3 快晴の下に水国へ発つ
その日の朝は清々しいまでの快晴で、まさにお出かけ日和――と言ったところだろうか。一之瀬誰瓜は窓から吹き込む風に長い白髪を揺らしながら徐々に賑わい始めた廊下を歩いていく。
やや速足に進んでいた誰瓜は一つの扉の前でようやく足を止めた。扉のプレートには「水流一罪」と書かれており、軽くノックをしてからドアノブに手をかける。勢いよく開かれた扉の先には漫画本や文房具があちこちに散らばっているだけの殺風景な部屋があり、誰瓜はその一角を陣取る寝具に眠る男を見た。ベッドの脇には小さな棚があり、そこに彼の右手が置かれていた。以前、彼が朝寝坊しないようにと誰瓜が贈った目覚まし時計は棚の傍に転がっている。アラームを止めた際に落下したのだろう。
部屋に足を踏み込んでいく。微かに漂う煙草のニオイと、部屋の中央に置かれてあるテーブルの上の灰皿に溜まった吸殻に僅かに顔をしかめ、近くに置きっぱなしにされていたポリ袋に流し込むと袋の口をくくって灰皿の横に置く。ベッドで丸まって眠る一罪から掛け布団を引き剥がし、締め切ったままのカーテンを全開にする。外から差し込む朝日の眩しさに一罪はうめき声をもらし、しばらく芋虫のようにモゾモゾと蠢いていたが、やがて目を覚ましたらしく起き上がった。所々に赤い部分の混じった金髪は女のように長い。
寝起きでまだ脳が正常に機能していないらしい一罪が、ああとかううとか言葉にならない声で何かを言う。誰瓜は床に落ちたままのデジタル時計を拾い上げ、まだ半分寝惚けている長髪の男の前に突き出した。
「一罪、寝坊!」
ああ? と目元を擦りながら一罪が言う。誰瓜から時計を受け取り、それを膝の上に置くと頭を掻きながら今何時だ、と掠れた声で尋ねた。半分どころか完全に寝惚けているらしい。
「七時四十五分。ほら、早く起きて準備して」
列車の出発時間まであと十五分。準備と移動時間を考えるとかなりギリギリだ。一罪以外のメンバーは既に玄関ロビーに集まっていて、嫌な予感を感じた誰瓜が迎えに来てみればこの有り様だ。彼は昔から大事な日に限って寝坊をする。その度に幼馴染である誰瓜がこうして起こしに来ては気を付けるように言って聞かせるのだが、一向に改善される気配がない。
ようやく目を覚ましたらしい一罪が誰瓜に聞き取れないほどの小声でぶつぶつと文句――不機嫌な顔をしていたのでおそらく――を言いながら洗面所に入っていき、間もなく身支度を済ませて戻ってきた。着替えて顔を洗い、長い髪を結っただけだが、彼の出かける支度はいつもこれだけで終わる。自分の準備が早いのを自覚しているから、予定があっても時間ギリギリまで寝ていられるのだろう。ある程度の時間になれば誰瓜が起こしに来るとわかっている――というのもあるかもしれない。
玄関ロビーに着くと、まずリアとカナが誰瓜たちに手を振った。そしてその隣にいた黒髪に赤い目の少女、氷河樹誓南が遅いわよ、と文句を言う。一罪を迎えに行く前には六人全員がここに揃っていたのだが、今この場にいるのはその三人だけのようだった。今回のメンバーは戦闘力こそ申し分ないが、チームワークや予定通りの集団行動などはいまいち期待できそうにない。
「あとの三人はどうした」
一罪が問いかけると、カナが正面玄関のほうを指差して答える。
「先に出て行ったぞ。もうすぐ列車が来るから、オレたちも早く行こうぜ」
五人はギルドを出、列車に乗るべく駅へ向かった。正門を出てそのまま大通りを北へまっすぐ歩けばすぐに着く距離だ。列車は既に到着しており、出発時間を調整するために待機してるようだった。
列車の座席のタイプは全部で三種類あり、窓際に沿って長い座席と、天井からつり革を吊らした、ほとんどの列車でよく利用されている一般的なものと、二人掛けの座席を向い合せに並べ、四人用の空間を作ったボックス席がいくつも並んだタイプ、そしてこの列車にはないが、六人程度が入れる小部屋が並ぶ個室タイプがある。
列車の両によってタイプが異なっており、多くは、一両目が一般タイプ、二両目がボックス席タイプ、三両目が個室タイプとなっている。地域によっては一般タイプの座席しかないところや、ここのように個室タイプがない列車もある。
一両目から車内に乗り込み二両目へと移ったときに、車内の室温が急激に下がった。その瞬間に彼らがここにいることを悟り、直後、その姿を発見した。
朝日を浴びて繊細な輝きを放つ、やや水色がかった銀髪。宝石のように鮮やかで美しい青色の瞳を長い睫が覆っている。白いシャツに赤いネクタイを締め、そのうえから黒のベストを着用している。朝日を受けた肌は蝋のように白い。車両の真ん中あたり、窓際席に腰掛け、何事にも興味がなさそうな目で外を眺める美男子がいた。ざっと見渡しただけですぐにわかり、彼の優れた容姿は常人の目を引くほどの存在感があった。
蒼白色の美男子――雪白鬼礼は、追いついてきた誰瓜たちに一瞥をくれると、しかし何事もなかったかのように再び窓の外へと視線を投げかけた。
鬼礼の隣には長い緑髪と何処か哀愁のこもった青い目の少女が俯きがちに座っており、近付くとその向かいにも小柄な少女が少女がいるのがわかった。暗い色の赤髪はあちこちはねながら背中のあたりまで伸びている。顔色は悪く額のあたりから血が一筋垂れてきているが、それが彼女の常態だ。赤黒く濁った目は正面に座る緑髪の少女――刹那声音をじっと見つめている。口兄ルイはいつも通りの不気味さを身に纏わせたまま、合流した誰瓜たちを見上げた。
車内の温度は二両目の中央あたりを中心に――正確には雪白鬼礼を中心に――下がっている。これは鬼礼の持つ雪・氷系の能力の影響であるらしく、彼の周囲の空気は常に冬のように冷えている。長い間近くにいると寒くてたまらなくなるほどだ。いつも鬼礼の傍にいる声音は、毎日凍えるような寒さに見舞われているに違いない。
列車内にもうじき出発する旨を伝えるアナウンスが流れ、誰瓜たちは席に着く。ルイの隣にリアが座り、あとの四人は隣のボックス席に入る。通路を挟んでいるが、実質的にはリアの隣となる席にカナが、その隣に誓南が座り、この二人の正面が一罪と誰瓜の席となった。
ロワリア国からセリナ国へ向かうためには、まずロワリアから列車で隣国であるレスぺルの東部にまで行き、そこから転移装置――俗に言うワープ装置のようなもの――を利用し西大陸のセレイア大国へ移る。そして再び列車に乗り込むのだ。海と国境を越えた大移動なのだが、転移装置のおかげでそれほど時間はかからない。遅くても昼過ぎにはセリナに到着していることだろう。
全員が席について間もなく、列車は動き出した。
ロワリアを出発して間もなく、一同の乗った列車はレスペル国の国境を越える。西部の停留所で二度ほど停まり、乗り込んでから四番目の停留所で一行は列車を降りた。駅を出てすぐに目につく大きな建物に向かい、その施設から転移装置を使って西大陸へ転移する。
鬼礼が移動に飽きて途中で何処かへ行ってしまうのではないかと心配していたが、今のところは大人しく誰瓜たちについてきていた。前回、誰瓜が彼と任務に出かけたときは、列車が走っている最中に少し寄り道をしていくから先に行ってくれと言うと彼は窓から外へ飛び出していったのだ。幸い任務を終えた後のギルドへの帰り道での出来事だったので、その後の仕事に影響はなかったが、とにかく彼は常に自分のやりたいようにしている。そして、彼の暴走を止められる人間はおそらくギルドにはいない。あの來坂礼にすら、好奇心に火を点がついた状態の彼を説得するのは難しいだろう。
セレイアからセリナへ向かう列車の四両目――この列車の二両目は売店や飲食の場になっているので座席タイプと車両の関係にズレが出る――に乗り込んだ。適当な個室を選び、ひとまず全員中へ入り込む。列車の個室は三人掛けの座席を向い合せにしており、二両目が混み合っていたとはいえ、八人での利用は少しばかり窮屈だ。しかしもう一つ部屋を使うには少ない人数である。
席を決める前に、南大陸のときと同じように鬼礼が窓際の席を陣取った。列車が走るうちに彼の興味の対象が窓の外をよぎらないとも限らないので、できることなら彼は窓際から遠ざけたかったのだが、どうせ言っても聞かないだろうし、無理に窓から遠ざけて機嫌を悪くさせてはかえってよくないことが起きそうだ。刹那声音は鬼礼と誰瓜たちを交互に見ては困った顔をしていた。自分がどうするべきなのかわからないのだろう。鬼礼は声音を横目でちらりと見やると手招きをし、指示通り傍に来た彼女を抱き上げると自身の膝の上に乗せた。自分勝手ではあるが、広さに余裕がないことは把握しているらしい。どうやら彼には誰瓜が思っていたよりはまだ協調性があるようだ。
あと一人分の定員オーバーは誰瓜が鬼礼と同じようにルイを自分の膝の上に乗せることによって解決した。ただ、彼女は容姿こそ声音と同じくらいに幼いが、実年齢は誰瓜たちとひとつしか違わない。噂に聞いた話によると、能力の副作用か何かで体の成長が八歳かそこらで止まってしまっていて、彼女が常に体の何処かから血を流しているのも副作用によるものらしい。それはともかく、ひとつしか歳の変わらない相手を抱きかかえているのだと考えるとなんとなく奇妙に感じられた。
結局、鬼礼の隣にリアとカナが座り、向かい合った席の窓際から一罪、ルイと誰瓜、誓南の順に座った。だが、席順を決めても皆がおとなしく席についていたのは初めのうちだけで、列車が出発して十分経たないうちに、まずカナが立ち上がった。小腹がすいたから車内販売を見てくると言って外に出て行く。すると、次に誓南が外の風を浴びたいからと言い訳するように言いながら逃げるように外へ出て行った。彼女は寒がりなので、最も鬼礼から離れた席に座っていたが、それでも彼がいる個室の室温に耐えられなかったのだろう。外に出られるほうとは逆の方向へ歩いて行ったので、おそらく温かい物を求めて車内販売を見に行ったはずだ。
誓南が出て行って間もなく、次は鬼礼が暇だから散歩をしてくると言って個室を出て行った。少ししてカナが購入したパンを手に戻ってくると、一罪が煙草を吸ってくると席を立った。そのうち窓を開けて煙草を吸い出すと思ったから窓際席に座らせていたのだが、今日は違うらしい。わざわざ外に出てまで吸うくらいなら禁煙してくれたほうが嬉しいのだがそのつもりはないようだ。
隣に人がいなくなったので、ルイを一旦膝から下ろすと彼女もまた、何処かへ行ってしまった。カナが誓南がホットコーヒーを買っていたことと、車内販売に甘いお菓子が多く並んでいたことを話した直後だったので、それを見に行ったのかもしれない。
カナは買ってきた三つのパンをセリナに着くまでに全て食べきろうかとリアと話していたので、あまり食べすぎると太ると横から忠告すると、渋い顔をして今日と明日に分けて食べると結論を出した。カナはまだ十三歳だ。四軍所属のギルド員で動き回る仕事も多いから、多少たくさん食べたとしても何も問題はないし、むしろ人より多く食べて力をつけるべきだろう。だが、たくさん食べるにしてもきちんと栄養バランスを考えなければ健全で健康な体に育たない。筋肉や上背をさらに伸ばして鍛えていきたいのならなおさらだ。
元々顔立ちが少年っぽく、声も低めなのでよく男と間違えられるが、カナはれっきとした女子である。当の本人が男のように振る舞っているからなおさら間違われる。本人いわく、もともと自分はガサツで、しおらしい性格でもないのだし、外では男と思われていたほうがなにかと有利に事が運ぶからそうしているらしい。男の子にしては少々かわいらしい容姿のリアが一緒にいるのも、カナを少年のように見せている要因のひとつかもしれない。とはいえ二人とも、じきに体格や顔つきに男女の差が現れる年ごろだ。リアはまだいいだろう。本人もいい加減、女の子みたいでかわいらしいと言われることに内心では辟易しているようだから、嫌な思いをする機会が年々減っていくだけだ。
だが男に見られることで得られる恩恵を享受し、そこに有益さを見出しているカナにとっては、これから自分に訪れるであろう変化への不安は大きいだろう。もちろん、うんと背が伸びたり、キリッとした顔つきに磨きがかかったりして、五年後や十年後も男装の麗人を続けているかもしれない。だがもしそうならなかった場合、彼女は自分の強みとして捉えている武器をひとつ手放すことになるのだ。これからのことについて聞いてみたことはあるが、もともと振る舞いを男に寄せているつもりはなく、素で振る舞っていてこうなのだから、男と間違われることがなくなろうと自分の生活態度はなにも変わらないと言っていた。だがカナ自身が変わらなくとも、周囲の目は変わっていくのだ。
誰瓜はときどき、カナが将来自分の在り方について望まない苦労や葛藤を強いられたり、なにか無理をするようなことにならないか、少し心配になってしまうのだ。
*
列車の最後尾となっている扉を開けると外に出ることができた。大人二人が並んで立てるかどうかというくらいのスペースに、錆びた鉄の手すりが頼りなく落下の危険性を忠告している。床下から前方にするすると伸びていく線路と、遠くへ流れていく風景はじっと眺めていると、そのうち酔ってしまいそうだった。
一罪は通路と車外とを隔てる扉に背を凭せ掛け、胸ポケットから煙草を取り出し口にくわえた。右手で盾をつくり、左手に持った安物のライターで先端に火を点けると、煙の筋が風に乗って前へ伸びて行く。まだ寝足りない一罪の体は重く、鈍い重みは例の如く苛立ちへと変わり始める。精神を安定させるために煙を深く吸い込んだ。体内に入り込んだ害悪な大気が肺に染みついていく。己の寿命が少しずつ削られていく感覚を味わいながら、吐き出された煙が風に引っ張られていくのをぼんやり見つめた。
列車のエンジン音に混じってカン、カン、と硬い音が聞こえた。足音のようだ。列車内から聞こえるものにしては純粋な、まるで鉄の板の上でも歩いているような軽い足音。一罪がドアから背を離し、列車の上を見上げると、ちょうどその顔に影が差した。同時に何処からか冷気が流れてくる。列車の上を悠々と歩いていた雪白鬼礼は一罪に気付くと、声音を連れてその隣へと降り立った。何の用もなしに列車の上を歩くなど、一罪には到底考え付かないことであるが、鬼礼本人からすればそれもただの散歩なのだろう。
長く雨風に晒され、すっかり塗装の剥げた手すりに背中を預け、鬼礼は微笑交じりに、やあ、と軽く挨拶した。もし万が一にもその柵が壊れたらどうしていたのか。彼のことだから少しも慌てることなく能力を行使してその場を乗り切るのだろうとは思うが。
「冴えない顔をしているね? 列車酔いかい」
「うるせえ、元々こんな顔だボケが」
もちろん彼は一罪の顔色について言及したのであろうが、相手が類稀ないほどの美少年であるから、顔がどうこうと言う言葉は短気な一罪を刺激した。別に彼を僻んでいるわけではなかったが、この男の無意味なにやけ顔と、その陰に隠れながら一罪の様子を伺う刹那声音の存在も、一罪の苛立ちを増幅させる要因のひとつとなっていた。
「苛々してるねえ、体に悪いよ」
君が怒っているのはいつものことか――鬼礼がからかうように言う。この手の相手には一罪がいくら敵意や殺意を込めて睥睨しようとまったく効果がないのだ。彼の常識外れなまでの自由奔放さは甘夏柑奈や來坂礼よりも性質が悪く、まだきちんと言葉が通じて会話が成立する分、彼らのほうが扱いに難くない。
「今はてめえに構ってやる気分じゃねえんだ。個室に戻って一之瀬にでも相手してもらえや」
「君はセリナの生まれだったんだね、実は自分はまだあの国へは行ったことがないんだ。水の都――だったかな。冬になればさぞ雪景色が映えることだろうねえ。池、泉、湖、水路に溜まった水の表面が凍りついて、凍った水面に雪が積もっていく――君があそこに住んでいたときはどうだった? やはりあの国の冬は美しいかい」
一罪の言葉を無視して一方的に喋る鬼礼に、一罪は舌打ちをした。彼は自分の好きなようにできれば他人の都合などどうでもいいのだ。なんと自己中心的なことだろう。おそらく反抗するよりも合わせるほうが楽である。
「……あの国の水路は常に水が流れてる。詳しくは俺もよく知らねえが、その水路の関係で泉や湖なんかの水も滞りなく流動している。だから冬になっても水面が凍ることはねえんだ」
セリナ国では国土全体の至る所に水路が通っており、海の水をひいている。彼が言う「水路」というのはおそらくそれのことだろう。
「それは残念」
鬼礼はそう返すが、大して残念がってはいないように見える。そもそもそこまで興味があったわけではなく、世間話のような感覚で口にしただけかもしれない。もしくは、セリナの水が凍らないことなどはじめから知っていたかのようだ。真実がどちらであっても一罪には関係ない。
「わかったらどっか行けよ」
虫でも追い払うように手を振りながら言う。鬼礼は微笑みを絶やさない。
「つれないなあ、暇潰しに付き合ってあげようと思ったのに」
「ざけんな。暇してんのはてめえのほうだろ。……わかった、てめえが何処にも行く気がないなら、俺が場所を移す。ついてくんじゃねえぞ」
一秒でもこの男と一緒にいたくなかった一罪はこの場所を鬼礼に譲ることに決め、列車内へ戻る扉に手をかけた。鬼礼の服の裾を握りしめながらじっとこちらを見ている声音をじろりと睨みつけると、幼い少女はびくりと怯えて完全に男の陰に隠れてしまった。これくらいの反応を一罪は求めているのだが、そうしてくれない人間があのギルドには多すぎる。
座席へ戻る前に携帯灰皿で煙草の火をもみ消した。個室には誰瓜、リア、カナ、ルイの四人だけがおり、誓南はまだ戻ってきていないらしい。出て行く前と同じ席に腰掛け、誰瓜に着いたら起こせとだけ告げて腕を組むと首を下げる。起きたら首が痛いだろうと思いながらも体勢を変えることはしない。
そのまま何も考えずにじっとしていると、徐々にまわりの音が聞こえなくなり、思考が停止し、一罪の意識は無意識の暗闇へと沈んでいったのだった。
次回は九月十日に更新します。