤魔化そうか、考えても頭が働かない。

もたもたしていると、井上颯斗は笑って私の背中を押した。

「よし、入るか」


私の意見を嫌がったり、断らなかったことに、ホッとした自分がいた。





カウンターに二人で並んで座ると、すぐに牛丼は出てきた。

ほかほかのご飯の上に、くたりと煮えた牛肉がのっている。

ぷうんといい匂いがして食欲が刺激された。

もうすでに匂いが美味しい。

空腹だから正直大盛でもいけたけど、女性のプライドで普通盛りにしてしまったことを後悔する。


絶対美味しいでしょう。


丼を見つめる私に割り箸を渡しながら、井上颯斗は苦い顔をした。

「言っておくけど、うまいけど、そんなに期待するなよ。別に三つ星とかではないからな」

「それは知ってます。でも、ずっと憧れていたので、楽しみです」

ごちゃごちゃ言う人は放って、私は食事に集中する。



いただきます。そう言ってどんぶりを持って、早速お肉とネギを一緒に口に運ぶ。

口の中にジュワッとつゆの味が広がった。


思わず目を丸くする。


美味しい。


続けてほかほかのご飯を食べると、つゆの染みたご飯がまた、美味しい。

ちょっと甘めの味付けが、私好み。

これ、クセになる味かも。



黙ったままの私に、隣から声がかけられる。

「どうだ?」

隣を見上げると、井上颯斗は私を見て吹き出した。

顔で私の感想がわかったみたいだ。


「うまいか?」

「美味しいです!」

思わず声を上げると、笑い声がした。



「そんなに感動されるとは思わなかったな」

「大満足です」

私が笑うと、井上颯斗はテーブルに備え付けの紅しょうがを手にした。

「紅しょうがを入れると味が変わっていいぞ」

いいか?と言うから頷くと、私の丼に紅生姜を入れてくれた。


紅生姜を一緒に食べて、私はまた頷いた。

甘みが強い味付けにちょっと辛味が加わると、いいアクセントになる。


「これもおいしい」

「だろ?」

隣で満足そうに笑う。そのまま自分の丼にも紅生姜を入れた。

「卵を入れてもいい」

「たまご?」                                 

すき焼きに近いかな。

残念ながら今から追加するには量が少ない。

早く教えてくれれば一緒に頼んだのに、と恨めしく思っていると、井上颯斗が呆れた顔をした。


あのな、と諭すような口調になった。

「最初はスタンダードなものを食べた方がいいだろ?店の味もわからないし、アレンジには好みがあるからな」

何も言っていないのに、私の考えを察したような返事が来る。

だけどその意見には同意できるから、文句は言わない事にする。

「卵はまた今度な」

「はい」



もう丼に顔を向けている隣の上司の横顔は、普段よりも柔らかい表情をしている。

会社での冷たい顔はどこに行ったのか。


でもやっぱり美味しいものを食べると、気持ちが優しくなるんだろうな。



隣を眺めながら、あることに気がついた。

男の人と二人で食事なんて、実は人生初めてだった。

そんな記念すべきイベントを共にしたのがこの人なんて、ちょっと予想外だし、不本意……と言えなくもないけど。


でも……

もし、恋人ができたらこんな感じなのかな、と思った。


仕事帰りにこうして並んで食事をしたり、

自分の好きな食べ方を教え合ったりするものなのかな。


だけど同じものを食べて、美味しいって言い合える関係って素敵だ。

できれば、こうして気取らずに牛丼屋に一緒に付き合ってくれる人を恋人にしよう。





密かに決心していると、隣から声がかかった。



「そんなに開発が嫌だったか?」

「え?」

井上颯斗はもう食事を終えていて、お茶を飲みながら視線だけ私に向けた。

「石田は開発の仕事が嫌そうだから」

ドキッとした。



私が嫌がっているのを気がついていたのか。



「石田は不自然なくらい開発の仕事を避けているから」

「あ、いえ。まだこの会社に来て慣れていないから、会社の機密は扱いづらいというか」

私は当たり障りない返事をして誤魔化そうとする。



だけど、この人は簡単に誤魔化せる人じゃないってことは、よく考えればわかる。



その証拠に眉を寄せて少し考えるような顔をして、それから首を振った。

「開発に機密なんてない」

今度は私は慌てて首を振った。



開発は機密だらけだ。


少なくても、私にとっては。



「開発なんて、機密ばっかりですよ。だって製品のシステムの内容とかって、基本は絶対に漏らせないし……特にこれから出る新商品の事なんて重大機密じゃないですか」

「新商品?」

それを聞いた井上颯斗は眉を寄せた。

あっという間にこの人の全身からピンと張り詰めた空気が漂う。



しまった、と思う。


新商品が出ると言うのはあくまで噂の話で。


出るとか、動き出した、とか聞いただけで、本当に話が動き始めたとは聞いていない。

この人が何回か新商品のことを口にしたのも、いつも私をからかうためだった気がする。

つまり、この人の口からちゃんと新商品の話を聞いたことはない。



つまり、新商品の話自体が、ただの噂って可能性も大いにある。

私が勝手に、……自分の身を守るために過剰に反応してしまっただけで。


普通は、一社員の私がこんなに新商品に反応するのはおかしい。

しかも異動してすぐの私が、新商品のことを気にするなんて、もっとおかしい。



怪しまれたかもしれない。




「あ、いえ。噂で聞いただけです。でも、そう言うのって本当に気をつけないといけないですよね。社内でのデータ保存にも気を使うし。それから、ええと……やっぱりまだ異動したばかりでどれが機密かもわかっていないので、どう扱うのがいいかわからないから、怖いんです」

怪しさを誤魔化そうと、無駄に早口になる。



だけど、井上颯斗は顎に手を当てて考え込んだ。

そして首を振って私を見る。



「開発の機密なんて、今はない」

「そ、そうですか?でも大事な情報があるんじゃないかって」


だけどそこで急に私の顔を見た。



「石田は新商品のことが気になるのか?」



その目が真剣で、背中がゾクっとした。



井上颯斗は顔から手を離して、私と自分の間にそっと置いた。

思いがけず私の手が彼の手に触れそうな距離になる。




「石田は新商品のことが聞きたいのか?」

「聞きたいって……」

「知りたいのかって聞いてるんだ」



新商品のことなんて、知りたくない。聞きたくない。

関わりたくない。


そう答えたいのに、口が動かない。

声が出ない。



井上颯斗は私をじっと見つめたまま、体をグッと前に傾けた。

黒い瞳が私を捉えたまま、目の前までやってくる。



「知りたいなら、教えようか?」

「え?」

「新商品こと、教えるよ」



反射的に手がピクリと動いた。

心臓がどくどくと早く打つ。



井上颯斗は私の目をじっと覗き込んだ。

その目がとても真剣だった。


「石田は聞きたいんだろう?」



「新商品のことを」




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