またカバの前で会おう
最近仕事が忙しくて、恋人とのやり取りさえ億劫に感じるようになった。今もメッセージが届いたがスルーしている。
とにかく休みたい。今は眠りたい。
俺はコンビニ弁当とサラダの入った袋をテーブルに置き、スーツをハンガーに掛け下着姿になると万年床の布団に突っ伏した。
「あ゛ーーーー」ゴロンと仰向けになり、うめき声のようなものをあげる。そのまま意味もなく天井を眺めながら、これからやることを考えてため息をつく。
――23時か、ギリギリ洗濯機回しても大丈夫な時間だな。シャワーを浴びてごはん食べて洗濯物干してメールもチェックして録画したドラマも観れるか……1時には寝られる。よしっ。
気合が入ったので、シミュレーション通りに動こうと勢いをつけて起き上がると、メッセージの着信音。
『大丈夫? 何かあった?』
メッセージは恋人の綾乃からだ。
さすがに恋人からのメッセージをこのまま無視するわけにはいかない。
『気がつかなくてごめん。いま帰ってきたから』
『遅くまでお疲れ様。疲れてるとこ申し訳ないけど、少し話せるかな?』
――えぇ…面倒くさい。話すってことは電話だよな。
『メールじゃダメか?』
送信したあと、間が空いた。俺は少し待ったが、埒が開かないので、
『ごめん、シャワーを浴びるからまたあとで』と続けてメッセージを送った。
洗濯機を回しながら、シャワーを浴びる。本当なら湯船に浸かりたいが、ユニットバスなので湯を張ることはほとんどない。
それでも少し熱めのシャワーを浴びれば気持ちはスッキリして、先ほど綾乃に対して送ったメッセージはさすがにナイな、と思うほどには、思考回路が正常に戻った。
浴室から出ると、ちょうどメールの着信音がした。
ちょうど良かった、と思いながら携帯を覗くと、
『私のいる意味がないので別れましょう』
と一言。
ドクン、と心臓が跳ねた。
理由なんて考えなくてもわかる。付き合いだして半年だがいつもメールはほぼ綾乃から。デートも数えるほど。動物園と水族館だったか、彼女が行きたいと言うから付き合った。それ以外はほとんど俺の部屋に彼女が来て、手料理を振舞ってくれたり、泊まりだからもちろんそういった行為をしたり。
別れたくない、と言える訳がない。これではただの性欲処理のために付き合ったと思われても不思議じゃない。
『話は分かった』
とりあえず逃げのような返信をした。
それから、3時まで待ったが返事はなかった。
明かりを消した部屋で、携帯の眩しい光がついたり消えたり。
何と彼女に言葉をかけようか迷い、途中まで打ちこんでは消し、打ちこんでは消しを繰り返すも、結局なにもできなかった。
さすがに寝ないわけにはいかない。睡眠不足は判断力が鈍る。俺は綾乃の件は保留にして、目を閉じる。
眠れないかと思ったが、気がつけば朝だった。
****
綾乃からは何も連絡はない。
あたりまえだ。彼女はもう別れたと思っているのだろう。
毎日の生活が空虚なものに変わった。
綾乃とは友人を介して出会った。軽い気持ちで交際を申し込み、付き合いが始まった。
喧嘩もしたことがない。
会えばたわいもない会話だけ。
メールも生存報告のように簡単なものだ。毎回、忙しいからとこちらからやり取りを止めていた。
それでも、誰でもいい訳じゃなかった。
綾乃だから、甘えていただけなんだ。
今さら、だな。
俺はいまだに気持ちを一言も伝えていない。
何を言っても伝わらない気がする。
彼女の気持ちをもう一度振り向かせる言葉がわからない。
****
日曜日、俺は彼女との思い出をなぞるように、初めてデートした動物園に来た。
彼女はカバが好きだと言っていたのを思い出したからだ。意外だ、と思ったから覚えていた。キリンやゾウが好きなイメージだったから。
そういえば、カバは足が速いとか、凶暴だとか、人を襲うとか、豆知識を披露された。動物が好きなんだな、と改めて思う。もっと一緒に出かければよかった。
カバのいるエリアが見える所まで来たところで、俺は立ち止まる。
カバの柵の前のベンチ。
――ここならカバをずっと見ていられるわ――
あの時、彼女はそう言って笑った。
――そうだ。あの笑顔に俺は惹かれたんだ……あの笑顔、いつから見なくなった?
カバのエリアに近づくと、柵の前に親子連れが2、3組いて、水に潜ったままのカバに「出てこーい」と叫んでいる。
ベンチに座ろうと振り向くと、ベンチには先客がいた。
目を大きく見開いた、綾乃が座っていた。
俺が思わず「綾乃」と名を呼ぶと、彼女は真顔に戻り、俺に会釈をしてきた。
――なんだそれ
カッとなるが、そっちがその気なら、と俺も他人行儀に会釈する。
「カバが好きなんですか」
大人げないが、話しかけてみた。彼女はチラリと俺の顔を見て、「はい」と答える。
「ずっと潜っていますけど、見ていて飽きませんか?」
「ええ。どのくらいの時間で水から出てくるのか楽しみですから。」
そう言って彼女は――笑った。
が、すぐに顔が真顔になる。
俺は、またこの笑顔が見たくて、思わず、
「またここに来ればあなたに会えますか?」と聞いていた。
彼女は驚いたように顔を上げ、
「……私はよくここにいますから」
と答えた。
「では、今日はこれで失礼しますが、また次の休みはここに来られますか?」
俺は祈るような気持ちで彼女の表情を見る。
「何もなければ昼までここにいると思います」
俺と彼女の視線が交わり、心臓がバクバク鳴る。
その時、子どもの1人が「カバのお顔でたよー!」
と叫んだ。俺は思わずそちらの方向を見る。子どもの言うとおり、カバは息継ぎのために水面に顔を出していた。
――ああ、綾乃の意識がカバに向かってしまう!
俺は悔しい気持ちで綾乃に視線を戻すと、驚いたことに彼女と再び目が合った。
――ずっと俺のことを見ていたのか?
このまま、手を取ればきっと元通りになるかもしれない。けれど、元通りではダメだ。
「では、またここに会いに来ます」
俺は話し方を崩さず彼女に伝える。
「はい。ではまたカバの前で」
彼女も同じく話し方を変えないが、いたずらっぽい表情を見せた。初めて見せる表情に俺は嬉しくなる。
「またカバの前で」
俺も同じ言葉を返しながら、笑う。
彼女がなぜか驚いた顔を見せた。
そういえば、笑うのは久しぶりだ。
これから付き合いだす恋人のように、2人は視線を合わせ、笑い合った。
私もカバが好きです