いつもと違う
「石田?どうした、こんな時間に」
「ええと、忘れ物をしてしまって……」
私はいつものようにこの人のデスクの隣に立つ。
「井上さん、まだ仕事……」
だけど全部言う前に井上颯斗が口を開いた。
「少しやっているだけだ」
自分が食事をしている間も働いていたなんて、申し訳ない。
だからつい、言葉が出てしまった。
「何か手伝いますか?」
でも、静かに首を振った。
「もう終わる」
いつもみたいに感情の読めない顔で、静かにパソコンを見ている。
その顔がいつもと同じようで……
いつもと同じじゃない。
普段はきっちりとスーツを着込んでいるのに、今はネクタイを緩めて、シャツのボタンも一つ外している。そのせいでいつもなら見えない首元が覗いていた。
ジャケットを脱いで、袖を捲っているから、手首から腕までが全部見えた。長い指から手首にかけてのラインが男の人のくせに繊細で綺麗なのに、腕は男の人らしくがっしりしている。
全体の雰囲気も、普段はピリピリしているのに、今は少し……リラックスしている感じがする。
夜だからかな。
それとも人がいないからかな。
だけど、そのほんの少し違う部分が重なったせいで、なんだかいつもとずいぶん違う気がした。
見てはいけないものを見てしまった気がする。
そのせいなのか、その姿から目が離せなくて……
気持ちが落ち着かない。
じっとみていると、急に顔を向けられた。
「それより、石田」
「はい」
それはいつもと同じ、思わず背筋が伸びるような冷たい声だった。
井上颯斗は机の上に無造作に置いた書類をペンで叩いた。
「人の書類を仕分けするのはいいが、重要案件に回すものが多すぎる。もう少し考えて仕分けろ」
それに私は肩をすくめた。
帰る前に開発に寄った時に、この人の机に書類が山盛りになっていた。遅くに仕事から戻って処理するのは大変だなと思って、重要な物、急ぎの物、急がないものを仕分けておいた。
どうやらこの人は重要書類に分けたものが多いのが、気に入らなかったようだ。
仕方ないと思うのは私だけ?
「要らない書類は捨てていいし、……そこまでやるなら封筒を開けて中身を確認して分けろ」
「さすがにそれはできませんよ」
この人の手紙や書類を開けるのは、危険すぎる。
だけど、それに納得しない顔を返してきた。
「それから、積み上げ方が雑だから危うく雪崩になるところだった」
「それは書類が多すぎたせいで」
反論しながら、やっぱりいつもと同じだ、と思う。
いつもと違うかも、と思ったけど……結局、いつも通り辛口だ。
怒られに帰ってきたみたいで、こっちも気分が落ち込む。
気になったからきたけれど、損をした。
だけど、ふっと声のトーンが変わった。
「でも、助かった」
顔を上げたら、井上颯斗と視線があった。
驚いてその顔を見つめてしまう。
『助かった』なんて言われたの、初めてかもしれない。
思わず返事を忘れていたら、今度は不思議そうな顔をした。
「どうした?」
「褒められたの初めてだなって」
「そんなことない。それに褒めていない。ただの……礼だ」
呆れたような顔で肩をすくめる。
「気遣いは良いが、完璧な仕事とはいえないからな」
「え?厳しすぎます!」
ちゃんと誉めてくれても良いじゃないか!
だって、頼まれてない仕事だから、怒られるかと思ったくらいなのに!
つい不満たっぷりな顔をして口を尖らすと、井上颯斗が顔を上げて私を見て……
ふっと小さく笑った。
それに驚いて、思わず目を奪われてしまった。
いつも鋭い印象の目線がほわっと柔らかくなって、薄い唇がわずかに弧を描く。
満面の笑顔とは言えない。
けど、確かに笑った。
いつも怖いくらい静かな顔をしている人の思わぬ表情に驚いて
その笑顔に目を奪われる。
この人がこんな風に笑うなんて。
だって…その顔はとても優しかった。
『優しい人』という言葉がよく似合う、
どう見ても、優しい、笑顔だった。
その顔に意識を取られていると、井上颯斗が不審げな顔になった。
「どうした?石田」
その声にハッとする。
「何を考えてた?」
「あ、いえ。何も」
「何も考えてない顔ではなかった」
私は焦って苦笑いする。
まさかあなたが笑うとは思いませんでしたと言えるはずもなく………
何とか話題を変えようとして……
結果、失敗する。
「あの、握手会ってなんですか?」
その質問に井上颯斗は目を丸くした。
******
「握手会ってなんだ?」
「課長に聞いたんです。私を開発のお手伝いに出すのと引き換えに、握手会を頼んだって」
途端に井上颯斗はものすごく嫌な顔をした。
さっき見た優しい笑顔が嘘みたいな顔だ。
「……忘れろ」
明らかにこれ以上話したくないって空気を出すけれど、このままにして良いはずがない。
「いや、気になりますよ。課長は握手会かファン感謝祭って言ってましたよ。一体何ですか?」
それをまるっと無視して井上颯斗はパソコンをシャットアウトした。
「だって、ものすごく嫌な仕事だったんですよね?ずっとその仕事を断ってたって聞きましたよ」
今度ははっきりと舌打ちする。
だけどそれで確信する。
本当のことなんだ。
私は机にバンと両手をついて体を乗り出した。
「私が関係しているのなら、私には聞く権利があります!だからちゃんと……うわあっ」
突然、井上颯斗が手を伸ばして私の鼻を摘んだ。
そのせいでうまく喋れない。
「い、いにょうえひゃん!」
顔を真っ赤にして抗議すると、すぐに指を離した。
そして眉を不機嫌そうに歪めて私を見る。
「うるさい」
立ち上がるとジャケットを羽織ってバッグを手にした。
帰る体制を整えると、また私に向き直って人差し指をぴっと私の鼻の前に伸ばした。
「その話はもういい」
「でも……」
「次にその話をしたら、石田の仕事を倍増させる」
むぐ、と口をつぐんだ。
横暴だ!
黙ったまま視線で抗議すると、肩をすくめて歩き出した。
それを小走りで追いかける。
「でも、やっぱり!」
「石田、俺は同じことを2回言うのが嫌いだ」
エレベーターホールまで来ると、ボタンを押して立ち止まった。
「課長が変なことを頼んだなら、ちゃんと抗議します。だってフェアじゃないから」
「無駄だな。あの人、そんな人じゃない」
「あの人って……課長ですか?」
「他にいないだろう」
大きく息を吐いてうんざりした顔をする。
「確かに性格に裏表がありますけど」
「石田もわかってるじゃないか。あの人がいいのは外面だけだ」
その発言に私は驚いた。
「井上さんと課長って、同期……じゃないですよね?」
井上颯斗も課長には敬語を使っているから、きっと年上だ。
「同期じゃない。あっちが先輩だ」
「仲良いですね」
「仲良くない」
その割に、仲は良さそうだ。
「全く、面倒な人だな」
息を吐いて、井上颯斗は顔を上向けて、また大きなため息を吐いた。
うんざりしている。
そんなに嫌なら、引き受けなければいい。
私を引き抜かなくても良い。
そこまでする、価値なんてない。
「そんなに嫌なら、私のことなんて……」
井上颯斗が顔を天井に向けたまま、視線だけ私へ向けた。
すぐに逸らせて、また上を向く。
「俺が、勝手に石田に期待しているだけだ」
「え?」
「それに…石田の仕事は信用できる。だから一緒に働こうと思った。それだけだ」
私は今度こそ目を丸くした。
だって、この人がこんなことを言うなんて。
だけど私の顔を見て、井上颯斗はまた嫌そうな顔をした。
「そんな顔するな」
「え」
私は両手を顔に当てた。
だけど鏡を見なくても、今自分がどんな顔をしているかわかる。
きっと思い切り緩んだ、だらしない顔だと思う。
嬉しかった。
この人がお世辞やごまかしをする人ではないと、まだ短い付き合いの中でもわかっていたから
だからこそ嬉しい。
仕事を評価してもらえることが、信用してもらえることが
嬉しかった。
「でも、井上さんが私を評価してくれるなんて」
「評価してない。期待はずれのこともある」
「そんな!もう一回言ってください」
「2回同じことを言うのは嫌いだと言ったはずだ」
あまりにもひどい言い方に、私は思わず目の前の井上颯斗のジャケットを掴んだ。
「でも、私の仕事は信用できるって…誉めてくれたんですよね?」
期待して見上げると、井上颯斗はこれ以上ないくらい苦い顔になった。
そして次の瞬間、隣から指が伸びてきておでこを弾かれた。
「いたっ」
「これでも手加減してる」
片手で井上颯斗のジャケットを掴んだまま、反対の手で痛むおでこをおさえると、ため息が聞こえた。
「そう思うなら、しっかり働け」
ムッとして思わず睨み合った時、がこん、という音がして目の前のエレベーターの扉が開いた。
そこから出てきたのは、うちの課長で、
私と井上颯斗を交互に見て、
それから私の手が井上颯斗の服を掴んでるのを見て……これ以上ないくらいの満面の笑顔になった。
「あれ?こんな時間に二人でどうしたの?楽しそうだね」
それを見たら、絶対に面倒なことになる予感がした。
よりによって一番見られたくない人に、見られたくない場面を見られてしまった。




