ウルグアイの父
「流し足りないところはございませんか?」
たいてい、ハイ、とか、別にないとか、あるいは髪洗いの新人ごときに答える義務があるものかと無視されたりする。なので、今回も返答があると思わず、マニュアル通りに聞いたのだったが、この客は、うーんと唸ってからこう言った。
「おれの頭を地球儀だと思ってくれ。つむじを北極としよう。鼻が日本な。その場合のウルグアイ辺りを、もうちょっと流してもらいたい。」
俺はぎょっとしたことを相手に悟られないように、客の左耳下辺りを流しながら、
「こちらでよろしいでしょうか?」
と恐る恐る聞いてみると、んんまあ、とどうやらそれでよさそうだった。シートを起こし、タオルドライしていると、その客は、
「お兄さん、ウルグアイの場所、よく分かったね」と言った。
「…小さい頃、地球儀眺めるのが好きだったんですよ。」
「へえそれで」
「…うち、母子家庭だったんすけど、よく母親が、お前の父親は南米にいるって、ホントかウソかはよくわかんないんですけど。しかもウルグアイとか言ってたんで」
「お兄さん、純日本人って感じだけど」
「あ、いや、まあ親父は日本人だと思うんですけど、仕事だか何だかで」
「はあはあなるほど」
その客をカット台に案内して、話はそれで終わった。つもりだったのが、その客が帰る時だった。いつもはカットした美容師が会計も見送りもするのだったが、その日は混み合っていて、ほとんど見習いに過ぎない俺が、その客の会計をした。
「俺、あんたの父親かもしんない。」
「ははは…いや、パラグアイだったかもです。」
「…」
客は帰った。
「靖くん。あのお客さんと知り合いなの?」
やっと手が離れた店長がフォローしようとやってきた。
「親戚かなのかなって。なんか感じが似てたし」
俺はレジの前で立ち尽くしていた。ウルグアイに日本人なんてたくさんいるんだろう。いい加減な母ちゃんのことだから、ホントにホントはパラグアイだったかもしれない。あの人が俺の父親なわけ…。しかし、だったらどうだというのだ。たとえば、母ちゃんから聞いて、美容師見習いしている息子の様子でも見てこようかと思ったのかもしれない。少しは自分のことを覚えているかもと、鎌をかけられたのかもしれない。その程度のこと、今の俺になんの関係があるというのだ。手の中に、パラグアイの湿った感覚だけが残っていた。