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優しい人

井上颯斗という人は、猛烈な仕事人である。

その人に目をつけられてしまったせいで

ここで静かに働くはずの私の生活は、予想とは違う方向に走り始めている。






その日、井上颯斗は取引先に行くとかで、昼過ぎに慌ただしく出て行った。総務のデスクで働いていると、同僚に食事に行こうと誘われた。

「石田さんとはなかなか話もできないから」

それがちょっと嬉しい。


井上颯斗のせいで忙しくしているから、私の帰宅時間は周りに比べて少し遅い。

そして、あの井上颯斗と仕事をしているということで、周りの女子社員から一線引かれているのも感じていた。

だからこんなふうに女性社員に誘われるのも初めて。


時間ぴったりに帰宅なんて、最初の1週間以来だよ。

それに同僚と食事なんて青柳にきてから初めてだし、楽しみだな。


念の為、帰る前に一度開発へ行ったみたけれど、あの人の姿はなくて……


私は意気揚々と会社を出た。





*****


「一度石田さんと話してみたかったんだ」

今日一緒に食事に来たのは総務の前野さんとその友人の佐川さんだった。

前野さんだけお酒を飲んで、私と佐川さんはお茶を飲みながら、3人でピザやパスタを思い切り食べる。

ああ、なんかものすごく楽しい。


「ねえ、ねえ、石田さんに聞きたいんだけど」

前野さんがぐいと体を乗り出して私を見る。

その目が期待でいっぱいだ。


「聞きたいこと?」

「井上さんのこと」

「井上さん?」


私はその時まで井上颯斗に人気がある事をすっかり忘れていた。



あの人は確かに美形だけど、強引に私を巻き込んだり、容赦ないダメ出しをしたり、私の中では良いイメージがない。

だけど、そうだ。

あの人は社内イチ、格好いいと評判の人だった。



つまり、今日誘われたのも、私と話したいというより

……私の知る井上颯斗情報を教えてほしいってことなんだな。

わかってしまうと、楽しかった気持ちがちょっと萎む。



私は顔を上げて、明るく答える。

「噂通り厳しいですよ。ずっと働いているし、辛口だし、猛烈仕事人間って感じです」

前野さんは笑って、それから意味ありげに隣の佐川さんを見た。

「石田さんには何か言ってないの?」

「何かって?」

そこで急に佐川さんが口を開いた。


「その……井上さんに恋人っていますか?」


その顔と張りつめた声のトーンでさすがの私もわかってしまう。

佐川さん、井上さんのことが……。


私はぶんぶんと首を振る。

「そんなことは聞けないです。あの人と仕事以外の話なんてできないです」

佐川さんはじっと私を見つめる。


キレイにメイクして髪も巻いてあって、女性らしい柔らかい色合いのニットが似合う佐川さんは、こうして上目遣いになると。女性の私でもドキッとするくらい可愛い。

佐川さんが少し視線を落として、言いにくそうに私を見つめる。


「石田さんは…井上さんの恋人じゃないよね?」


それに数秒間固まってしまった。

あんな辛口仕事人間が私の恋人のはずがない。


私はさっきよりも強く首を振った。

「違います」

「でも、井上さんが石田さんを開発に引き抜こうとしたって聞きました。そんなこと初めてだし、何もないのに、引き抜きなんてするかしら」


井上颯斗が私を開発に引き抜こうとした話は、私と課長と井上颯斗だけの秘密のはずだった。

だけど、やっぱりどこからか漏れるんだよね……。

いつの間にかみんなが知っている。


私は佐川さんに向き直る。

誤解されたままで、これ以上目立つのも、女子社員から冷めた目で見られるのもごめんだ。


「私の好みは優しい人です。温かくて包容力のある人で、あんな辛口の冷たい人は私の好みと正反対です」

手をぐっと握って力説すると、佐川さんは静かに首を振った。


「井上さんは優しい人だよ。……すごく優しい人なんだから」


そうして、佐川さんは数年前のことを話してくれた。

入社してすぐの頃、美人で人気がある佐川さんをねたんだ先輩から嫌がらせを受けたことがあった。


まるで佐川さんがミスしたようになって、そのミスが多方面に影響して大事になって

上司や先輩から責められてしまうところで

……井上颯斗が先輩の嫌がらせを指摘して、みんなの前で佐川さんが正しいことを証明してくれた。


それ以来ずっと、佐川さんは井上颯斗を思っている。

照れたように佐川さんは顔を赤くする。

「私には告白する勇気もないから」

切なそうに、にこりと笑った。

「遠くから見ているだけで十分なの」


正直私も驚いた。

あの人がそんなことをするなんて。



私はわざと明るい声を出した。

「でも、私にはいつもすごく、厳しいですよ。この間なんて…」

そう言って私は最近の話をした。




頼まれた書類を作っていた時のこと。

井上颯斗が不在だったから、みんなも早く帰りたかったのかもしれない。みんながさっと帰ってしまって、一人残って仕事していた。


こんな時に限ってミスが多くて、焦って働いていると、井上颯斗が帰ってきた。


そしていきなり私の書類を奪うと、ものすごく冷たい声で

「これはもういい」

「え?どうしてですか?」

私を見下ろして、不機嫌全開の顔で言い放った。

「今日の石田にはこれは無理だ」

いつもの冷たい視線の5倍増しで冷たかった。


あれは地味に傷ついた。



「うわーやっぱり厳しいね」

「そうなんですよ。進みが悪かったのは事実なんですけど」

前野さんは気の毒そうに私を見た。

だけど佐川さんだけは、眉を寄せた。

「でも、井上さんは理由もなくそんなことを言う人じゃない。何かあったんじゃないの?」


それに私と前野さんは、困ってしまう。

いくら好きだと言っても、そこまで庇うことはない。


「まあ、でも厳しい人だよ。だから佐川さんも………」

前野さんが励ますように佐川さんに話しかけた。




それを見ながら、私はあの時のことを思い返していた。

何か理由?

そう言われて記憶を辿って………思い出した。


そういえば、その日、私は体調が悪かったのだ。

おそらく寝不足と疲労……でも一番は青柳に来て、精神的に気持ちが張っていたのがあると思う。

体調が悪くて、ランチも食べられなくて、そのせいか力が入らないし仕事も進みが悪くて、ミスだらけだった。

完全なる悪循環。


でもそんなことに誰も気が付かなかった。

まさか、あの人が、それに気がついていた……とか?


いや、ないない。


だけどあの時、強制的に帰されて、家でぐっすり眠ったら、翌日はスッキリして今まで通りに働けたのも事実。

だから、もしかしたら……。



私は頭を振る。


気がつくはず、ないよね。



私は目の前のお皿をじっと見つめる。

さっきまで楽しんでいたデザートは、もうすっかりなくなって

そして、私の気持ちも、こことは違う場所に飛んでいた。





******


店を出て二人と別れて歩きながら、定期入れを会社に忘れてきたことに気が付いた。

21時30分を過ぎたところだから、普段ならまだ仕事していることもある。

迷ったけれど取りに帰ることにした。



総務を出て歩いて、何だか気になって開発の中を覗いてみた。


もしかしたら、あの人がいるんじゃないかと思って……いても話すこともないのだけれど、何だかそのまま帰れない気がした。

食事中、ずっとあの人の話をしていたせいだ。



だけどドアを開けてみたら、そこにはやっぱり、あの人がいた。

あの人だけはまるで昼間のような勢いで手を動かしている。


声をかけようか迷っていると、井上颯斗が私が覗いてるのに気がついて、パソコンから顔を上げた。



その目が私をみて、本当に驚いたように見開かれた。


「石田?」








誤字脱字報告いただきました。

ありがとうございました。

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