無花果
あの夏は、やたら暑かったのをおぼえている。
体調が悪いと言う妻を病院に行かせたら、検査入院することになったとメールが入った。
会社から慌てて電話をすれば、たいしたことはないと笑って返される。
「そうは言っても、俺たちも若くないんだ。しっかり診てもらえよ」
『はいはい。昔から心配性なんだから』
心配して何が悪い。
思わず声を荒げそうになったが、会社にいることを思い出して深呼吸に切り替える。
子供たちは成人し、家を出ている。知らせなくてもいいと妻は言うが、検査結果によっては……。いや、今は考えるのをやめよう。
なんとか平静を取り戻し、定時で仕事を終える。
夕飯用にコンビニ弁当を買った俺は、店を出たところでぼんやり光る小さな看板を見つけた。
「こんなところに、小料理屋?」
暗くても分かるほど古い外観だ。何度も通っている道なのに、こんな店があることを知らなかった。
(そうか。コンビニの出口が二つあるから、こっちから出ないと見えないのか)
普段はコンビニに寄ることもなく、まっすぐに帰ることが多い。飲み会も会社の最寄り駅でやるから、地元の駅で飲んで帰ることはほとんどなかった。
こんな日だからこそ、入ってみるのもいいだろう。
「いらっしゃい。おひとりで?」
「え、ああ」
なぜか『ひとり』という言葉に反応してしまう。
そんな俺の様子に構うことなく、いかにも「割烹の料理人」という風体の大将は、笑顔で席をすすめてくれた。
店内を興味深く眺める。
内装は比較的新しく、カウンターしかないようだ。
「初めて入ったけど、こんな店があったんだね」
「この店、通りから見えないでしょう。自分の代で店を改装して、十年になります。先代はひとりで五十年やってましたよ」
「へぇ、そりゃすごい」
小さな店でも、ひとりで店を切り盛りするのは何かと大変だろう。素直に感心しながら、とりあえずビール!と注文する。
メニューはホワイトボードに手書きで、仕入れたものによって変わるとのこと。
「何にしましょ」
「うーん、弁当も買ってしまったから、軽くかなぁ」
「そうですか。それなら今日は無花果を入れたんで、揚げ出しでどうです?」
「え? 無花果を?」
無花果といえば、妻が昔「あなたはイチジクみたいな人ね」とか言ってたな。
一体どういう意味なのかと聞いたが、いまだに教えてくれない。
あまり聞いたことのない……というよりも、俺が知らないだけだろう。
滅多に食べないものというのもあり、すすめられるがまま注文することにした。
「これは、うまいな」
まったく味の想像はできなかったが、出汁つゆに浸されたそれをひとくち食む。
瞬間、揚げたことにより深くなった無花果の香りが口いっぱいに広がった。ほのかに感じる甘みも、大根おろしとよく合っている。
「はぁ、いいねこれ。大将、ここは日本酒が欲しいな」
「ビールに日本酒たぁ、お客さん欲張りだね。嫌いじゃないよ」
「大将に好かれてもなぁ」
「そりゃそうだ!」
料理を褒めたら口調がくだける大将に、俺はニヤつきながら残りのビールを流し込んだ。
「また来るよ。他の料理も食べてみたいし、うちのも連れてこないと」
「ぜひ来てください。奥さんも一緒に」
「こんなうまいもんをひとりで食ったとか、絶対に怒られるからね」
「ははは、それなら今日よりもっとうまいもの出さないと」
「よろしく頼むよ」
そういえば……と、妻から言われたことを大将に話す。
すると大将は楽しげ笑った。
「イチジクみたいな人だなんて、お客さんは愛されてますねぇ」
「名前から『花が無い』なんていうオチじゃないのかい?」
「違いますよ。イチジクの花はね、表からは見えないんですよ。だから奥さんだけは、お客さんの花を知ってるんだって言いたいんじゃないですか?」
酒のせいだけじゃないだろう。
熱くなった顔を誤魔化すように、俺は残りの無花果を頬張った。
それから。
やたら忙しい日々を過ごし、やっと落ち着いたのは翌年の夏だった。
「やっと来れたよ。大将」
「いらっしゃい。ちょうど無花果を入れたところですよ」
驚くことに、大将は俺の顔をおぼえてくれていた。
聞けば毎日ノートに記録していて、その年の初物を仕入れたら去年と同じ月のノートを読み返すそうだ。
料理人らしい生真面目な性格のおかげで、大将が俺のことを思い出してくれたのは嬉しい。
それに、今日は特別な日だ。
「はい、ビール。お連れさんの分もね」
「ありがとう大将」
ぼやける視界を、何度もまばたきして誤魔化す。
カウンターの向こうにいる大将には見えているかもしれないが、何も言わずに『無花果の揚げ浸し』を二人分出してくれる
さすがに二人分の料理はきつい。
腹がはち切れそうになった俺を見て、大将は「次は少なめに作りますよ」と言いながら鼻をすすっていた。
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