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僕と彼女の二重螺旋

 平成最後の夏は、かつてないほど暑い夏だった。そして僕にとっては、思い出に溢れてて、どうしようもなく忘れ難い夏だった。


**一**


 茹だるような夏の日、エアコンの効きづらい安アパートの一室。観測史上初を告げるニュースキャスターの声を上書きする、窓の外のセミの声。そこにゆるっと通る、誰よりも愛しい人の声。


「ねぇ、もうこの関係終わりにしよう」


 扇風機の前のベストポジションで、椅子にもたれてアイスをかじる彼女は、まるで今日の夕飯の話をするかのような気軽さでそう言った。僕は一瞬何を言われたのかよく分からないまま、読んでいた本から顔を上げて、数拍置いてから、自分が恋人から別れを告げられたことを理解した。

 理解して最初に思ったことは焦りでも悲しみでもなく、『遂にか』という気持ち。遂にこの時がやって来たのか。


「今すぐ別れんの?」


 訪ねると彼女は首を振る。


「ううん。そうだな……今年の、夏の旅行が終わったらにしよっか」


 彼女がそう言うから僕は「そっか」と返して本を閉じる。


「じゃあ、平成最後の夏は最高の夏にしないとね」


 パソコンの電源を入れながら言えば、彼女は吐息を溢すように、ふふ、と笑った。

 いくつかウィンドウを開いて、良さそうなデート先を探す。山、神社、ショッピングモール、遊園地、博物館。数々の写真やレビューを眺めては画面を切り替えていると、後ろから覗き込んでいた彼女が「あっ」と声をあげた。


「ここ、懐かしい」


 指差したのは海岸の写真。初めて二人きりで行った旅行先だ。


「あ、この階段、ハジメが蹴っ躓いたところだ」

「それを言うならここの見切れた防波堤はユイがビーチボール打ち込んだとこな」


 瞬時にあの頃の思い出が蘇って、二人で顔を見合わせて笑う。

 つい懐かしくなって近辺のスポットも幾つか開く。あっちは焼きそば食べた海の家、こっちは帰りに寄った日帰り温泉。そんな話をしていたら、無償にまた行きたくなってきた。


「せっかくだしさ、この海とか、思い出の地を回るのも良いかもね」


 背後の彼女を見上げて提案すると、彼女は顔を輝かせて「いいね、それ」と両の手を合わせた。

 夏のテーマが決まり二人で手帳を開いて日にちを合わせる。バイトの休みは元より合わせてあるから、トントン拍子で予定が決まった。


「凄い楽しみ」


 そう言って嬉しそうに笑みを浮かべる彼女を見上げて、好きだなぁと心の中で溜め息を溢す。


***


 平日朝の7時。財布と携帯と水筒と着替えを詰め込んだリュックを持って、アパートの階段を降りた。下ではバイクを道まで出したユイが早くと急かすように手を振っている。駆け足気味に下りきると、彼女の手からヘルメットが弧を描いて飛んできた。慌てて受け止めようと数歩下がって、階段にくるぶしをぶつけてバランスを崩す。降ってくるヘルメットを何度か掌でバウンドさせて、無様ながらギリギリ落とさずキャッチすれば、けらけらとユイが笑った。


「おっまえなぁ……ここで怪我したら全部パーだぞ!?」

「はは、ごめんごめん。ハジメの運動音痴計算にいれるの忘れてた」


 詫びれのない謝罪に「ったく」と後ろ頭を掻く。ヘルメットを被って、トップボックスにリュックを積めていると、その隙にユイがバイクに股がってこちらを振り返った。


「ヘイ乗りな!」

「おい待て僕が運転手だろ」


 ユイの腰を持ってずりずりとトップボックス手前まで引きずると、くすぐったいのか身をよじらせて、ひひひと笑う。

 はらはらとヘルメットの隙間から溢れている黒髪が目に入り、ポケットを探ってゴムを出す。


「絡んだら危ないだろ」

「あ、忘れてた」


 ユイは一度ヘルメットをとると手早く後ろ手に三つ編みを編んで、渡したゴムで括った。


「ハジメは素敵な彼氏さんだなぁ」

「当たり前だろ、お前の彼氏さんだぞ」


 そう、僕はユイの彼氏。この旅行が終わるまで、僕はユイだけの僕で、ユイは僕だけのユイだ。

 バイクに股がる。ユイの細い腕が僕の腰に回った。今日の最高気温は38度で、犬もエアコンの下で丸くなるような猛暑で、まだ朝だというのに既にじっとりと汗が滲む。


「合言葉はー」

「こまめな休憩!」


 息ぴったりの掛け声を合図に、エンジンを吹かせた。


**青空**


 日差しは爛々と輝き、湿度も高く、安全第一長袖長ズボンのバイカーファッションの下で汗は滝のように流れ、ヘルメットは異様に蒸れる。

 気象庁に『災害』とまで言わしめた猛暑の下のツーリングは、なかなかに過酷で、それでもバイクで走れば服の隙間に入る風が気持ちいい。


「まずは海に向かって突っ走る感じ?」

「いや、途中にあるお馬の公園に寄ります」

「あー懐かしいね」


 信号待ちをしながらペットボトル水を一口。すでにぬるい。背後の彼女に渡すと、空いた手に包装を剥いた塩飴を握らされる。


「もうかれこれ7年ぶりくらい? 変わってないかな」

「どーかな」


 信号が青に変わる。塩飴を口に放り込み、バイクを発進させる。適当な木陰に停めて涼んだり、見つけたコンビニで飲み物追加したり、休憩を挟みつつバイクで2時間。懐かしの公園の馬のマークが見えてきた。

 パーキングを見つけてバイクを停める。トップボックスからリュックを出せば、熱をもって嫌に熱い。入れ替わりにトップボックスには長袖のシャツを突っ込んで、半袖Tシャツ1枚になる。


「うわ、それ絞れそう」


 同じく羽織っていたカーディガンを脱いだユイが僕のシャツを指差して笑う。やって見せたら本当に絞れた。

 お馬の公園とは、子供の時によく親に連れられて行った市民公園の事だ。ちゃんとした正式名称があるのだろうが、やたら馬を推す看板や遊具のせいで、昔からこれで通ってしまっている。


「やー、全然変わってないね」


 遊歩道を歩きながら、きょろきょろと辺りを見回す。

 あれがユイが空を飛ぶのに利用したブランコ。あれが一国一城を築いた砂場。ヒーローごっこのヒロインだったはずのユイが全ての敵をなぎ倒して頂点にたったジャングルジムに、ユイが立ったまま挑戦して案の定転んだローラー滑り台。

 思い出のユイが強烈を極めていてつい吹き出しそうになっていると、同じタイミングでユイがふふっと笑みを溢した。


「見て見て、あれハジメが登ったまま降りれなくなったネットタワー。あんなにちっちゃかったんだねぇ」

「恥ずかしいこと思い出させんなよ、ローリング滑り台の波を制せなかった魔法少女プリティウサミン」

「それ言っちゃう? それ思い出させちゃう? この、運ていの試練に屈した最強レンジャー・ウルトラレッド!」

「封じられし暗黒の記憶を貴様……!!」


 そこまで言って、お互いに盛大に吹き出した。

 笑いながら、あの頃はきっと純粋だったんだよねぇ、なんて綺麗な言葉で黒歴史を称えつつ、遊具場のさらにその先に進む。木漏れ日の落ちる遊歩道の先の先。陽を遮る木々が消え、そこに広がる向日葵畑。僕たち二人のお気に入りの場所だ。


「初めて来たときは向日葵があんまり大きいからビックリしてさぁ」


 良く覚えている。隣で大きな口を開けて目を真ん丸に見開いて驚いていたユイの顔。両親いわく、僕も全く同じ顔で驚いていたらしいが。


「でもこういうのって誇張して記憶してたりするじゃん? 大人になって来たら意外とちんまりしてるのかなーって思ってたんだけど……」


 眩しい日差しに目を細目ながら、ユイが手近な向日葵に歩み寄る。


「全然そんなことないわ向日葵。私よりタッパあるわここの向日葵。全然今でもかくれんぼできるわ」


 彼女の言うとおり、向日葵はユイの頭の上で花を咲かせていた。


「あ、じゃあまたやる? かくれんぼ」

「お、やっちゃう?」


 僕たちは顔を見合わせて、にんまり笑う。多分今僕らは全く同じ顔をしている。


「「じゃんけん!」」



**向日葵**



 鬼が1分数える間に隠れて、10分逃げ切ったら子供の勝ち。

 じゃんけんに彼女が両手で目を覆い、1つ2つと数を数える。その声を背に、向日葵畑の中で隠れる場所を探す。向日葵は不規則に植えられていて、畑の中はまるで迷路だ。入り組んだ向日葵の道を歩きながら、大人でも隠れられそうなと頃を探す。

 奥に進むと良い感じに高さの違う向日葵が密集しているその下に、丁度隠れられそうな隙間があって、隠れ場所をそこに決めた。大きな体で花を倒さないよう気を付けながら、向日葵の群れに入り込み身を隠す。

 それと同時に鬼の数える声が止む。


「もーういーいかい」


 僕は声を返さない。鬼が僕を探し始める。

 かさかさ、かさかさと、風に揺れた向日葵が音を立てる。向日葵の密集地は体を隠すのには良いが、僕が動けば向日葵が鬼に居場所を教えてしまう。

だから僕は息を潜め、心を無にすることだけに集中する。石になったように、動かないように、動かないように。聞こえてくる軽い足跡にも動揺しないように。


「はーい見っけ。ジュースおごりね」


 向日葵の群れがそっと分けられ、彼女の満面の笑みが上から降ってきた。


「まじかよ」


 始まって2分もたたずに見つかってしまった。ユイが自慢げに腰に手をやり、胸を張る。


「私がハジメを見付けられないわけないんだなぁ」


 言われて思い出す。そう言えば、昔ここでかくれんぼをした時も、あっという間にユイに見付かっていた。

 そして必ず彼女は言う。


「『私が誰より一番ハジメのこと知ってるもんね』」


 思い出の声と、ユイの声が重なった。あまりに変わらないその姿に、つい笑いを溢すと、ユイがキョトンと首をかしげる。


「じゃあ次は僕が鬼な」


 向日葵から這い出ながらそう言うと、彼女は漢らしくサムズアップして頷いた。


「受けて立つ」


 僕はその場にしゃがんで目を隠す。カウントダウンの声に混ざって、彼女の足跡が遠ざかるのが聞こえる。15、14、カウントダウンが進んであっという間に1分が経過する。


「もーういーいかい」


 耳を澄ます。声の返らないことを確認して、僕は両手を離して目を開く。

夏の強い陽の光に目が眩んだ。空の青さと向日葵の黄色が目に眩しい。手で陽を遮りながら、向日葵畑の合間を縫って隠れた子供を迎えにいく。

 じっとしていられないユイのことだから、密集したところには隠れないだろう。向日葵畑と見せかけて、その外周にいたりして。もしくは入り組んだこの迷路の先とか。

 僕だって、誰よりもユイの事を知っている。それ以前に、全長172センチを誇るユイを相手に正直負ける気はしなかった……のだが。


「全っ然見つからん……!」


 タイムアップまで後1分。

 いくら向日葵が大きいとはいえ、密集しているとはいえ、そこまで広くないはずのこの園で、大の大人がこうも見つからないものか。

 探してないところは後はどこだと頭の中に地図を浮かべながら、近くの向日葵の根本を覗く。と、ピピッと高い電子音がして、背中に柔らかい感触が乗った。


「はーいタイムアップ! ジュース2本ね」


 後ろを振り向けばどや顔の彼女が背に抱きついていた。暑い、と肩を押せばすんなりと離れる。


「どこにいたのさ」


 この辺りは何度も通ったと言うのに、と思って聞けば、彼女は何でも無い顔でこう言った。


 「ん? ハジメの後ろ」


 音も立てずに僕の後ろを追跡していたと彼女は言う。なんだそれ、女スパイか。と言うか何より。


「ずっけぇ」


 それでは、見つけられる筈がない。


「大人になると狡賢くなっちゃうねぇ」


 しかし詫びれもせずにそういう彼女に僕はため息をつくしかない。

 彼女を誰よりも知っているつもりだが、それでも彼女は僕にも計り切れないようだ。


***


 駐車場の自販機でジュースを3本買って、2本をユイに渡す。梨ジュースと葡萄ジュース。僕は梅ジュース。ユイは梨を開けて手を腰に、ごくごくと豪快に飲み干す。


「あー……生き返る。そっち一口頂戴」

「はいはい」


 梅も美味しいと顔を綻ばせるユイから梨ジュースを貰う。甘くて美味しい。


「そろそろ出よっか」


 声をかけて、僕達はまた暑苦しい重装備に戻る。残ったジュースを彼女のリュックに詰め込んで、僕らはバイクに股がり彼女の腕が僕の腰に回る。

 細い腕だ、とふと思う。昔はもう少し筋肉もあったけれど、バレーボールをやめてから細く、弱くなった。

 エンジンを回す。低い音が機体から鳴る。それを掻き消すように、耳の奥で雨の音がちらつく。

 そう、あの日も夏だった。夏の、酷い夕立の日だった。雨の中、彼女はびしょ濡れで帰って来た。


『もう、部活辞める。なんか……男とか、女とか、よく分かんなくなっちゃった』

「何か悲しいこと考えてるでしょ」


 彼女の声に彼女の声が重なる。例え背を向けていても、彼女には何もかもお見通しらしい。


「何考えていたのか知らないけど、悲しいことも、一緒にさよならするんだよ」


 出来るのかな、と思う。楽しいことですら悲しいことを塗りつぶせなかったのに。でも他でもない彼女がそう言うなら、さよならするしかない。誰より悲しくて苦しいのは彼女のはずなんだから。


「ごめん、何でもない」


 エンジンを蒸かし、アクセルを踏み入れる。晴れ渡る空の下、暑いアスファルトの道を走り抜ける。



**冷菓子**



 バイクを走らせて2時間半。峠を1つ越えた辺りから風に潮の匂いが交じり始める。


「あ、ねえねえアレ」


 ユイが腰から片手をはずしてどこかを指差す。ちらりと見ると、別れ道を言った先に何やらパラソルらしきものが見える。


「アイスって書いてある。ねえ、寄っていこうよ」

「まじか最高」


 ユイの言葉にすぐさま僕はウインカーを点けて左にハンドルを切った。

 花柄のパラソルの下には白い髪に紫のメッシュを入れたご婦人が野外扇風機の側で涼んでいた。その隣には大きな冷凍庫と『愛を込めてアイス売ります』と筆字で書かれた白い旗がある。


「こんにちは、アイス2つください」

「はいはい、どうぞ」


 どれが良い?とメニューを指差すアイス売りのご婦人は、僕達を見て少し驚いたように目を見開いた。


「あれ?あんた達前にも来てくれたよねぇ」


 少し考えて、思い出す。前に2人で海に来た時にも、帰りの道でここでアイスを食べたことを。ユイも思い出したようで「ああ!」と高く声をあげた。


「良く覚えてましたね、あれもう5年も前ですよ」

「忘れるわけないよ、覚えやすいもの」


 ご婦人は僕とユイの顔を交互に見て、こりゃ後十年経ったって覚えてるねぇ、ともう一度頷く。


「双子ってのは、大人になってもそっくりなのねぇ」

「何せ遺伝子レベルのそっくりさんなもので」


 ユイの言葉に「素敵ねぇ」と朗らかに笑うご婦人に、彼女はくすぐったげに、ひひ、と笑い返した。

 さて、味はどれにする?と聞かれてメニューに目を落とす。

 リンゴ、ナシ、バナナ、イチゴ、スイカ、レモン。どうやらここはフルーツシャーベットの店らしい。ユイは真剣な顔でメニューを睨んでいる。


「じゃあ僕はスイカ」


 そう言えば、ユイはパッと顔を明るくする。


「じゃあ私はナシ! ハジメのスイカ、後で一口ね」

「リンゴじゃなくて良いのか?」


 フルーツ好きの彼女の一番の好物を選ぶと思ったのだが。聞けばユイは少し悩む様に首を傾げる。


「んー、確かにリンゴ悩んだんだけど……でも今日はナシとスイカの気分かな」


 選び終えるとご婦人はうんうんと頷いて、冷凍庫からアイスのパックを取り出した。そして蓋を開くと、ヘラでシャーベットを平らに掬い、コーンをくるくると回しながら乗せていく。掬って乗せて、掬って乗せて。


「そう、本当に懐かしいわ。あの時は自転車だったのにねぇ」 


 こんな立派になっちゃって、としみじみとした口調でご婦人は朗らかに笑う。反して動く手は繊細かつ早い。平らなアイスが重なり合って、気付くと薔薇の形が出来上がる。

 そうだ、ここはこんな達人芸が見れたのだ。忘れていたあの日が少しずつ甦る。


「わぁ、綺麗! 食べるの勿体ない」


 ユイが嬉しそうに白いバラを受け取って、勿体ないと言った舌の根も乾かぬうちにパクリと花びらの一枚を食べる。

 あの日もそうだった。溶けた方がもっと勿体ないと言って、食べていた。


「白い薔薇の花言葉は純潔、尊敬、私はあなたにふさわしい。赤い薔薇の花言葉は愛情、情熱、あなたを愛しています。うちは愛を込めて愛を売るアイス売りだよ」


 歌うようにご婦人が言う。

 すぐに僕のスイカも出来上がって、差し出される。こちらは真っ赤な薔薇だ。花びらにかぶりつけば、さっぱりとしたスイカ味が舌の上で溶ける。なんとも爽やかな情熱だ。


「一口ちょーだい!」

「はいはい」


 あ、と開ける口にプラスチックのスプーンで大きく掬った花びらを突っ込む。初めはご機嫌に咀嚼していたが、すぐに頭にキンと来たらしく、ユイはしかめ面で米神を押さえた。その隙を見て、ユイのシャーベットを一口拐う。


「ハジメの愛情、めっちゃ冷たい……」

「ユイの尊敬も冷たいからどっこい」


 僕らのやり取りを見て、アイス売りのご婦人は愉快そうにくすくすと笑った。

 暑い陽の下でのアイスは良く進み、僕らは隙を見ては互いの花びらを奪い合いながらあっという間に食べ終えてしまう。


「アイス、とっても美味しかったです」


 ごちそうさまでした、と言うとご婦人は目の端のシワをさらに深めた。


「こちらこそありがとうね。同じ場所にずっといるとね、こういうたまの再会がうんと嬉しいのよ」


 本当に嬉そうにそう言ってくれるものだから、僕らも一緒に嬉しくなる。ご婦人は言葉を続けた。


「だからね、明日も明後日も、来年も再来年もその次の年も、私はずっとここでアイスを売っているから、またいつでも食べにおいで」

「ずっと?」


 聞き返せば、ご婦人は大きく頷く。


「ずーっとよ。何せ私は昭和からコレやってるんだから。次の元号が終わったって、きっとここでアイスを売ってるよ」


 幽霊になってもアイスを売るよぉ、と腕まくりするご婦人に、僕らはひひ、と笑った。


「じゃあまたね」

「はいはい、またいつかね」


 手を降る彼女に手を振り返して、僕らはバイクを発進させる。



**鉄砲雨**



 暫く走っていると、急に雲行きが怪しくなる。慌てて雨宿りできるところを探すと、ちょうど少し行ったところにバス停が見えた。

 ポツポツとヘルメットに大粒の雨が跳ねるのを感じながら、滑り込むように屋根の下に入る。その数秒後に、ザッ、とバケツをひっくり返したような俄か雨が降り注いだ。


「あっぶなー。でも多分これすぐ行くよね」

「多分。休憩がてら止むの待とう」


 ユイは頷いて、リュックの中で生温くなった葡萄ジュースを出す。一口二口恵んで貰いながら、バス停のベンチで雨をぼんやりと眺める。

 雨は嫌いだ。彼女の涙を思い出す。

 ザァザァと、頭の奥に耳鳴りのように響く雨の音は、目の前のそれか、記憶のそれか。


「また悲しいこと考えてる」


 僕の右手を、ユイが握った。ユイを見れば、何もかもお見通しだよ、と言わんばかりに彼女が微笑む。


「さよならするために思い出しているんだよ」

「そう?」


 じゃあ仕方ないなぁ、と言って、ユイは視線を正面に──雨に戻す。ユイの黒い瞳が揺れる。

 彼女もきっと思い出している。

 彼女の終わりの日のことを。僕らの始まりの日のことを。


 ザァザァと雨が降る。


***


 5年前。高校2年の夏休み。クーラーの効いた自室。ザァザァと夕立が五月蝿くて、集中が欠けてしまった僕は宿題の問題集を閉じた。

 自室を出て、特に意味もなく1階に降りた。両親はまだ仕事で帰っておらず、姉のユイは女子バレーボール部の練習に行っていた。家に僕一人。夏休み折り返しを目の前にして、僕はあまりに暇だった。

 僕もまだバレーボールを続けていたらもう少し充実した夏休みを送れたのかな、とは思わなくもなかった。だが長くやっていた割に上達の遅かった僕は公式試合では万年ベンチ暖め係だったし、何より中学生になって『男女別』という概念が到来した事で姉と試合ができなくなった事が詰まらなかったのだから仕方ない。

 一方僕の真似をして始めたはずのユイはあっという間にバレーボールに夢中になり、またメキメキと上達し、高校ではミドルブロッカーとしてレギュラーにも選ばれていた。

 いつだってユイは練習で忙しかったので、結局一緒にいる時間が減った事は僕にとっては残念なことではあったが、バレーをしながら楽しそうに笑う彼女の姿を見るのが心底好きだったから、嫌ではなかった。

 廊下のカレンダーを見て、次の試合は来月の春高かな、なんて考えていたら、ガチャガチャと玄関から音がして、ドアが勢い良く開いた。

 家族が帰ってくるにはまだ早い時間で、驚いて見に行けば、ずぶ濡れの姉が酷い顔をして玄関に立っていた。


『え、ユイ!? 何で、ちょ、風邪引く!』


 慌てて洗面所からバスタオルを引っ張り出していると、乱暴に靴を脱ぎ捨てたユイが大股でこちらに歩み寄り、その勢いのまま僕に抱きついてきた。

 思わぬ彼女の行動と勢いに僕は支えきることができず、尻餅をついて彼女を受け止める。受け止めたユイの体は少し震えていて、訳は分からなかったがとりあえずバスタオルを被せた。


『どうした? 何かあったか?』


 濡れた体を拭いながら声をかけるが、彼女は何も答えない。どうしたものかと思いながら彼女の頭をタオル越しに撫でていると、やがてゆっくりと顔をあげた彼女は小さく呟いた。


『もう、部活やめる』


 震えるような声だった。今にも泣き出しそうな声だった。なのに顔はずっと無表情で、それが逆に泣きたいのを必死に耐えている事を引き立てて痛々しく映った。


『なんか……男とか、女とか、よく分かんなくなっちゃった』


 その言葉を聞いて、僕は姉に何が起きたのか、大体の事を察してしまった。いつか起きるかもしれないと危惧し、起きてほしくないと願ったことが、現実になってしまったのだと、理解した。

 僕は彼女の体を力一杯抱き締め返して、そして必死に考えた。姉のこの悲しみを慰めるにはどうしたら良いのか、と。

 けれど今まで何度この状況をシミュレーションしても、彼女を笑顔にする方法には辿り着けていなくて、僕はユイの冷たい体を擦ることしか出来ない。

 そんな時、ふと壁に貼られたカレンダーが目に入った。


『海』


 8月のカレンダーには、海の写真が使われていて、気付いたときには僕は言葉に出していた。


『海に、行こう』


 何かを考えての発言ではなかった。

 ただ何となく、海に行けば彼女が笑ってくれるのではないかと。その時の僕には根拠のないそれが名案のように思えた。


『今から海に行こうよ』

『今から!?』

『そう、今から。行こうよ』


 戸惑う彼女に行こう行こうと強く押せば、ユイは暫く逡巡した後に小さく頷いた。

 いつもはあまりに突拍子のないことをするのは彼女の方で、逆に僕はそれを止める側だったから驚いたのかもしれない。それとも普段はあまり主張をしない僕の思わぬ強引さに気圧されたのかもしれない。

 いつもであれば、もっとはっきりと自分の意見を示すだろうに。こんなに弱り果てた姉は見たことがなかった。これ以上見ていたくなかった。

 沸かした風呂に突っ込んで、新しい服に着替えて貰って、ドライヤーで髪を乾かして。

 机の上に『ちょっと海行ってきます』とだけ書き置きを残して、携帯と財布だけを手にとって、僕らは家を出た。

 当然高校生だった当時バイクなんて持ってはいない。無謀で無計画な僕は自転車の後ろに彼女を乗せて、雨上がりの夕暮れの道を漕ぎ出した。雨で濡れた道が、雲の切れ間から垣間見える赤い空の光で反射して、キラキラと輝いていたのが酷く印象的だった。


***


「雨、止んだね」


 んー、と伸びをする彼女の声にハッとする。気付いたら雨は上がっていて、雲の間に青い空が覗いていた。見上げれば近くにまだにわか雨を降らせた暗雲が見えていたが、進行方向とは逆側だった。


「海風に押されてきたのか」


 言う間にも暗雲は見る見る遠ざかっていく。海側を振り返れば、そちらは既に快晴の青空が広がっていた。


「あ、ねぇ、ちょっとだけ、ちょっとだけこのまま半袖で走りたい」


 青い空にテンションが上がっているらしいユイが、ぴょこぴょこと跳ねながら道を指差す。


「危ないぞ」

「ちょっとだけー」


 ねぇお願い、とわざとらしく小首を傾げるユイに、僕は溜め息を吐いた。道を見て、車が来ていないことと、目に見える危険物が無いことを確認して、もう一度溜め息を吐く。


「しょうがないな、ちょっとだけだぞ」

「やったぁ!」


 諸手を挙げて喜ぶユイの笑顔が太陽の下で輝いている。その顔を見るのが、とても嬉しい。

 僕も薄着のまま行こうかな、とバイクを見ると、運転席にはユイが既に股がっている。


「ヘイ乗りな!」


 大いに、既視感。

 しかしあんな事を思い出した後だからか、ユイの楽しそうな笑顔に勝てなくて、僕は苦笑しながら彼女の後ろに股がって腰に手を回した。

エンジンを蒸かせて発進すれば、向かいから来る風が肌を撫でて気持ちが良い。


「あぁー気持ちいい! わーたーしーはー風になるー!」


 ひゃっはー、と大きな声を上げてユイがはしゃぐ。


「頼むから安全運転してくれよー」

「今の私は元号末覇者! 誰も私を止められはしない!」


 思いもよらぬ物騒な言葉に内心慌てるが、走り出したバイクは止められない。運転を任せたのは軽率な判断だったかと少し後悔していると、「わぁっ」と前でユイが声を上げた。


「海だー!」


 山沿いに曲がるカーブを抜け、開けた下方に広く広がる青。今回の旅の最終目的地。5年前に訪れた、僕らの思い出の地であり、始まりの地。

 5年前に通った時は夜遅く、海が見えることにすら気付かなかった。海は雲間から差し込む太陽の光を照り返し、キラキラと輝いている。朝と夜とでは、こんなに印象が違ったのだなぁと、感慨深い。


「見えたってことはもう少しだね、飛ばすよー!」

「だから安全運転!!」


 わはは、と笑う彼女に僕の叫びがちゃんと届いているのかは定かではない。



**海**



 眼前に青い海が広がる。


「わー、着いた!」


 浜辺に着いて、彼女は波打ち際まで走り寄る。バイクをパーキングに停めた僕も、彼女の後を追った。


「着いた……着けた……生きてる……」


 初めて彼女の運転を知ったが、恐らくこれが最初で最後になるであろう。何故法定速度なのに車体があんなに浮いたのか。何故カーブであんなに傾いたのか。

 彼女の運動神経がなければ死んでいた。いや、彼女の運動神経がこの事態を引き起こしたのか。

 とかく嫌に疲れたと思いながらため息をついていると、強い力で腕を引かれる。先に行っていたはずのユイが、僕の腕をつかんで海を指差した。


「ほらハジメ、海!海!何俯いてんの、海見て海!」

「はいはい見てる見てる」


 顔を上げれば、白い砂浜と、空の先まで広がる青い海。遊泳区域ではないからか、僕らの他には誰もいない。

 ユイに腕を引かれて波打ち際の側まで寄る。ユイは靴をポイと脱ぎ捨てて、寄る波に足を浸す。


「あはは、気持ちいー」


 パシャパシャと波を蹴りながら歩き回るユイに、我に返った僕は慌ててリュックからビーチサンダルを出す。


「貝殻で足切るぞ、ほら」

「はーい」


 僕もサンダルに履き替えて、ズボンの裾を極限までまくる。黒い砂浜に足を進めると、打ち寄せて冷たく撫でる波が確かに気持ちいい。


「ありがと。やっぱりハジメは素敵な彼氏さんだねぇ」

「だからそうだって言ってんだろ。精々惜しめよ」

「惜しいよ、もちろん」


 未練も後悔も無さそうな笑顔で、そんなことを言う。全く、酷い彼女だ。


「惜しむべくー、恋人っぽい事もしておこうか」


 そう言うと、ユイはぐっぐっと軽く屈伸をする。アキレス腱を伸ばす。ふくらはぎを伸ばす。嫌な予感がする。

 顔を上げたユイは向日葵のように明るい、満面の笑みを浮かべた。


「うふふー、捕まえてごらん!」


 言うや否や、ユイは踵を返して走り出した。そう、走り出した。スキップじゃない、全力疾走。一瞬で後ろ姿が遠ざかる。


「え、ま、ちょ!?」


 一泊遅れて意図を察し、追いかける。だが、その一瞬が命取りで、伸ばした腕は彼女に届かない。足に絡む波も、沈む砂浜も、ビーチサンダルも、何もかもが走りにくい。それでも懸命に走る。走る、が。


「おほほほほほほほほー」


 高笑いが遠ざかっていく。ダメだ、もはや追い付けない。

 足を止め、ぜえぜえと息を切らす。何故このバッドコンディションであの速度を出せるのか。本当に彼女の細胞は僕と同じ遺伝子を持っているのか。とりとめのないことを考えながら息を整えていると、ふと違和感に気づいた。


「あははははははははー」


 何故か遠ざかったはずの高笑いが近づいてくる。嫌な予感、再来。

 顔を上げると笑顔のユイが全速力でこちらに走り寄って来る。可愛い恋人、なのは差し置いて、172センチが正面から全力疾走で向かってくるのは普通に怖い。


「く、来るなあああああああああ!」


今度は僕が踵を返して逃げ出した。


「あはは、待てよぉコイツぅ!」


 束の間の抵抗むなしく、一瞬にして捕まった僕の腰にユイの腕が回る。


「ぐぇっ!」

「つーかまーえた」


 思わぬ力によろけたが、何とか踏ん張って転ぶのだけは阻止する。後ろを振り向けば、はぁはぁと息を切らせながらも満足そうな笑みを浮かべる恋人。


「これの、どこが、恋人らしいって……?」

「砂浜で追いかけっこはドリームでしょ」

「こんなの、ベタな恋愛映画でもやんないって……ハハ、ハ」

「ん、ひひひ」


 安直で、馬鹿らしくて、可笑しくて、僕らはくっついたまま腹を抱えて笑いあった。



**短夜**



 あの日の僕らにこんな笑顔はなかった。


 家を出て、海につくまでのほとんどの時間、僕らは無言だった。ただ、自転車の車輪が回る音と風の音だけが僕らと共に走る。

 漕いで、漕いで、時々降りて自転車を引いては、また漕いで、着くまでひたすらひたすら漕いで。

 電車なら2時間。バイクなら2時間半。でも自転車なら、時々降りて押した時間も含めて7時間半。

 着いたときには疾うに日は落ち、目の前には夜空との境目もわからないような真っ黒な海が広がっていた。

 砂浜へ行ける階段を見つけて、降りる。


『暗いから気を付け……うおっ』


 ユイに気をそらした瞬間、階段に積もった砂に足を滑らせて、転んだ。階段に尻餅をつき、ついでにその勢いのままずるずると下の段まで滑り落ちる。


『うわ、大丈夫?』

『……なんとか』


 駆け足で降りてくるユイは足を滑らせる様子もなく、足腰の鍛え方の違いを如実に見せつけられた。

 気を取り直し、波打ち際まで近づいてみる。思い付きで来たからビーチサンダルなんて持ってきているはずもなく、さすがに運動靴が濡れるのは嫌なので、二人で波の届かないギリギリの場所でしゃがんでみる。

 漕いで漕いで熱くなった体に時折強く吹く海風が心地よい。ユイも僕の隣に腰を下ろす。

 海に来たからと言って傷付いた様子のユイが急激に元気になるなんて、もちろんそんなはずはなく。ただ非日常的な光景に、少しでも気が張れてくれれば良いと思った。それから僕らは何を話すでもなく、真っ黒な海を見つめていた。

 20分か、30分か、はたまた1時間以上か。ずいぶんと長い間そうしていて、少し風が肌寒くなってきた頃。


『あの、さ』


 ユイが僕を振り返る。


『ごめんね、心配かけて……ちょっと、部活で辛いことあってさ、取り乱しちゃったんだけど……ハジメのお陰で、もう、大丈夫だから』


 にこり、とユイはわざとらしい笑みを浮かべる。

 僕らは生まれたときから一緒だった。だからこそ、分からないはずがなかった。彼女の強がりを見抜けないはずがなかった。


『話してはくれないわけ?』


 大体の想像はついている。けれどできれば彼女に話してほしい。話すことで、少しでも楽になってほしい。なのに姉は困ったように眉を寄せる。


『大丈夫だから』


 大丈夫、と、全然大丈夫そうじゃない顔で言う。

 海を見る。さざめく並みが町の明かりを反射している。

 ふと、脳裏にアイデアが思い浮かぶ。


『じゃあ思いの丈を海に向かって叫んでみるとか?』

『……青春映画かよ』


 アイデアはすげなく一蹴された。

 だめかぁ、と砂浜に視線を下ろす。どうしたら、姉は笑ってくれるのか。

不意に強く風が舞って、背中に何かが当たった。振り向くと、誰かが忘れていったのであろうボールがあって、何となしにそれを手に取る。

 ちょうどバレーボールくらいのサイズで、僕は砂を払ってポンポンとオーバーハンドでドリブルする。しかしすぐに取り零してしまい、砂浜に転がった。

 無言の姉の視線が痛い。


『……しょうがないだろ。ブランクあるし、風もあるし』


 何も言われてはいないけど、何となく言い訳をする。

 ユイは黙ったまま落ちたボールを拾い上げて、トントンとリズムよくドリブルする。アンダーハンドとオーバーハンドを使い分け、体の芯はブレず、海風に泳ぐボールの真下に確実に入る。


『さすが、上手だな』


 7年近くやって来ただけあるなぁ、と言葉に漏らすと、ユイはボールを上げる手を止めて僕を振り返った。


『……上手かな』

『上手だろ、さっきの僕の姿をもう忘れたか』

『上手、だよねぇ……うん、そうだよ。私、上手なんだよ』


 突然の自画自賛に、頷きつつ内心首をかしげていると、ユイはくるりと海に背を向けた。

 ボールを高く放り投げ、走り出す。

 腕を大きく振り、伸び上がる。足が砂浜を離れた。

 上がったボールは夜の暗さに紛れてもう見えず、暗い夜の宙にユイだけが白く浮かんで見える。

 ユイはボールがどこに落ちてくるのか分かっているかのように、迷いなく真っ直ぐに腕を振り抜いた。

 破裂にも似た打撃音の後、ボールは力強く風を切る。次の瞬間には防波堤にぶち当たり、鈍い音を立てて大きくバウンドした。

 そんなボールの行く末を見たユイは、くるりと振り向いて海に向かって大きく息を吸い込む。


『皆大っっ嫌い!! バーーーーーーーカ!!』


 ユイは海に向かってあらんかぎりの声で罵倒した。

 言い出したのは僕なのに、あまりの声の大きさにビックリして彼女を見つめていたら、彼女の顔が僕を振り向く。


『青春映画も馬鹿に出来ないね』


 海に来て、彼女は初めて彼女らしい、本当の笑みを浮かべた。

 僕は腰をあげ、彼女の前に立った。

 彼女の眉が、少しずつ寄っていく。笑う彼女の両の目に、じわじわと涙が溜まっていき、決壊して溢れてしまいそうだった。溢れてほしくないなぁと思いながらユイの頭を撫でる。


『例えユイが大嫌いでも、僕はユイが大好きだよ』


 誰よりも大事だよ、と言葉を重ねると、笑った形の彼女の口が、ひきつるように歪んだ。キュッと眉が寄り、耐えるように目を細める。


『…………そんなの、私だってハジメのこと大好きだよ……』


 背に手を回して、ぎゅっ、と抱きついてくる彼女に、僕も頭を撫でる手とは反対の手を彼女の背に回した。

 全く同じ顔。全く同じ遺伝子。身長だって同じで、けれど彼女はこんなにも小さい。小さくて、繊細で、か弱い。


『僕達両想いだね』


 僕はなるべくなるべくいつもの通りを意識して、彼女に笑いかける。


『僕としては、好きな子の心配は出来るだけさせて欲しいな、なんて思うんですけど』


 お願い、と言うと姉は少しの間沈黙して、肩に頭をすり付けるようにして頷いた。

 僕らは海を正面に、隣り合って砂浜に座り直す。


『……ズルいってね、言われちゃったの。バレー部の先輩に』


 膝に顔を埋めたユイは、ポツリポツリと話し始める。


『私は女の子じゃないから、女子バレー部にいるのはズルいんだって。女の子じゃないから、女の子よりバレーが強いのは当たり前だって』

『そうだったんだ』

『最初は先輩も大会前でイライラしているんだって、そう思ったんだ。だから言われた言葉は悲しかったけど、流そうとしたの。けどね、周りを見たら誰も私の味方はいなかったよ。皆気まずそうで、だけど私の味方じゃないって目をしてた』


 声が、震えている。膝を抱える手も。


『なんか、それ見た途端に面倒になっちゃって。だって、皆が今までずっと私の事少なからずそう思っていたんだなって、気付いちゃったんだもん』


 裏返る声に、僕はゆっくりと丸まる彼女の背中をさする。

 嗚呼、と思う。嗚呼。

 僕はずっと、恐れていた。僕たちの世界に【男女別】の概念が訪れた、中学一年生のあのときから。

 誰かが【彼女】を否定するこの時を、ずっとずっと恐れていて、そんな未来は来なければ良いのにと願っていた。

 儚くも僕の願いは天には届かなかったわけだけど。


『バカな先輩とチームメイトだな』


 僕は優しい口調を努めて出す。


『バレーの強さも上手さも、ユイの努力の結果だよ』


 撫でる手とは反対の手で、強く、強く、拳を握る。じゃなかったら彼女を置いて怒りに取り乱してしまいそうだった。

 全部、彼女の努力だ。全部。朝誰よりも早く練習をはじめて、毎日朝夕ランニングをして、家でも絶対にストレッチと筋トレは欠かさない。彼女の誉められてしかるべき、努力の賜物だ。

 そうじゃなかったら、僕はとっくに彼女と同じくらい強くなっていたはずじゃないか。

 だというのに、本来は手本と仰ぐべき先輩が、共に走るべきチームメイトが、彼女の努力を否定するなよ、と、顔も知らない【先輩】や【皆】に詰めよってやりたいその気持ちを、強い理性をもってやり過ごす。

 一番辛いのはユイなのだと、何度だって胸の内で復唱する。


『私って、やっぱり女の子じゃないのかな。でも、男の子でもないんだよ? じゃあ私は一体何なのかな』

『ユイは女の子だよ』


 よく笑って、よく動く。美しくて愛しい、僕の片割れであり、姉。


『僕らはちょっとそっくりすぎただけだよ』


 彼女は僕の双子の姉。僕は彼女の双子の弟。僕達は一卵性双生児。

 彼女と僕の細胞には何もかも全く同じ遺伝子で構成された、全く同じ染色体が収まっている。何もかも。【性決定染色体】も含めて、何もかもだ。

 遺伝子が性別を決める以上、男女の一卵性双生児は有り得ない。僕らは本来有り得なかったはずの姉弟。

 それがこうして有り得ているのは、彼女はY染色体<男性発現性染色体>を持っていながら、それがその身に作用しなかったから。

 体も心も女性でありながら、遺伝子だけが男性である。そんな彼女の在り方を、無粋な研究者は【完全型アンドロゲン不応症】と呼んだ。


『今までは……私はちょっとだけ他人とは違うけど、そんな事はどうでも良い事だって。個性みたいなものだって。でも、違ったみたい。皆にとっては男と女の枠は凄く重要で、私みたいに中途半端だとそこには入れて貰えないんだって』


 濡れる彼女の声に、胸を締め付けられる。僕の目の前まで、ゆらりとボヤける。


『私もちゃんと生まれていれば良かった……本当に、ハジメと全部おんなじにさ』

『ちゃんとって何だよ。もうちゃんと、ユイはユイとして生まれてるじゃん』


 ユイが膝から顔をあげて、下手くそな笑みを浮かべた。その頬は涙に濡れていて、月明かりを反してキラキラと光った。


『【皆】はそれじゃあダメなんだってさ』


 皆なんて知らない。ユイを泣かせる【皆】なんて、どうでも良い。


『私、この先もどこにも入れないのかな。何だか急に一人ぼっちになったみたい』

『僕がいるだろ』


 ユイの掌に僕の掌を重ねる。


『僕がいる。だから、ユイは一人ぼっちになんて絶対にならない』


 【男女別】が到来してから、ずっとずっと考えていた。男とは何か。女とは何か。

 結局いくら考えたところで僕にとっては子孫を残す時に役割が違う程度にしか考えられなかった。

 だって馬鹿馬鹿しいじゃないか。

 中学に上がった途端に体育や部活では分けられて、異性で仲良くしていたらクラスメートから勘ぐられる。姉弟の場合は気持ち悪がられる。

 男は活発だと好感が持たれて女は過ぎると嫌煙されて、男が愛らしいものを好きだと遠巻きに見られて、女が筋肉つけてたら可愛いげがないらしい。

 全部が全部、馬鹿馬鹿しい。

 そう思うのに、先生達はこぞって『あなた達は全く別の生き物ですよ』と繰り返す。

 小学生時代の、【男女】が無かったときの方が、僕らは自由に生きていた。


『どんな形に生まれようが僕は僕でユイはユイだ。【皆】がユイを枠の外に追いやるって言うなら、そんな枠なんてこっちから払い下げてやろう。下らない縛りは放り投げて、僕らは今から二人ぼっちだよ』


 目に見えもしない二重螺旋が、一体僕らの何を決められるのだ。


『二人ぼっちでどうするの?』


 ポケットを探ってハンカチを取り出す。濡れる彼女の頬をそっと拭った。


『好きなことをしよう。何に縛られる必要もないし、縛られている人の目を気にする必要もない。……まあバレーには人数が足りないんだけど……でも二人で出来る事なら、何でもしよう』

『……なんだかそれ、アダムとイヴみたい』


 ユイが僕のハンカチをスルリと取って、僕の頬に当てる。


『うん、そう。そうだね。楽園にいたアダムとイヴみたいに』


 ユイが海に目を戻す。動いた拍子に耳からはらはらと黒髪が落ちて、その間から垣間見えた彼女は穏やかに笑っていた。


『良いよ、私達は二人ぼっちのアダムとイヴね。一緒にリンゴを食べる前のエデンに帰ろうか』


 視線をあげたユイが、あ、と声をあげる。天を指差して僕を振り返った。


『見て』


 彼女の指差す先を見上げる。そこには満天に星が広がっていた。


『気付かなかったなぁ』

『気付かなかったねぇ』


 下ばかり見ていて気付かなかった。

 僕達は顔を見合わせて、ふふふと笑い合う。笑いあって、星を眺めて、僕らはいつの間にか抱き合いながら眠っていた。


***


 二人ぼっち。楽園ごっこ。拙く原初の真似をして、現実への反逆遊び。あれからあっという間に5年が経った。

 最初はどうしようかとぎこちなく、数年ぶりに手を繋いで歩いてみたり、二人で買い物をしてみたり、旅行に行ってみたり。大学進学をきっかけに二人暮らしを始めてみたり。

 時には迷走して、互いの服を交換してみた事もあった。流石にスカートはお断り申し上げたけれど。そんな迷走も楽しかった。

 そうして楽しいことを探しているうちに段々と今の形に落ち着いた。


『アダムとイヴは夫婦だったけど、半人前の私達はせいぜい恋人同士かな』


 恋人同士になったのは、確かそんな彼女の言葉がきっかけだったと思う。

 とは言え、こんなのはただの現実逃避だ。逃避される現実が悪いと駄々をこねたところで、いつまでも続けられるはずもなく。

 だからユイに「終わりにしよう」と言われたとき、遂にこの時がやって来たかと、感慨深くそう思った。


 楽園の終わり。僕らは吐き捨てたはずのリンゴをまた食べて、脱ぎ捨てた男女を纏ってエデンを出る。



**夕焼け**



 波を蹴り上げ、海水を掛け合い、ワカメを拾って放り投げ、綺麗な貝殻をポケットに仕舞って、波打ち際で散々ふざけて。

 いつの間にほどけた彼女の髪が、海風に遊ばれて舞い上がる。大きな口を開けて力一杯に笑う彼女の頬は、いつかのように潮水で濡れていて、陽の光にキラキラと輝いている。僕の頬も、そうかもしれない。

 楽しい時間はあっという間に過ぎる。

 思う存分遊んで疲れた僕らは砂浜の入り口、階段まで戻る。


「そうそう、ハジメここでこけたんだよねぇ」

「暗かったからなぁ」


 砂を払って腰かける。もう大分陽も傾いて、青かった空も海も今は赤く煌めいている。

 ハンカチを渡すと彼女は手と顔を拭った。


「終わりを此処にしたのは、平成が終わるから?」


 僕はてっきり大学を卒業する来年だと思っていたから、そう尋ねてみると、ユイは頷いた。


「まぁさ、元号が変わるって言ったって、別に幕府が立つわけでも、天下が統一されるわけでもないし。だから来年になっても時代が急に変わる訳じゃないけど。でも確かに1つの『終わり』がここにあると思ったから、私達も区切りをつけるのにはちょうど良いかなって思ったの」


 現実は変わらない。だけどきっと彼女は彼女の中に、彼女なりの維新を起こそうとしているのだ。

 世界を見る目を変えて、締め出したものを受け入れて、またこの先を歩いていくために。


「それにしても、結局私達『二人ぼっち』にはなれなかったね」


 彼女が笑う。僕もそれに笑い返す。


「そうだなぁ。『二人ぼっち』を始めて、その帰り道で会ったアイス売りのお婆ちゃんに今日まで覚えられてたわけだしな」


 枠を出て、全部をいくら締め出そうとしても、世界はどこまでも広がっていて。せいぜい僕らにできたことは、僕らに都合の悪いところに目をつむり耳を塞ぐことくらいだった。


「でもねそれって、私はこの先何があっても、ハジメがいない場所でだって、一人ぼっちになんてならないってことだよね」


 けれど彼女はそう言って、本当に嬉しそうに笑っている。だから僕まで嬉しくなる。彼女がまたこうして笑えていることが、心から嬉しい。


「私ね、やっぱり自分は女の子だなぁって、そう思う」


 ユイは自分の掌を見る。

 よくいる女の子には少し大きくて、僕よりは小さい。掴めるものの限られた彼女の掌。


「それが私の在り方だから、他の人がどう思おうと関係ないの。女の子の枠、男の子の枠、そういう括りで私を縛る事は難しいけど、私の立っている此処が私なりの女の子。もしかしたらこの先も、私は女の子の枠に入れない事もあるのかもしれない。だけど、枠の外にも世界は広がっていて、枠の外にも幸せはたくさんあったから。枠に嵌まらない所全部含めて私は私だから、それで良いの」


 ユイが顔をあげて僕を振り返る。

 海の中に沈む太陽が一段と強く、赤く、彼女を照らした。


「私、二人ぼっちになって良かった。だからありがとう、ハジメ」


 夕日に染まる彼女の笑顔はどんなものよりも眩しく、美しく、僕の目に焼き付いた。

 少しだけ。それを手放すのを少しだけ惜しく思う事だけは許して欲しい。歩み行く彼女の道のりを邪魔はしないから。ちゃんと手放すから。

 詰まった息を、ゆっくりと吸う。


「どういたしまして、ユイ」



さようなら、僕達のエデン。

さようなら、僕だけの美しい人。


さようなら、海の泡より儚く壊れた僕の恋心。



**結**



 平成の終わりに拘るなら何で冬休みでも春休みでもなくてこの夏だったのか。

 と思っていたらあの姉と来たら夏が終わった途端にアメリカに飛びやがった。知らないうちに交換留学生に選ばれていたらしい。1年は帰ってこないとの事だった。

 大事な事を隠していた事もだけど、こんなにあっさりといなくなるなんて、全く薄情な人だ。


 彼女の旅立ったアパートで、僕は一人で一人分の紅茶をいれる。冷凍庫の色とりどりのフルーツアイスから適当に1つ選んで食べる。

 本当は僕はコーヒー派だし、アイスはバニラが一番好きだ。

 苦い香りが苦手な誰かに気遣う必要もなく、優柔不断な誰かと分け合うわけでもない。そのはずなのに。

 彼女のいないこの部屋で、彼女の残り香は今も色濃く漂っている。


「嫌になっちゃうなぁ」


 深いため息が口をつく。

 姉はさっさと世界に足を踏み出したというのに、僕と来たらこの体たらく。結局僕が誰より姉離れを出来ていないと言うそれだけの話で、これでよく彼女に偉そうに物を言えたものだ。

 彼女が日本に戻ってくるまで……いや、この平成が終わるまでには、せめてちゃんと一人で立たなければ。

 まず何から始めようかと思案する。

 窓の外では、松虫がチンチリとまだ見ぬ雌を呼んでいる。

 秋の日が、赤く赤く暮れていく。


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