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魔術師が語る物語

 神聖歴118年といえば奴隷解放聖戦から30年の節目の年だった。俗に言う第二次大陸大戦は、英雄とまで詠われた最後の皇帝ラングレイ・ラドヴェスタの死を以って終戦。貴族主義社会国アデルデモス福音公国の勝利に終わり、大陸の覇権は再び独裁政権が本流の暗黒時代を迎えた…かと思われた。しかし、たった一人の英雄が示した理想世界への道を、死後多くの賛同者がその跡を追い、辿り、切り開く結果となった。終戦から30年が過ぎる、理想の二文字で片付けられていた民主主義が根付き始め、旧暦時代からおよそ300年以上続いていた奴隷制度がこの数年で衰退の一途を辿っている。早くも、大陸西部の魔人族の連合大国では国民を主体とした政治体制を敷いているという。実験段階ではあるそうだが。まったく嘘みたいな話だ。魔力量が物言う実力主義社会の魔人族の国が、2000年以上の歴史をかなぐり捨て、よもや人族よりも先に民の権利平等を訴えるなんて…。

 世界はゆっくりと、確実に変革を迎えている。微々たる変化ではあるが着実に、亡き最後の皇帝が望んだ、国民に政治的主権が行き渡る理想世界に変わりつつある。

 ここ、アデルデモス福音公国でもようやくその片鱗が垣間見えて来た。まだ、スラム街では日夜闇市で人身売買が横行している。売られるのは魔人族や獣人族の女子供達。しかし、以前のように傭兵や用心棒として、男が売られる光景は見なくなった。時代が男の奴隷を必要としなくなったのだろう。「平和だよ」いつだったか。上位官であるケントが整えた顎髭を撫でながら感慨深そうに頷いていたのを思い出す。「もう、戦争をして儲ける時代は終わったんだ」。普段は嫌味ばかり言う上司だが、この時の言葉は妙に説得力があった。齢40を超える彼は、戦争の経験者だ。人々の間には漠然と「次の時代」の波の気配があった。客観的に言葉で聞くと、生々し過ぎて現実味がなかったのだと思う。「時代は移り変わる」、それを言葉では理解出来ていてもハッキリと姿形が目に映る訳ではない。少なくとも私はそうだった。上位官ケントの目には、この、生まれ変わろうとする未だ歪で醜い形の「平和の世界」はどう映るだろうか。


 さて、このまま淡々と世情の話をしてもいいが、私の話は夜行性のフクロウですら眠ってしまうほど退屈なので、気分転換に私自身の話をしようと思う。


 中央魔術本部アデルデモス福音公国レーデルフィア領及び近郊南西部支所。ここが私の職場。社屋は、海と白壁と青煉瓦がシンボルの都市の丘陵に座している、飾り気がない直方体二階建ての建造物。極端に無駄な要素が省かれている。有り体に言えば「詰まらない」。生活環境魔術課に配属された私の仕事も有り体に言えば「詰まらない」。主に環境要因による魔力エネルギー量の変動の調査、自然環境に対する魔術作用の公害及び自然環境の保全、魔獣の自然環境に対する影響の調査及び管理、魔病に関する調査、エトセトラ。青魔術師として認定されていたが、支所内で最年少の私に与えられる仕事は、主に現場作業。問題が報告された箇所に直接調査の足を運び、当地の魔力エネルギー量の数値測定や、魔獣の生態や行動を記録する地道な調査を行う。退屈な仕事。退屈な毎日。

 そもそもが無意味な仕事内容なのだ。アデルデモス福音公国レーデルフィア領には、生活環境魔術調査部が設置されており魔術が環境に及ぼす影響を調査、記録する組織が活動している。一方で中央魔術本部は、世界魔術条令により各地域に魔術管理支所を配属する義務がある。レーデルフィア生活環境魔術調査部と、中央魔術本部アデルデモス福音公国レーデルフィア領及び近郊南西部支所の役割は、その大部分が一致しており、互いの管轄内にて業務の重複が発生している。先述した中央魔術本部は、この世界全域の魔術管理が生業、謂わば世界の情勢から逸脱した魔術統制を行う完全中立機関だ。レーデルフィア家がアデルデモス福音公国を代表する五大貴族であっても、情報開示や調査協力の義務がある。必然的に貴族や官僚からすれば中央魔術本部は「目の上のたんこぶ」、エルフの言葉を借りれば「大木の大穴にドワーフ商人」どうにも出来ない邪魔な存在なのだ。そんな魔術本部の魔術師である私は、本部とレーデルフィア領の役人の間で板挟みになりながら、どちらにも頭を下げつつ日々の業務を淡々とこなしている訳である。この状況を心のどこかでは億劫だと思っているが、特に解決方法も見つからない。どうしようもない、それが口癖だった。


 ん? ああ、詰まらなかったでしょう?

 よく言われるんですよ。努力はしているが、努力はいつだって身になるとは限らない。それに私の上司であるケントは「努力より結果だ。中身より結果だ」釘を刺すようにそう繰り返す。至って異論はないその通りだと思うしかない。

 まあ続きを話そう…。


 私は、職場の近くで小さな部屋を借りて暮らしている。四畳半の集合住宅。本が多い部屋。それ以外に特筆することはない。手狭だが、一人で暮らす分には丁度いい。夜中に読んでいた書籍に囲まれて目覚めるのが私の日課である。

 1日の始まりは、寝ぼけ眼に『ウェイクアップ』の魔法をかけて強制起床。化粧もほどほどに中央魔術本部アデルデモス福音公国レーデルフィア領及び近郊南西部支所(俗称、魔術本部レーデルフィア支部、皆そう、呼んでいる)の屋舎に向かう。出社の挨拶も程々に上司である上位官ケントに小言を言われる。大抵は数値の記入ミスや報告書の不備について。午前中は生活環境魔術課の奥の机に向かって資料作り、午後は現場に足を運び魔力エネルギー量の測定や魔術公害の現地調査に出向く。18時には屋舎に戻り報告書を書き直す。その繰り返し。退屈だけど、どうしようもない。そんな毎日。ああまた言ってしまった。


 ある日のこと。「リーサ」上位官のケントが私を呼ぶ。重い腰を上げて話を聞きにいくと「内陸南カーマイシス領の森で魔獣の目撃情報があった、恐らく新種の可能性はないが念のため調査を頼みたい」とのこと。魔獣は基本的に固定の住処を決める特殊生命体。イレギュラーで新種が発見されることなど極めて珍しい。去年は1年間で僅かに1体だった、それも全国規模の調査で。

 今回の私の仕事は、中央魔術本部の魔術師として現場におもむき新種魔獣の存在確認と生態調査。仮に凶暴性がある魔獣ならばそのテリトリー、行動範囲、行動習性を調べなければならない。危険を伴う調査のためカーマイシス領から臨時で調査隊が派遣された。

「驚いたよ…。青魔術師が派遣されると聞いていたが、君のような若い子が来るなんてな。いや正直に驚いているよ」

「どうも」

「それも魔法かい?」

「いいえ。24歳です…」

 上質な金髪と宝石のような青い瞳が強く印象に残った。レオン・カーマイシス。話を聞くところによるとレーデルフィア家の傘下、中堅貴族カーマイシス家の三男だそうだ。随分と若い。私より二つか、三つ年下かもしれない。だが、連れの騎士達と親しげに会話している様子を見るからに実力は認められているようだ。肩をぶつけ合いながら談笑している様子をよく見かけた。

「よく見りゃあ結構…筋の通った顔してるぜ」

「レオン、お前もいい加減に剣ばかりじゃなくて女にも目を向けろよな」

「ちげぇねぇ」

「やめろ、彼女は客人だ…」

 どうも…。

 騎士達を諌めると、レオンはバツが悪そうな顔で私に頭を下げた「無礼を許して欲しい、うちの騎士達は名家上がりの貴族のような礼儀作法を習っていないんだ。寄せ集めの傭兵団みたいなものさ。ただ悪い連中ではない。どうか許して欲しい」

「構いません」

 その時の私は、我ながら役人の業務が似合う固い表情だったと思う。騎士と一口に言っても全員が全員、騎士学校を卒業しバラと正義のヴェレッドに忠誠を誓った高潔な生まれではない。長い戦争で即戦力が必要となった貴族達は、暫しその豊富な財産で傭兵達を騎士として迎え入れた。その歴史の名残が荒くれ者の騎士を生み出し、騎士の名を汚すこととなる。「アデルデモス福音公国で長い間奴隷制が黙認されてきたのは貴族と騎士という主従関係が歴史に深く根付いていたからだ」ケントの嫌悪が混じる言葉が想起される。

 私は特別彼ら騎士達を野蛮な存在だとは思わなかった。生きる世界が違う人間達だと線引きした事実は認める。カーマイシス家の騎士達は無秩序な荒々しい戦い方だったが、その息のあった連携は烏合の衆と決めつけるには時期尚早と考え改めるもので、道中は魔物に苦戦することなく順調に進行出来た。決して目を見張るような美しく型に収まった剣術ではない。騎士の一人が私の背後に忍び寄っていたワーウルフを蹴り飛ばした後に豪快に笑いながらこう言ったのを引用しよう「これが生き残るための剣術だ!」。

「剣より先に足が出るなんて騎士の名折れだぜ、バズ」

「バズは馬鹿だからなァ! しゃーねぇしゃーねぇ」

「またバズの飛び蹴り術が出たのか?」

「ちげぇぞ! 俺の剣術は北神流っていう列記とした剣術でよぉ!」

 それまで複雑な魔術書と幾何学的な整合性の取れた空間にいた私にとって彼らの存在は、強烈で新鮮で衝撃であった。「中央魔術本部サルサノンから来た魔術師さん達にしてみれば全く正反対の人間なのかもしれないな。彼らは乱暴で統一性がなく無秩序でいて馬鹿みたいな連中だよ」私が息を切らしているのを見かねてレオン・カーマイシスが水筒を差し出しながら、内心を見透かしたような言葉を投げかけて来た。

「ありがとうございます…、そうですね。正直戸惑っています。今まで過ごしてきた24年間で彼らのような騒々しい方々は初めてなので」私が冷ましてもいいかと尋ねると、二つ返事でレオンが「どうぞ」。『フリーズ』の魔法をかけると、ぬるかった水筒の水はキンキンに冷えた。

「連中は嫌いかい?」

「いいえ、」疲れた身体に冷たい水が流れ込む。生き返るようだ。思考まで明瞭になるかのようだったが「いいえ」の先の言葉はなかなか思い付かなかった。そろそろ出発かというところでようやく絞り出した言葉が出て来た。

「ただ、住む世界が違うなと思いました」

「そうか」レオン・カーマイシスは苦笑していた。遠くで「愛の言葉だ。行けっ愛の言葉を囁けっ」「レオン、かまわねぇ押し倒しちまぇ!」「馬鹿バズっ、声がデケェよ」騎士達の笑い声が飛んで来た。私は楽しそうな彼らの様子を眺めながら、次第に鬱屈とした何かを心の端にフツフツと溜め込んでいた。苛立と焦燥を混ぜて煮込んで感性した歪な何かだ。その正体を、その時はまだ明確に掴むことは出来なかった。

 予報にない雨が降り始めた。湿気が増し、雨水で足元が悪くなる。調査開始から既に4時間が経過していた。屈強な男達も悪天候と長時間の移動で疲労が積み重なっていたようで、当初と比べると口数が減っていたと思う。調査は殆ど進展していなかったが、私は一度帰還して快晴を待ってから再び調査に赴くのが最善策ではないかと考え始めていた。

「このまま闇雲に森の中を歩くのは危険です、そろそろ街に戻りましょうか」私が提案すると、レオン・カーマイシスは疲れを見せぬ顔で頷いた。調査隊のリーダーを任されている理由が何となく理解出来た。

 初日はまあこんなものだろう。簡易地図に最後の記録印を付けて『フライ』の魔法を唱えようとした時だった。

 疲労もあった。『フライ』は空中浮遊の初級魔法だったが私は完璧にこなそうとしていつも以上に集中していたため他の要素に気が付くことが出来なかったという現場の状況も重なっていた。そして何より新種の魔獣など1年を通して2、3体発見される方が珍しいと慢心していたのが大きな要因だった。

 最初に、雨の音に紛れた低い低い教会の大鐘のような咆哮を聞き分けたのは、先頭を歩くバズと呼ばれていた男だった。

「おい…みんな、何か聞こえねぇか?」

 疑心が確信に変わる二度目の咆哮。今度は全員の耳にはっきりと聞こえて来た。迷信深い方ではなかったが、恐らく神が慟哭する時は同じような轟音が大地に響き渡るであろう。地面が嗚咽に震えるのがハッキリと体感出来た。


 ォォオオァオオオォッ…!!!


 緊張に包まれる。抜刀、素早い反応、鉄の音が複数。各々が武器を構える。「リーサさん…」今のはレオン・カーマイシス。声が上ずっていた。求められるまでもなく私は既に『サーチ』の魔法を唱えていた。この魔法は戦時中籠城する敵の人数を把握したり、壁の向こうにいる人間や森に逃げ込んだ人間の位置を特定したりする魔法で研究と対策が重ねられてきた、所謂戦時中に進化した魔法、詰まるところ最先端の魔法だった。最先端の魔法を駆使しても、なお、魔獣の全容を捉えきれない…。

 ゾッと悪寒が脳髄まで染み渡る。対峙している得体の知れない魔獣の規模、巨大さに慄いた。


 ザァアアアアッ…!!!!


 森の木々が怪物の進行に蠢く。近付いている、もうすぐそこまで。

「危険です…これは。一刻もはやく…」

 私の消え入りそうな声は三度目の咆哮に掻き消される。影。深く長い影。濃密な闇が眼下に染み渡っていく。巨大なんて安い言葉では収まりきれないほどの体躯をした生命体が、頭上にゆったりと姿を現していく。現していく、という進行形の言葉を用いたのは全容が視覚に収まりきらなかったからである。動転していた私にはそのゆったりとした動きが雲か何かに見えた。ああ、そうだった。白かったのだ。

「なんだこの白いやつは…」騎士の誰かがボソッとこぼした。

 魔獣という特殊生命体の特徴は以下の四要素である。

 魔法を使うということ。

 巨大であること。

 唯一無二の個体であること。

 一定のテリトリーを持つということ。

 最後の一文。一定のテリトリーを持つということは、そのテリトリーに侵入した者の安全は保障されないという事に直結する。幸いだったのは、魔獣があんまりにも巨大過ぎて私達の存在に気が付かなかったことだ。まるで鋭い嘴を持った鳥のような頭。身体は細長い。多足亜門の昆虫の如く胴体は縦に長い。節ばった胴体から節の数だけ巨大な羽根が生えている。魔獣は飛行していた、優雅な白鳥のように羽根を大きく羽ばたかせて。羽根? まるで空気が詰まった風船が正しい表現だ。浮力で浮いているのか? 咄嗟には判断が付かない。ゆっくりと咆哮を響かせ飛行する魔獣が、私達の頭上を通過していく。神話の一ページを覗き見ているかのような幻想的で圧倒的な光景。このまま静かにしていれば魔獣は蟻のように小さな私達を目にも留めずに飛び去っていくだろう。私は全員に「静かに」のジェスチャーを送る。


 ビュンッ


 意に反して空を裂く音。空を飛来する一本の線。弓矢だ。

 背筋が凍る。

 調査隊の一人が沈黙と恐怖に耐えきれず矢を放っていた。矢が魔獣の羽根に直撃すると、浮袋?が破裂したのか黒い煙が噴出した。一瞬バランスを崩したかのように見えた魔獣は、体勢を立て直し何事もなかったかのように上空へと飛び上がった。

「やったか…?」

 私は、マズいと思った。その行動パターンは、竜を彷彿させる。

 飛び上がり敵を視認。攻撃を受けない上空の安全圏から攻撃を放つ。雨と相性がいいのは炎ではなく…。恐らくこの場で、幼い頃から魔術の学があった私のみが次の行動を推測出来たと思う。

 高い。先ほどより遥か上空に飛行魔獣の姿がある。旋回しながら蜷局を巻いている。

 魔法発動の予備動作、すぐに異変に気がつく。

 空間が、世界が、魔法という異現象に拒絶反応を示し白い煙を噴出させる。素人目に見ても並みの魔法ではないことは一目瞭然だ。騎士達の恐怖心が肌にザラついて感じられた。

 幸運だったのは、魔法が二次魔法式を用いて接続されている…つまり単純な構造で私でも解読可能な魔法だったこと。そしてこの条件下で発動される魔法が、私の得意魔法と同じ属性だったことである。

「伏せて下さい!!!」今度は全員に聞こえるような大声が出た。右腕を上空の魔獣に向けて突き出す。多重詠唱の魔法式を引用する。多重詠唱は体に大きな負荷をかけるが、しのごの言っている暇はなかった。貧血が起こるように身体から魔力が一気に抜けていく。急速に魔粒子が結合していく、複雑に組み合わさり一定の接続を繰り返す。魔法とは本来この世界にはない異現象。空間が拒絶反応を示し、白い煙が漂う。バチンッバチンッとパズルのように空間を漂う魔粒子が組み合わさり、そして最後のピースがはまった。


『どこか遠いところで、雷のような音が響いていた

大丈夫だよ

私を守ってくれた幼い手

今はここにない面影

暗闇の中の光と閃光

雷のような音が響いていた』


「『サンダーボルト』ッッ!!!」


 魔力によって構成された雷の塊が私の掌から放電されるのと、魔獣の嘴の先から雷が雑種を薙ぎ払わんばかりの勢いで放出されたのはほぼ同時であった。

 閃光。雷と雷がぶつかり合う。一瞬だけ迸る輝き。パァッと。まるで眼と鼻の先で花火を見ているかのように、魔獣の落雷が私の電気と混ざり合い四方八方に拡散する。遅れてやってくる身体を揺さぶるような轟音。耳鳴り。大地が小刻みに振動する。雷が周囲の木々を焼いたのか、焦げ臭い。「リーサ!!」レオン・カーマイシスの声。騎士達の怒声も遠くに聞こえる。どうやら全員無事のようだ。天から振り下ろされた神の鉄槌のような魔獣の一撃は、私の魔法によって僅かにその軌道を逸らすことが出来た。放電は彼方此方に拡散し、やがては効力を失った。

 魔法の構成を知っていたから対処出来た、今のはまぐれに近い。早くここから逃げなければ。声を出そうとしたところで身体が動かないことに気が付いた。完全に魔獣の魔法を逸らすことは出来なかったらしい。左半身が落雷によって焼けていた。痺れたように筋肉に力が入らない。多重詠唱の反動で頭がクラクラする。同形等同属性の魔法の筈が、扱える魔力量でこれだけ差が出るものか。朦朧とする意識の中、レオン・カーマイシスが駆け寄ってくれる気配を微かに感じた。「ダメだ。敵わない。早くここから逃げなければ」どれ一つ言葉に出来ず、結局掠れた母音だけが私の喉奥を通って這い出てきた。

 魔獣の咆哮。


 そこから先の意識はない。

 私の意識が真っ白の間『サンダーボルト』について少しばかり語ろうと思う。魔法の完成者は旧暦時代の魔術師バルドリック・バルバイン。風や水の魔法と異なり人々の生活に必要とされなかった雷の魔法だが、魔術師でありながら気象研究者でもあったバルドリックは天候制御魔法の研究中に偶然にもこの魔法を完成させたのである。古来は必要とされなかった魔法だが、神聖歴に入ると電気魔法を用いた探索、通信が高度に発達し今では魔術師達もその重要性を認めている。古代魔術研究の学術書でも雷属性は立派な属性の1つに確立されることとなった。逆に今でも論争が絶えないのは水属性と氷属性の区別についてだったりするのだが…。バルドリック・バルバインの書籍はそれこそ150年前に執筆されたものだが、現代魔法の基礎的魔術8接続の理論に最も近いた人物かもしれない。『環境と魔法についての考察』は魔術を語る者のステータスとして一読を勧める。ちなみに詠唱は出元がはっきりしておらず旧暦1600年代の小国の兄妹について描かれたものだと意見する者が多い。またその手の大河ロマンスを描いた作品は非常に多く、バルドリックもまた読書好きで有名であったため、信憑性が高い説として魔術師の間で共有されている。


 さて、意識を失っていた私は豪勢なベッドで目を覚ました。

 ハーブの良い香りがする羽毛布団が気持ちいい目覚めを促す。芸術に詳しい方ではなかったためベッドに拵えられた複雑な装飾の様式については割愛する(あとで友人に訪ねたらアダム・ヴェーストコーチ氏による金彩花紋装飾というらしい)。見覚えはない。この寝室らしき部屋について思慮を巡らせるや否や、ハウスメイドが悲鳴混じりに私の名前を呼んだ「リーサ様!」。メイドの声を聞きつけてたのかバタバタバタッと何人もの足音が響いてきた。

「リーサ!」先頭を切って現れたのはレオン・カーマイシスだった。ご自慢の金髪を振り乱して危篤の母の元に駆けつけてきた子供の如く必死な形相をしていた。レオンは私の姿を見ると、どこかホッとしたような笑みを浮かべた。

「よかった…、ようやく目が覚めた」

「おい魔法使いさんが目覚めたってっ?」「本当か?」「バズ!部屋はどっちだ!」続いて寝室に傾れ込んできたのは調査班の騎士達であった。息を吐かせる間もない、まるで彼らの怒濤の戦い方を前にしているよう。やがて、屈強な騎士達が部屋の扉で押し合いへし合いしている様を見兼ねてハウスメイドが説教をするまで、台風のような喧騒が収まることはなかった。

 レオン・カーマイシスとハウスメイドの話をかいつまんで説明すると、私が魔獣の雷を魔法で打ち消し(彼らの主観であり実際は打ち消してなどいない)、気絶してしまった後、一目散に街まで逃げ帰ってきたらしい。気を失った私はそのまま2日間も眠っていたようだ。騎士達は疲弊していたものの全員無事に生還。「みんな君に感謝しているんだ」レオンはそう言いながら精神同調異常コンフューズで動けない私の口元に水を運んでくれた。雷による電撃傷を受けた左半身は、カーマイシス家の救護班によって治療された。もちろん奇跡の回復魔法でも無い限り、人命に関わるような重傷は簡単には完治しない。まるでピンク色の入れ墨のように無数に枝分かれした樹状の傷跡が私の身体に残った。着替えの時にハウスメイドが傷跡を見て悲鳴をあげた。「きっと元のお美しい肌に戻りますよ」と根拠のない励ましに私は「そうですね」と冷めた返事をしてしまった。まぁ、これでも領内の優秀な医師達が寝ずに治療をしてくれたのだ、本来なら焼け爛れた皮膚とご対面しなければならなかったことを考えると幾分かマシなものだ。

 色々ゴタゴタはあったものの魔獣の調査結果は黒。魔術本部レーデルフィア支部、上司であるケントには自分の口から無事を伝えた。通信の最中「そうか」だけで淡々と平常勤務だった彼からは「しばらく療養していろ」と短い『メッセージ』の魔法が届いた。動けない私の代わりにレオン・カーマイシスが飛行魔獣の報告書を作成してくれた。付きっきりで私の言葉を文字に起こしてくれた彼には感謝しなければならない。巨大な飛行魔獣はシャーマイムと名付けられた。『最初の人々』の言葉で「空を漂う者」という意味である。報告を受けた中央魔術本部サルサノンからは魔術師を数名派遣すると返答があった。

 杖をついて歩けるようになったのは、それから10日後のことだった。任務を言い渡されてから既に2週間以上が経過してしまっていた。療養よりも先に仕事をしなければ。そんな発想を脳裏に過らせるくらいには、私は自分の平凡な日常を愛していたのだと思う。世話になっているのが、貴族カーマイシス家だったことも大いに関係している。とにかく、居心地は良くなかった。怪我は完治していなかったが、療養ならば四畳半の自室でも出来る。

 私はレオン・カーマイシスに出て行く旨を伝えた。レオンは首を横に振った。

「完治するまで屋敷にいるといい、専門医が君の治療をしてくれる。父上には俺から話すよ、なんならずっとここに居てくれたって構わない。君は命の恩人だ」

「命の恩人だなんて、たいそうな。私はしがない魔法使いです。あの時も自分の身を守ることで精一杯でした、私の魔法が運良く貴方達をも助けることになった…それだけです」

「だが結果として君のおかげで助かった人間が大勢いるんだ、その事実は変わらないだろう」

「…そもそも今回の調査の失敗は私の責任です、私が油断していなければ皆さんを危険に巻き込むことはなかった…。お世話になるべきどころか非難を浴びる方が正当な対応です」

「俺は…君が…」

 レオン・カーマイシスがその先の言葉を口にすることはなかった。私自身もその先の言葉を知ろうとはしなかった。先日着替え中に誤って部屋に入って来たレオン・カーマイシスは私の傷跡を直視したはずだ。彼は責任感のある人間だ。もしかしたら罪悪感が彼の口を塞いだのかもしれない。下唇を噛むような仕草を見て今度こそ私は確信した。

 それでもその日の午後、レオン・カーマイシスは口を開いた。

「…急くことはない、今日戻る必要はないだろう? リーサ。レーデルフィア領までの馬車は明日も運行している。それに騎士達が改めて礼を言いたいそうだ、頼む」

 レオン・カーマイシスが頭を下げた。驚いた。彼は中堅貴族の三男だったが、一領土を治める権力を持つ家系の人間。ハウスメイドが一緒になって頭を下げ始めたところで私も断りきれず一日ならと了承した。

 断る理由などなかったのかもしれない。それ以上に私はカーマイシス領の人間と馬が合わないと薄々感じ始めていたのかもしれない。部屋のベッドに沈み込むと『ロック・ザ・ドア』の魔法と『スリーピー』の魔法をかけて眠りについた。

 コンコンッ。ノックの音で目を覚ます。寝ぼけ眼に戸を開けるとハウスメイドが立っていた。「リーサ様、騎士様達がお集まりです。是非おもてなしを受けて下さい」魔獣から救ってくれた命の恩人としてお礼がしたいのだそうだ。私は眠気もあり、左半身の痺れで身体が思うように動かないのもあり、参加を断ろうとしたが、領主夫妻が参加すると聞き、渋々承諾した。ここで宴を断ることはカーマイシス家の顔に泥を塗ることと同意であった。気が重いが、仕方ない。七色ローブを羽織ると、私の魔力に反応して青に染まった。

 屋敷の大広間の扉を開くと、突然大きな歓声が聞こえて来た。レオン・カーマイシス、カーマイシス領主、奥方、屋敷の従者、メイド、騎士、それだけでなく見知らぬ住民、他所から来たであろうと旅人の姿もある。一体どういった了見なのかよく分からぬままカーマイシス領主から感謝の言葉を受けた。「此度は私の息子、ならびに騎士達を救ってくれた。雷の魔法を駆使する魔術師よ。そなたの勇敢さには驚いた、心より感謝致す」要するに祝辞だ。割愛するが、私の活躍を称えてカーマイシス領から勲章が与えられるとのこと。再び領主が盃を天に掲げると、それを皮切りに大広間で宴が始まった。

「雷の魔法使い!」「雷の魔術師!」そのキーワードを所々で耳にする。発信元は騎士達だ。飛行魔獣シャーマイムと対峙した時のことを誇張して「掌から光線を出した!」「空を滑空する魔獣に雷を当て、地にひれ伏させた!」などと、ありもしない誇張を大声で広め回っていた。私はロクな弁解もさせてもらえぬまま用意された席に座らされ、息をつく間も無く酒を飲まされた。今日は特別にカーマイシス領をあげての祝い事だそうだ、それも主役は私。酒は飲めぬ体質ではなかったが、嫌いだった。失礼を承知で言わせてもらうと意味も無く騒いだり、馬鹿みたいに酒を仰いだりする連中が嫌いだった。本とインクに囲まれて育って来た私にとって生産性のない行為に愉悦を感じることは理解出来ないし、楽しいかと問われれば論外と即答した。

 私は大勢の人間に祝福されたが、私自身は祝福されるべきではないと思っていた。本来、中央魔術本部の魔術師は魔獣に対してエキスパートである。騎士達を危険な目に合わせた時点で私の仕事ぶりは最低評価なのだ。それでもみんな、私の背中を叩いたり肩を揺さぶったりし感激の言葉を重ねている。大した努力もせず、任務にも失敗した私にとってそれは針のような鋭利な言葉に感じた。「雷の魔法使い」の呼び名が滑稽だった。こういう賛辞を貰うために残った訳ではない、異名などいらない、賞賛に値しない、頼みから静かにしてくれ。それを叫びたくてしょうがなかった。

 レオン・カーマイシスは私にもう一日残れと説得した。これが彼の見せたかった景色だろうか。こんなものを見せるために私を一日引き止めたのだろうか。分からない。分からなかった。賛辞が皮肉に見えてきたところで、私は、肉料理が運ばれてくる前に逃げるようにそそくさと部屋へと戻った。


 私が眠りに就くまで少しばかり酒と魔法の話をしようと思う。昔、獣人族の魔術師の中に酒豪の者がいた。彼は魔法の卓越者でありながらお酒が大好きであった。しかし酒を飲んでしまうと魔法の研究に集中出来ない。酒の入った頭ではロクに術式を組み立てられない。そこで彼は体内のアルコールを分解する『リフレッシュ』という魔法を開発した。日夜寝ずに、大好きだったお酒も絶ってその魔法の開発に専念した。この魔法が完成すれば浴びるほど酒を飲んでも、呪文一つで魔法の研究に戻れる。ある日、完成した魔法を引っさげ酒場にやってきた。彼はいつも以上に酒を飲んでみんなに自慢して回った。「ついにシラフに戻れる魔法が完成した」、「これで二日酔いの頭痛や飲み過ぎによる吐き気ともおさらばだ」。そう豪語した。その実演、彼が酔潰れる手前で客を集めて魔法を披露した。皆の視線が一挙に集まる。男張り切って呪文を唱えた。だが酒を飲み過ぎていた彼に『リフレッシュ』の魔法を制御出来るような集中力はなく、魔法は大失敗。みんなの笑い者になり、翌日はいつも通り二日酔いの頭痛に悩まされた。獣人族の間では今も「酒後のリフレッシュ」意味がない行動、という意味で教訓を訴える慣用句として語り継がれている。ちなみに『リフレッシュ』の魔法は、後に研究が進みアルコールだけではなく体内の毒素を排出する魔法になった。ただしこの魔法を他人にかけることは出来ない不便さは未だ改良されていない。毒を受けても風邪を引いても結局頼るのは薬である。「良薬口に苦し、されど魔術師にも薬」は有名な言葉。魔法は便利だが万能ではない。


 目が覚めると深夜2時を回っていた。少しも眠くはなかった。しばらくベッドの上でぼーっと時間を消費する。仕事を始めてからは規則正しい歯車のような生活を続けていた。こんな時間に起きて、こうやって何も考えずゆっくりすることも、怪我をしなければ経験しなかったことなのかもしれない。

 遮光カーテンを開くと人工恒星アガナの淡い光が差し込んできた。少し目が光に慣れたところで。お腹がすいてることに気が付く。そういえば、今日は殆ど何も口にしていない。

 食糧を求めて広間へ。あんなに騒がしかった広間は、まるであの時間だけを切り取ったかのように不気味で不思議な静寂が広がっていた。

「お目覚めになられましたか…?」気弱そうな給仕がソファから起き出した。蛇も鼠も寝静まる時間。うたた寝していたのだろう。「ふぁ」と嚙み殺し切れていない欠伸が漏れている。

「何か食べるものはありませんか? パンでも干し肉でも結構です」

「明日の朝食に出すスープならありますよ。少し早いですが、温めましょう」給仕が厨房に戻り、大鍋に火を付け始める。着火石を擦り合わせている。魔法学の発展が著しいこんなご時世に『ファイヤー』の魔法すら使わない子がいるなんて、俄かに信じ難かった。「手伝いましょうか?」

「雷の魔法使い様のお手を煩わせるなんて滅相もありません」

「…その呼び名は、少し不愉快です」咄嗟に口走ってしまった。ああ、言うべきではなかったな。

 給仕は少し驚いた表情をする。「それは、失礼致しました。度重なる失言を謝罪させて下さい」申し訳なさそうに深く頭を下げる。不愉快と口にはしたが、たかが呼び名である。私は特にそれ以上追求することはしなかった。

「野菜の塩スープです」

 しばらくして、スープが運ばれてくる。

 ニンジン、キャベツ、ジャガイモと多種な野菜が、無駄な味付けに邪魔されず一口サイズにカットしてある。野菜を煮込んだ独特の甘い香りにお腹がゴロゴロと動き出す。

 一口。「うん、おいしい…」

 薄味。塩ベース。野菜達は口にすれば噛む間も無く旨味となって喉を過ぎていく。温かい。二日酔いの女の小さな胃袋には丁度いい。

「これは…?」筍のように平べったく切り揃えられている、スプーンですくう。「ウミキノコ、貝の一種ですよ」給仕がさらりと言った。「サンゴ礁の根元にキノコみたいにくっ付いている連中です。魚なおこぼれを預かりながら生きているんです。大きくなると手のサイズくらいに。ホタテやアサリのように強い味付けにはなりませんが、海を感じる味付けとしては一味買ってくれるんですよ」

 貝類だと言われなければ筍の類にしか見えない。

「それと、ウミキノコに含まれる成分は血液に溶け込んで肝機能を保護する役割があったりするんです。皆さんの二日酔いの症状が軽減されればと思いまして」

「物知りですね」

「母がよく教えてくれました、姿形だけではなくその物の本質を知ることはとても大切だ。食材も然り」

 給仕はムラサメと名乗った。珍しい名前だ。

「出身は?」

「カミノミツカです」

 カミノミツカ。360度を海に囲まれた島国。南北に伸びた大地では、北は寒く、南は暖かい。極寒の地でも、灼熱の不毛な土地でもない。しかし、寒暖差のある気候と複雑な海溝によって多種多様な魚介類が水揚げされるという。その独特な環境を持つ島国では、独自の歴史や文化が形成されてきたそうだ。耳にすることはあるが、実際に訪れたことはない。そこには私が知らない彼ら生活風習があり、価値観や美徳、言い伝えや信仰、景色や食生活、物語が根付いている。

 世界は広い。漠然とした何かが背筋を上って脳に優しく心地よく少しばかり刺激的に作用する、興奮にも似た奇妙な感覚がした。その正体が一体何なのか、その時の私に知る由はなかった。

 スープを飲み終えると一気に睡魔が襲って来た。部屋に戻ると抵抗なく二度目の眠りに落ちた。


 翌日この町を出ようとした私の前にイルガルとアクセルが現れた。魔術師ランクの序列に興味がない私でも二人のことはよく知っている。No.84暴火のイルガル。爆発力のある彼女の魔法の特記すべき点は遠距離でも魔法を維持出来る膨大な魔力の出力にある。本来、互いに反発し合う魔粒子を魔力によって制御する際には、反発による減退や抵抗を受ける。イルガルは血筋の影響か、魔粒子接続行為の反発作用を殆ど受けていない。工夫次第ではそのような芸当が出来ない訳ではないのだが、彼女は違う。俗に言う天才なのだ。

 そして頭一つ抜けた天才がもう一人、No.30のアクセル。背中に二本の剣を背負っている。魔術師が剣を持つとは、哲学者が測り天秤を持っているのと同じくらい異質な光景だ。魔術師として一流でありながら、剣士としても一流である彼に、天才の二文字は枠が狭すぎるかもしれない。とにかく底が見えない。常に力をセーブしているように見える。

 こうして若手の実力者を魔獣相手に送り込んで来るということは、魔術本部サルサノンもようやく本腰を入れて対策に応じたと解釈すべきだろう。

 杖をつく私を見てイルガルがほくそ笑む。

「魔獣に遅れをとっているようじゃ、あたしには追い付けないわよ、リーサ」

「あなたと競争した覚えはありませんよ、イルガル」今のは口が滑った…。

「眼中にないと言いたいの?」

「いえ、魔術師ランクはただの指標に過ぎません。個人的競争の材料ではないと言いたかっただけです」

「なによそれ、負け惜しみのつもり? 正当化? 変わらないわね、リーサ」

 嫌味ったらしい傲慢な口調は貴族仕込みであるが、イルガルは魔術本部にいた頃からこのような調子であった。悪気はないのだ、と思う。

 アクセルが口を挟む。

「イルガル…、ここはカーマイシス領だ。静かにしてくれ。喧しい連中だと思われるだろ」

「…ごめん、なさい」イルガルがその一言で借りてきた猫みたいに大人しくなった。アクセルが猫みたいになったイルガルの頭を撫でる。「ん…」「いい子いい子」「もっと…」「はいはい」二人のやりとりの一部始終を無感情で見送ることに成功した。もう何ワードかやり取りしていたが文字起こしする気もないので割愛する。

「アクセルさん、魔獣シャーマイムの行動特性についてですが」私の報告を遮るように、アクセルが大きく欠伸した。「いらないよ。飛行型で雷属性の魔法を使うんだろ? その情報だけで十分だ」さらりと言ってのける。

 周りの人間が目を丸くして驚く。「すごいな、さすがNo.30の魔術師だ」「剣術の天才魔術師の名は伊達じゃないな」再三、魔獣シャーマイムの脅威を耳にしている領民にとって、アクセルの淡々とした言葉は心強く聞こえるだろう。当の本人も特にこれといって表情を変えることはしなかった。そればかりかさっさとカーマイシスの屋敷に向かって歩き出していた。この程度の反応は慣れたものなのだろう。実際に、この若き天才の戦いぶりを目にしたことがあるが、圧巻だ。剣術については詳しくないが、魔術に関しては多重詠唱と時間経過式魔術式を意図も簡単に組み立てていた。それも剣を扱いながら。まさに神が与えた才能であると言えよう。本当に底が知れない。まああまり好きな部類の人間ではない。これで魔獣シャーマイムについての心配事はなくなった。荷が降りたと簡単に責任を放棄する訳ではないが…。

 定期馬車の停泊所までは一人で歩いて行った。

 去り際、レオン・カーマイシスが見送りに来た。丁重に断った筈だが、「それでも」ということらしい。

「給仕に聞いた、君は雷の魔法使いと呼ばれることを嫌っていたのだろう。すまない事をしたと思う。君の気持ちも考えず、強引にあのような食事会を開いてしまった。謝りたい。どうか許して欲しい」頭を下げるレオン・カーマイシス。少し狼狽してしまった。仮にも領主の息子とあろう者が、魔術本部出の人間であろうが一魔術師に頭を下げるなどあってはならないことである。

「いいのですよ、私の気持ちなど。あなたは、将来カーマイシス領を治めるお方です。自身が正しいと思う選択をし、それを実行して下さい」

「いや、しかし…」

「君主とは人の上に立ち、人を導く存在です。一人の人間の気持ちより大勢の人間の幸福を考えることがあなたの役割ですよ。昨日は騎士達も楽しそうに酒を飲み交わしていました。皆幸せそうに見えました。それが間違ったことでしょうか?」

「しかしだな…」

「あなたの優しさは十分に理解しております。その優しさは受け取りました。ですから謝罪の必要はありませんよ」

「し、しかし…」

「それ以上の、しかし、は禁止です」

「…ふむ、分かったよ…、リーサ」はてさていつの間に敬称が取れたのか…。

 レオン・カーマイシスは、この上なく腑に落ちない顔をしていた。それでも理解のある人間だと思う。これ以上言っても仕方ないと諦めてくれてはいるようだ。肩を落として口を噤んでいた。それが大人の対応だ。家系的にどうだろうか、長男が領主になったとして、彼はこの領地の大臣を任されるかもしれない。きっといい官僚になる。

 馬車が来た。

 うん。まあ…、彼があまりにも残念そうな顔をしていたので、これで別れというのも心苦しいだろうと思ったのだ。いや、この先の行為は私の気まぐれであると断言しよう。「少し屈んでいただけますか?」疑問に思いながらもレオン・カーマイシスが膝を曲げる。私は懐から魔石を取り出し、それを彼に握らせた。『ディヴァイン』を唱える。


『私は吹き荒ぶ早秋の風

私は西と東を隔てる天雷

私は緑の大地穿つ槍

あなたはたゆたう白の湖

闇に染まらぬよう守ってあげて』


「『ディヴァイン』…」

 額に口付けを落とす。レオン・カーマイシスが驚いた表情をする。この、災いから身を守る『ディヴァイン』の魔法の奇妙なところは、魔法の付与者と魔法の発動者が異なるということだ。付与した、魔法の処理計算を行ったのは私だが、実際の魔法の発動者はレオン・カーマイシスになる。これは魔法の発動者が危機を感じた時にその身を守る特殊防御の無属性魔法である。簡単に言えば盾を精製したのは私だが、実際に使用するのはレオン・カーマイシスになるということである。この場合、魔法発動に必要な処理計算は既に私が完了させているため、その複雑な発動式の処理を必要としない。また、求められる魔法発動時の魔粒子結合の魔力は先程渡した魔石が代用する。決して高価な魔石ではない。海光石の魔力の保有期間は2週間程といったところ。つまり、殆どの処理を行ってしまったため、魔法発動者に必要な魔力は、魔石に関与する微量なもののみとなる。魔法の代行処理とでも言えばいいのか。ただしこの代行処理の際には、魔術付与者と発動者の互いの魔力調整が必要となる、計算式はM1=……。これは少し魔術学を専攻した者だけに詳しく話すことにする。つまり長々と何が言いたかったかというと、肌の密着が必要ということだ。つまりですね。私が彼の額に口付けしたのも魔力調整のためであり、決してそれらしい素振りを見せた訳ではなく、必要不可欠な学術的根拠に基づいた行為であり、決してそれが彼への慰めの行為となることを理解した上での行動ではなく、あくまでも魔法理論に直結した必要条件であるということでありですね。かの奴隷解放聖戦、第二次大陸大戦の際にアデルデモス福音公国の最後の砦ラストラインにて後方部隊ながら兵達に女神と讃えられたファーシブル・ボルスアロ、ボルスアロ家三女もまた戦線に赴く兵達にこの『ディヴァイン』の魔法を額に口付けをして授けたのです。額にキスとはその歴史的行為を再現したものであり、私欲は一切含まれていない。一切である。

 結果的に彼もそれ以上何か言うことはしなかった。私も彼に小さく手を振って別れを告げた。それで終わったのだ。私の日常は、また退屈な日々に逆戻りとなった。元より退屈は遠い親戚みたいな存在で、切っても切り離せぬ血縁関係のように私の周り付き纏い続けるものだったのだが。話は一旦ここで切り上げることにする。


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