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水流の海  作者: 氷室冬彦
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5 大海のエレジー

司令室にはいつも通りの礼の姿があった。部屋の奥のデスクで突っ伏したまま居眠りをする上司の頭を書類の束で叩く。数秒後に礼はゆっくり頭をあげ、郁夜を見るとわあ、と掠れた声をあげた。


「郁、今何時?」


「午後一時二十……四分だ」


郁夜が腕時計を確認しながら答えると、礼は伸びをしながらうん、と言った。


「一罪たちはもう向こうに着いたころだね」


ソファで座っていた少女が答える。独特な色合いの長い青髪をうなじの上でひとつにくくっている。紫の大きな瞳は凛としており、小柄で優しそうな外観からは明確な強さがにじみ出ていた。少年のような風貌の少女――ロワリア国の化身、ロア・ヴェスヘリーは礼と瓜二つの顔を郁夜に向けた。


「……礼、本当に一罪を行かせてよかったのか。いくら誰瓜と一緒とはいえ、やっぱりまだ、やめておいたほうがよかったんじゃ……」


郁夜は問う。一罪の過去と現在の様子を知っている者として、彼が故郷に戻るというのは少し心配だった。いや、彼に限らず、ギルド員たちがここに来て以来初めて自分の生まれ育った地に出向くことを知ると、郁夜は彼らが心配で仕事も手につかなくなるのだが。礼は頬杖をつく。


「うん、俺も少し早いかなって思ったさ。でも多分、あいつには時間なんて関係ないんだよ。俺たちみたいに時間が経って、当時の感情がある程度薄れてから過去と向き合う――なんていうのは、あいつの場合はできないだろ」


「それは――そうかもしれないが」


「それにさ、依頼はいろんなところから来てるし、五軍と四軍のギルド員が一緒に任務に出ることも、別に珍しいことじゃない。遅かれ早かれ、皆いつかは故郷に足を踏み入れる日が来るんだよ」


それが今である必要はなかったかもしれないけどね、礼は言う。ロアが机の上に置かれていた本を整えながらそれもそうだと笑った。


「郁の気持ちもわからないでもないけど――あの子の場合は過去を忘れることなんてできないよ。右手のハンデは常に彼に付きまとっているんだ。時間は何も解決してくれない」


「まあ、デリケートな問題だからさ。俺も今回の判断が絶対に正しいかどうか聞かれると……正直、自信はないよ」


「へえ、それは珍しいこともあるもんだ」


「俺だって人の子だぜ? いつだって自信満々ってわけじゃないよ」


「お前に自信がないなんて言われたら、こっちまで不安になってくる。そこは嘘でも良いから大丈夫って言えよな」


最も、郁夜は長年の付き合いから礼の嘘が見抜けてしまうので、虚勢を張られたところで無意味でしかないのだが。


「意味がないだろ」


礼は郁夜の心情を悟ったようにそう呟いた。



*



何処か適当な場所で一服して来ようと思い外に出た。リアと二人で部屋に残っていても何も話すことがないし、かといって一人でじっとしていても時間を潰せるわけでもない。そこらで一服でもすれば少しは気持ちも暇も紛れるだろうし、外に出れば一人になれてちょうどいい。宿を出てすぐの広場では他の連中にすぐに見つかる可能性が高いため、できるだけ人通りの少ない場所で休もうと思った。幸い、町の様子は一罪が住んでいた当時からほとんど変わっておらず、あれから数年経った今でも記憶が町の構造を漠然とだが覚えており、道に迷う心配などはなかった。


何処へ向かうかもはっきりしないまま、気の赴くまま、足の向かうがままに水の国を歩く。血管のように張り巡らされた水路を幾度と越え何十人もの人々とすれ違い、無意識のうちに辿り着いたのは幼いころによく通っていた、海岸沿いにある崖の上だった。


坂道のように連なっているでこぼこの岩場を進んで行くと、急に足場が途絶えており、そこから先の海を一望できる。太陽に照らされ、波に揺れる水面が宝石のような輝きを放ち、眩しい反射光が目に刺さる。自分の根本的な部分があのころから何も変わっていないことに半ば呆れを感じながら、ごつごつした硬い地面に胡坐をかいて座った。風が強く、ライターの火が吹き消されそうになるのを右手を立てて庇いながら煙草の先に火を点ける。細い煙の筋が風に乗って水平線に吸い込まれていった。


セリナに住んでいた当時はここがとても気に入っていた。風の強い崖の上だから、危ないと言って誰も近づこうとはしなかったし、ここから見える風景も、カメラを持っていれば思わず収めたくなるほどの、なかなかの絶景である。ここには波の揺れ動く静かな音と、通りすぎていく風に乗せられた潮風の匂いが仄かに香るだけの静かな場所だ。あの頃とまったく変わらない景色が、匂いが、音が、一罪を包む。


だが、昔のようにここにいたところで、いい気分になることは決してない。思い出は美化されるというが、もはやここには美化できるような思い出もないのだ。むしろ、何も変わっていないせいで、過去の余計なことまで思い出してしまう。


一罪には一人、妹がいた。


六つ歳の離れた実の妹だ。どちらかというと内気な娘で、いつも兄である一罪の後ろをついてきたものだ。子供の相手をするのが苦手な一罪でも、妹に慕われて悪い気はしなかった。


しかしある嵐の日、妹――水流和菜すいりゅうかずなはこの世を去った。その日、一罪はその前日から誰瓜の家にいたのだが、行き先を告げずに出掛けていたので、荒れる天気と外出した兄が心配になった彼女が、心当たりのある場所から捜そうとしてここに来たのだ。


和菜と家にいた父親――母親は和菜が生まれてすぐに他界した――は和菜がいなくなっていることに気付くとすぐに一罪に連絡を寄越した。元々水気の多いこの国は嵐が来るといつも地面が洪水状態になるので、子どもでなくても出歩くのは危険なのである。一罪がここへ辿り着いたとき、彼女は暴風に足をとられ、咄嗟にその手を掴んだ一罪と一緒に荒れる海へと吸い込まれていった。一罪の右手が不随になったのもこのときだ。


一罪は今でこそ無趣味な男となってしまったが、かつては絵を描くことが好きだった。これがなかなかの腕前で、父親も近所に住まう人間も友人も、一罪の意外な才能に皆目を丸くした。目つきが悪く態度も口調も反抗的で、いかにも喧嘩ばかりしていそうな外見であるから余計に、荒れた性格の一罪が絵筆を手にキャンバスに向かい、繊細な色使いで外の風景や花を描くことが意外に感じられたのだ。周囲がいくら柄じゃないとか暗い趣味だと言ってきても、一罪は毎日何かを描いた。


自らの琴線に触れたものをそのままスケッチブックなどに描き写す。そうやって何かを絵と言う形に残すと満足感が得られたし、描くこと自体が一罪には楽しかった。別に画家になるのが夢だとか、そんな大それたことを目指すつもりはなく、ただ同じことを繰り返す日々の空いた時間に、そっといろどりを添えるような、そんな生活が贈れるならそれで十分だった。


そんな生活を十年以上も続けてきて突然絵が描けなくなった。だが当然、ハイ分かりましたと割り切れるはずもない。現在でも時や場所を選ばず、一罪の芸術家としての感性が、本能が、一罪の潜在能力に色を操れと怒鳴りつけてくることがある。今見ているこの景色を紙に描き写せと心臓が暴れる。無性にペンを持ちたくなる。しかし、己の利き手がもう以前のように動かないことを忘れてはならないのだ。忘れても、動かないのが現実なのだ。今の一罪には鉛筆を握ることすら出来ない。いくら絵を描きたいと願っても、何も描くことができないのだ。以前は描けたものが描けない。これほど腹立たしいことはなかった。


父親は和菜の事件のすぐ後に事故で亡くなり、一罪はものの見事に取り残されてしまった。父親、母親、妹、利き手……大事な物は全て、一罪の意思に反して奪われていくのだ。


そして――千野原涼嵐と出会い、來坂礼に誘われてギルドへ来た。さざなみの音が自分を嘲笑っているかのように思えて、とてもではないがここで生活していくことなどできそうになかったのだ。


その場で背後を振り返り、高台から街の様子を見た。街では人々が皆幸福そうな顔をしており、のんびりとした空気にどこからともなく水の流れる音が聞こえる。一罪はこの国のゆったりとした雰囲気が嫌いなのだが、昔からそうだということはなかった。皆が皆楽しそうに生きていて、たしかに柄の悪い連中もいないわけではないのだが、それでも平和に、のんびりと自由気ままに暮らせていたこの国は、それなりに良い国なのだという意識もあった。


嫌いになったのは、自分が不幸になったからだ。皆が幸せな顔をしているから、余計に自らの不幸せが浮き彫りになって目立つ気がして――とにかくこの国にいたくなかった。ここはのんびりできて、平和で、人々が幸福な国だ。だがそれ故に、不幸な者が暮らせない。幸福な群衆のなかでただ一人、自分だけが不幸であるという疎外感と孤独感に苛まれ、自分が不幸であればあるほど、周囲の幸福が刃となって切りつけてくる。


だからこの国に戻りたくなかった。昔のことを思い出してもいいことなどひとつもないし、気持ちが沈むと街の空気が毒となる。一罪の後を追うようにギルドへやってきた誰瓜にとってもそれは同じのはずだ。彼女もまた、この国で家族を失ったのだから。


思わず溜息が出た。首筋をぼりぼりと掻きむしり、灰を落とそうと煙草を手に取ったとき、急に空気が冷えた。風の渦巻く音と波の音に混じって、人の声が話しかけてきた。


「ご機嫌斜めだねえ、カルシウム不足なんじゃないかい?」


ぎくりと心臓が跳ね上がると同時に、しまった、と思った。声のしたほうを見ると、雪白鬼礼がいつものにやけ顔でこちらを見ていた。背後には怯えたような顔の声音がいる。一罪が今、最も会いたくないペアだ。


「て、てめえ、なんでここにいやがる」


「いちいち説明しなきゃいけないのかい? 街に出たら妙に声をかけられるから、面倒になって下の浜辺に来たのさ。そうしたら君が見えたから、後はまあ、なんとなくだね」


鬼礼の顔を見る。たしかに声もかけられるだろう。人を外見で判断するなとか、大事なのは中身だとか何とか言っても、結局、顔のつくりが良い者が人気なのだ。


「君のほうこそ、どうしてこんなところにいるんだい? ええと……そう、何だっけ、君」


水流一罪(すいりゅうかずさ)だ。初対面で覚えろボケが。今回がハジメマシテってわけでもねえだろが」


「ああ、そうそう、水に流された人だ」


「もっと他に覚え方ってモンがあるだろ。喧嘩売ってんのか、あ?」


「ごめんごめん。正直どうでもいいことだったから、よく覚えてなかったんだよね。気を悪くしたなら謝るよ」


全く謝る気がない。一罪は頭を掻いて大きく舌打ちをした。


「もういい、お前と話すと無駄に疲れる」


「じゃあ今夜はぐっすり眠れそうだね」


「ぶん殴るぞ、てめえ」


それまで手に持っていた煙草を再び口にくわえようとしたとき、いつの間にか先端が凍りついていることに気付いた。鬼礼の仕業だ。また舌打ちする。


「俺は宿に戻る。てめえはそこから身投げでもしてろ」


二人を睨みつけ、さっさと岩場を降りていく。一刻も早くこの場を離れたかった。頭の奥で、刹那声音の顔と溺死した妹の顔がちらつき、重なっては曖昧に離れていく。


やはり、似ているのだ。


刹那声音は一罪の平常心を乱し、混乱させるほどに、水流和菜とよく似た容姿をしている。 だから一罪にとって、鬼礼と声音の二人組はその存在が既に毒なのである。


崖の上、四方から吹きすさぶ風の鳴き声と海の笑い声のなか、鬼礼はふふ、と静かに笑みをこぼした。


「……君じゃあるまいし」

次回は九月十四日に更新する予定です。

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