2−30 キマイラ
「グルルルルルルルゥ……」
キマイラ——とマーキスに呼ばれたその化物は、低い唸り声を吐き出しながらも未だ動こうとしない。肉食動物特有の獲物に喰らい着いたら離さんと言わんばかりな鋭い眼光。ゆうに三メートルは越すであろうその巨体。どんな山岳であろうと軽快に飛び回り、どんな獲物も射程に捉えるであろうその筋肉質な脚。捕らえた獲物の動きを封じ、確実に捕食せんとする毒牙を持つ尻尾。
それはまさに、キマイラの特徴全てを捕らえた化物であった。
竜一らは動こうとしないキマイラに対し、手をこまねいていた。いや、正確には動けなかったというべきか。
野生動物特有の威圧感は、通常の人間が放つそれとはまるで次元が異なり、隙という隙が見当たらないのだ。それは一瞬の隙が自らの生命を脅かす自然の摂理なのか。はたまた、キマイラという伝説の生物が織りなす特有のスキルなのか。
竜一の額に汗が流れる。鉄屑を握る手は汗でぐっしょり濡れていた。竜一は隣にいる千歳沙月や木戸亮がどのような状態なのか確認をしたいところであるが、キマイラから一瞬足りとも目が離せない。
もし仮に目を離したならば、その瞬間首元に噛み付かれ、尻尾の蛇に巻かれ毒牙の餌食になるであろう。そんな光景が脳裏に浮かぶ。
「おやおや、どうしたのですか? 皆さん」
マーキスが薄ら笑いを浮かべている。
「先ほどまでの威勢は一体どこへ行ってしまったのでしょう。まさか、この私に喧嘩を売っておいて今更怖くなってしまったのでしょうか」
マーキスの声音に先ほどまでの怒気はもうない。むしろ、ようやく楽しくなってきたと言わんばかりに声を弾ませている。
「まぁ、それも致し方のないことでしょう。このキマイラは私の生体魔術実験が生み出した最高傑作。先ほどまでのホムンクルスなんかと比べ物にならない代物ですからねぇ」
得意げに語るマーキスは自分の言葉に酔っているのか、まるでおしゃべりが止まらないといった様子でいた。
殺気は今だ放っているが、やはり動こうとしないキマイラは恐らくマーキスの指示待ちなのであろう。先ほどからの流れからそう推測した木戸は、竜一と千歳にしか聞こえない声で……。
「チャンスがあるとしたら、それは今だけだろう。あの化物がどういった戦闘能力を有しているかは不明だが、一筋縄でいかないことことはわかる。しかしまぁ、キマイラはマーキスの指示がないと動けないらしい。だからこそ、ここで奇襲をかけたいと思うんだが、二人はそれで……会長?」
「あっそーれ!」
パァン——と甲高い銃声音と共に掛け声を発した千歳の手には、拳銃が握られていた。
「……んー、やっぱこれくらいじゃあダメかぁ」
「ダメかぁ……じゃないでしょ会長! ほら今のであの化物が」
「グルルルルルァ!」
千歳の拳銃から放たれた弾丸は、見事にキマイラの額へと吸い込まれていった。しかし、その化物と呼ぶに相応しい防御力はやはりというべきか。分厚い毛皮が凄まじい強度を有しているのか、命中した弾丸はポスンという音をたてただけで、キマイラには傷一つ負わすことができず……。
千歳の行動を敵性確認と取ったのか、キマイラは体勢を低く構え、本格的に戦闘態勢となった。
「ふぅ。ビックリしましたが、それくらいではキマイラさんのこの美しい毛並みは貫けませんよ」
マーキスは隣で今も戦闘態勢を取っているキマイラを見やると。
「さて、ではキマイラさん。奴らを捕食しなさい」
「グルルルルルァ!」
そうマーキスが言を発し、キマイラはついにその巨体を跳ねるように突き動かす。
「ほらキタァァーー! いつもいつもなんで会長は先に行動しちゃうんですか!」
「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか木戸くん! ほら、援護援護!」
「わかってますよ! 行くぞ灰村くん!」
「りょ、了解っす!」
竜一らも戦闘態勢を取ったもその瞬間、キマイラのその筋骨隆々の脚は地面を抉ると加速度的に迫ってきた。まるでそれが一個の巨大な弾丸のような突進に、竜一は対処が遅れ。
「えっ、ヤバ……!?」
竜一は体を貫かれると思った矢先、ガキンッ! という音と共に、目の前には鉄の壁がそそり立つ。
「気をぬくな! 援護はこちらでするから、キミは会長とともに奴へ攻撃を!」
「は、はい!」
弾丸のようなスピードで鉄の壁へ頭から激突したキマイラは、それでもあまりダメージは感じられず、バックステップで距離を取り直すと、低い唸り声を上げている。
「へいワンちゃん! こっちこっち!」
距離を取り直したキマイラの右手側から軽快な銃声音が連続でなると、同時にキマイラの右脇腹へと何かが当たる。
「グルルルルル……ガウッ!」
「ん〜、これもダメかぁ」
十メートルほど離れた場所にいた千歳へ、キマイラが猛然と襲いかかる。
強靭な足の先にある岩をも砕きそうなほど凶悪な爪を、千歳へ薙ぎ払うかごとく振り抜くが。軽快な身のこなしでその爪を屈んで交わすと、右手に持っていたアサルトライフルをキマイラへの顎に向けて下から大量に連射する。
「グルル……ガァ!」
至近距離での連射はさすがに堪えたのか、キマイラは少し苦しそうな唸り声をあげながら、勢いよく回転し尻尾にある蛇を千歳に向ける。
「会長下がって! 『生命の輝き』!」
加速した竜一は瞬時に千歳の目の前に立つと、襲いかかろうと口を開け迫っている蛇へ鉄屑を振るう。
全力で振り抜いた剣筋は、ガチリと蛇に咥えられてしまい。
「あっ、ちょまっ!」
「え、竜一く……きゃあ!」
そのまま振り払われた竜一は千歳を巻き込み木戸の隣まで吹き飛ばされる。
「イテテ……大丈夫ですか、会長——」
千歳とともに吹き飛ばされた竜一は、むくりと起き上がるとその右手には何やら柔らかい感触があり。
「もう……竜一くんてば大胆なんだから」
「ははは灰村ぁ! 貴様ぁ!」
千歳沙月の程よく育ったその胸に手を置いていた。
「すすすすみませんッ!」
竜一は勢いよく立ち上がり謝ると、千歳は気にするなと言わんばかりに微笑み。
「気にしない気にしない。それより、私のために受け身とってくれてありがとね」
倒れている千歳から手を伸ばされた竜一は、その手を掴みゆっくり千歳を起き上がらせる。
「灰村……貴様あとで覚えていろよ」
「そんな濡れ衣なのに……」
隣で木戸が般若の形相で竜一を睨んでいた。
一方、すでにそのことは全く頭にないのか、千歳はキマイラを睨み直すと、相棒である木戸へ語りかける。
「……木戸くん、あのワンちゃんの毛皮、私の持ってる武器で何が通じるかな」
「灰村め羨ましいまだ俺も触ったことないのになんでちくしょう」
「……木戸くん?」
「……はっ! すみません。えぇ、アサルトライフルとかでも続ければダメージを与えることはできると思いますが、時間はかかりそうですね。なので、一発の破壊力がある……」
「アンチマテリアルライフル!」
「はい、それでいきましょう」
ふと、千歳と木戸が何かしらの攻略法を思いついたのか、再びキマイラを睨んでいる竜一に千歳が言う。
「竜一くん、これから私はあのワンちゃんを倒すためにちょっと準備が必要だから、木戸くんと一緒に時間を稼いでて!」
「えっ、時間をって、どうやって」
「じゃあ任せた!」
千歳が言うとそのまま後方へ走り出し、暗闇の森へとその姿を消してしまった。
「おやおや、鬼姫とも呼ばれた千歳沙月は逃亡ですか」
キマイラの後方で高みの見物を決めていたマーキスは、クスクスと笑いながら余裕の表情を浮かべている。
『逃げた』そう表現したマーキスに、唯一現状を理解している木戸は広角を釣り上げながら不敵な笑みを浮かべ。
「言ってろ、このエセ貴族」
千歳が言っていた煽り文句を拝借した。
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