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水流の海  作者: 氷室冬彦
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2 嫌厭の青と伏せたハンデ

赤茶色の扉に掛けられたプレートには「ロワリアギルド探偵事務所」と書かれていた。吸い込んだ煙をふ、と吐き出し、扉を殴るようにノックした。そのまま返事を待たずに扉を開ける。室内からふわりと紅茶の香りが洩れ出してきた。おい、と声をかけながら部屋に踏み込もうとすると、止まれ――と鋭い声が返ってきた。


「室内に煙を持ち込むな。その薬物を何処かへやってから出直してこい」


部屋の手前には司令室同様、談話用のソファとテーブルが置かれてある。両側の壁にずらりと並ぶ本棚にはただひたすらに分厚い本が並んでおり、右側に並ぶ本棚の奥側には何処かに続く扉がひとつ。部屋の一番奥、正面の壁には大きな窓と、その脇には観葉植物が飾られてある。窓の手前のデスクに腰掛けている男の顔は逆光で見えなかったが、声の調子から機嫌がよくないことだけはわかった。


探偵(たんてい)を怒らせるのはまずい、ということは礼のときと同様、彼に初めて会ったときから本能で感じ取っていたので、素直に口から煙草を離し、持っていた携帯灰皿に火を押し付ける。売られた喧嘩は買うが、自分からは喧嘩を売らない主義なのだ。


「薬物――なんて人聞き悪ィな、もっと他に言い方ってもんがあるだろ」


「何か間違っていることがあるか? 紛れもない事実だろう。煙草の依存性については是非、我が身を振り返ってみるがいい。麻薬にもひけをとらない。そんなものを買うだけ金の無駄だし、何の得にもならない。ただ体に悪いだけなのだからさっさとやめてしまうがいい。最も、貴様が薬物の手を借りてでも早死にしたいのだと言うのなら話は別だし、周囲にも害があることを理解し人前での喫煙を控えるなら私は何も言わん。ともかくこの部屋は火気厳禁だ。発火する恐れのある物や特に煙草などは絶対に持ち込むな。不愉快だ。用を済ませてさっさと出て行くがいい」


「グチグチうるッせえな。ったく、俺だって来たくて来たわけじゃねえよ」


「用件は何だ」


「あのクソ支部長サマからの預かりモンだ。お前に届けろってよ」


ずかずかと部屋に入り込んでいき、司令室で預かった――というより押し付けられた――封筒を探偵のデスクに叩きつける。探偵は依頼か、とだけ言って封筒を手に取った。サファイア・ブルーの瞳は海のように深く澄んだ色を湛えており、じっとみていると吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥ってしまう。日の光を浴びた赤茶色の髪が紅茶のような色に透き通って見え、黙って座っている彼には絵画的な美しさを感じさせられる。口を開きさえしなければそれなりの男に見えるだろう。


探偵は封筒の表裏を二、三度ひっくり返して見、ちらりと中を覗いてから一罪に目を向けた。目尻が鋭く吊り上がっており非常に目つきが悪い。


「それだけか。お前の体に染みついた煙草のにおいが不快でならないので用が済んだなら出て行くことだ。今度からここに来る際は他の服に着替えてからか、その日にまだ一本も吸っていない状態で来るが良い」


「来たくて来たんじゃねえっつってんだろ。來坂の馬鹿野郎に押し付けられたんだ! そうでなきゃ誰が来るかってんだ、こんなところ!」


「ならば、これからは來坂礼に捕まらないよう気を付けることだな」


白手袋をつけた手で虫でも追い払う動作をする探偵に大きく舌打ちをし、一罪は探偵の事務所を出た。まったく嫌な男だ。あの男に比べれば雷坂郁夜の生真面目さのほうがまだ幾らかマシである。


石材造りの廊下を踏み鳴らすように歩きながら煙草を取り出そうとするが、先ほど吸っていたのが最後の一本だったことを思い出す。ああクソッ、と口汚く毒づき、コートのポケットに両手を突っ込んだ。


煙草のストックを取りに一度自室へ戻ろうかと考えたが、少年少女の声で賑わうあの空間に再び身を投じる気分にはなれなかったので、三階ではなく一階へ続く下り階段を進む。そのまま大した行先も決まらないまま玄関ホールに向けて歩いていると、たった今、外から帰ってきた白衣の女と居合わせた。


腰のあたりまで伸びた桜色の髪。真珠のように透き通った透明感のある白い肌。丈の短いナース服の上にひざ裏までの長さの白衣を纏っている。線が細く、誰が見ても美女と言えるであろう整った顔立ちと、凹凸のある抜群のプロポーション。長い睫に覆われた細い目からは妖しさが滲んでおり、女はそのまま一罪のいる方とは反対側に歩いて行こうとしたが、ルビーのような赤い瞳はふと、こちらに気付いた。もう少し遅れていれば入れ違いになることができただろう。一罪は渋柿でも食ったかのような顔をした。


千野原涼嵐ちのはらりょうらん――世界的に名を馳せている医者の名家、千野原家の一人娘だ。このギルドに所属する女医師であり、一罪の主治医である。涼嵐は口元に薄い笑みを浮かべながら一罪に歩み寄り久しぶりね、と言った。


「時々様子を見せに来てって言ってるのに、全然来てくれないもの。心配してたのよ?」


「うるせえ。てめえの世話になるつもりはねえって何度も言ってんだろ」


「嫌ね、なにも強制はしてるつもりはないのよ。私がはじめに『たまに様子を見せに来て』って言ったとき貴方、曖昧な返事をしただけでハッキリ拒否しなかったじゃないの」


一罪は言葉に詰まる。涼嵐は続けた。


「でもね、忘れないでほしいのは、貴方が自分の自由意志で来てくれるだけでいいのは、私がそう判断したからのことなのよ。私がいつ、どれくらいの頻度で来なさいって言えば、貴方は従わないといけない。わかってくれるわよね? 私は医者で、貴方は私の患者なの。それとも貴方――もう諦めてしまったの?」


一罪の鋭い目が涼嵐の視線をまっすぐに受け止める。


「……諦めた? 何言ってやがる。千野原の力を以てしても完治は難しい、これ以上回復することはない――てめえが言ったことだろ」


落ち着きの中に憤りを孕んだ声は一段と低かった。涼嵐は別段焦りもしなければ慌てもせず、いつも通りの涼しい顔のまま、肩にかかった長い髪を手の甲ですくいあげた。


「それはあくまで可能性の話。主治医の話くらいきちんと聞きなさいな。……ねえ、貴方、何も私の言葉ひとつで自暴自棄になることないじゃない。自分の言葉で他人が荒れると、結構心にくるのよ」


「うるせえ」


「貴方が一番つらい思いをしていることはわかってるし、貴方の意思を軽く見ているわけでもないわ。私は貴方が心配なだけ」


「うるせえ、黙れ」


「それにね――」


涼嵐が続けて何かを言おうとするが、その前に一罪は右手の拳を彼女の目の前に突き出す。


「……無理なんだろ。はっきりそう言え」


涼嵐はそれから一度黙り込み、小さく息を吐くと一罪の肩にぽん、と触れた。


「とにかく、たまには顔を出してちょうだい。そこまで忙しいわけでもないんでしょ?」


その言葉が嫌味に聞こえてムッとしたが、一罪が食って掛かる前に涼嵐はその場を去って行った。その背中をしばらく睨み、外へ行く気力を削がれた一罪は廊下を引き返す。


彼女と一罪の出会いは三年前、水難事故に遭ってほぼ瀕死状態だった一罪を治療したのが始まりだった。事故の際に負った怪我のほとんどはすぐに回復したが、治りきっていないものが一つある。一罪が煙草を吸うのはちょっとしたことで感じる苛立ちを鎮めるためで、そもそも、その苛々もただ一罪が短気だからというだけではなく、すべての原因はその事故の「後遺症」にあると言っても過言ではない。


一罪は右手がほとんど動かない。


いや――正確には、手を開いたり閉じたり、その程度の運動なら出来ないこともない。だが、動かすことができるのは手だけで、手首から指先までにだんだん感覚がなくなっていくのだ。故に、指先はほとんど動かず、ペンを持って字を書くことをはじめとした、指先の細かい動作が一罪にはできない。怪我をして血が出ても、熱い湯がかかっても氷の中に手を突っ込んでも、感覚がほとんどない。拳を作ることすらできなかった事故当時よりはだいぶ回復したほうだが、もはやこの右手は周囲に自分が五体満足の健常者であると偽るための飾りでしかないのだ。


以前まで無意識に出来ていた動きが今、どれだけ意識してもできない。自分の体が思い通りにならないことへの怒りは大きい。麻薬だの有害物質の塊だのと言われようと、煙草にでも依存しなければ、募る苛立ちをセーブできない。いくら一罪が能力を持っていないとはいえ、一人の人間が暴走してしまえば、周囲に全くの損害がないとも限らない。たしかに一罪は誠実とか真面目とか、そういう言葉が似合うような男ではない。しかし、生きて自分で動けるうちはせめてマトモらしい生活を送りたいのだ。


一罪に、第五軍のなかでも簡単な仕事――たとえば書類の整頓など――しか与えられないのは、右手が不自由で複雑な作業ができないからだ。先ほど礼から探偵に届け物を任されたが、あんな子供のおつかいのようなことでも、一応は一罪の仕事として頼まれていたのである。


來坂礼は命令や指導といった、組織の上下関係を彷彿とさせるような言葉を嫌う性質なので、いつも誰かに仕事などを任せるときは「お願い事」や「頼み事」と言い換えている。だから彼の性格を知らない新人のギルド員などはそれが仕事であることに気付きづらい。一罪とてそうだ。そのときその瞬間にはそれが仕事の命令であることに気付かないし、気にもならない。おそらくここのギルド員は皆、古参者であったとしてもそれに気付いていない者もいるのではないだろうか。


少しでも気持ちを紛らわせるため、ひとまず朝食でも摂ろうかと思い食堂を覗くが、この時間帯は利用者が多く混みあっていたので入室は思いとどまった。ここは何時に来ようとギルド員で賑わっているのだが、特別人の出入りが激しい今の食堂はうるさくて敵わない。やはり街に出ようかと舌打ちをし、もう一度玄関ロビーのほうへ足を向ける。すると、比較的友好的に接することのできる見慣れた顔と目が合った。丁度食堂へやってきたところらしい。


首元まで伸びた赤髪にやや吊り上がった青色の瞳。サイズの合っていない大きめのワイシャツを袖を折りながら着ているのは、これをぴったりで着られるほど大きくなるという願掛けの意味があるらしい。左手首にはシルバーの腕時計をしている。背丈は十二歳だか十三歳だかの男子にしては少し低いような気もするが、それでも年相応の範囲内だ。やや女顔だが、まだ幼いためにそう見えるだけだろう。このまま成長すればおそらくそれなりの美少年になるはずだ。


その隣には栗色の髪に青色の目をしたひ弱そうな少年がおり、垂れ下がった目尻とオドオドした態度が彼の弟である赤髪の少年とは対照的である。見た目も中身も似ていない兄弟だが確実に血は繋がっている。


明日、一罪と共にセリナへ発つ予定の兄弟――輪廻りんねリアとその弟のカナ。通称カナリア兄弟である。赤髪の少年、カナは一罪に気付くと軽く手を挙げ、おう、と声をかけてきた。反対に、リアはぎくりと肩を震わせ、カナの後ろに隠れるようにさりげなく後ろに下がった。兄だというのに弟の背に隠れるとは情けない。


カナと一罪は何かと馬が合う。このギルドでは最も友好度の高い相手と言えるだろう。五歳ほど歳の差があるので、友人というよりは弟のような感覚だが、よく一緒にゲームをしたり外へ出かけたりする。彼の兄であるリアはどうも一罪に怯えていて、こちらが話しかけてもあまり会話にならない。年下であり一罪自身、自分が柄の悪い輩である自覚をもって接すれば、そのうじうじした態度もある程度許容できるのだが、それでもずっとこの調子だと段々腹が立ってくるので、極力彼とは関わらないようにしている。相性が悪いのだ。


「一罪、今から飯か?」


「そのつもりだったんだけどな、今は人が多すぎんだよ。俺は外でテキトーに済ませようと思ってたところだ」


「オレたちも何か食おうと思って来たけど……たしかに混んでるみたいだな」


カナは難儀そうに腕を組み、少し考えるそぶりを見せると、背後のリアを振り返った。


「リア、オレたちも外で済ませちまうか?」


「え、あ、うん。僕はそれでもいいけど」


「決まりだな。一罪、何食べに行くんだ?」


「ゲッ、着いてくる気かよ……別にいいけどよ。何処に行くかまでは決めてねえ。お前らは何食いてえんだ」


「どうする? カナ」


「なら、そのへんの喫茶店にでも行こうぜ。何を食べるかは着いてから考えればいいだろ」


「喫茶店――って、この国じゃ二箇所しかねえだろ。じゃあ近い方で、ロヴァルトな」


ロワリア国に喫茶店は二軒、「リヴェル」と「ロヴァルト」という店がある。一罪は興味がないのでよく知らないのだが、リヴェルは紅茶が、ロヴァルトはコーヒーが美味いと評判らしい。リアもカナも一罪の意見に賛成し、三人は朝の街へと身を乗り出した。



*



この時間帯のロヴァルトは思ったより客が少なく、店内には落ち着きのある音楽が静かに流れていた。従業員の案内で席に着き、それぞれ適当に注文を決めたあと、一罪が思い出したように言った。


「そういや明日の任務、お前らも行くんだったよな」


カナが頷く。


「そうだな。いつも通りのカルセット討伐だ」


「そんな仕事に能力なしを加えんなっつの」


一罪が不服そうにぼやくと、リアがフォローをいれる。


「で、でも、僕らはセリナに行ったことがないし、セリナ出身の一罪さんたちが来てくれると、その、とても心強いです」


カナはセルフサービスのガムシロップを手に取りながら、たしかになあ、とリアの意見に同意する。


「一罪と誰瓜がいれば道に迷う心配はないだろうし、二手に別れたときも道がわかるなら安心だ。お前からすれば煩わしいだけかもしれないけど、楽な仕事だろ。頼んだぜ」


「おい、念のため言っとくが、俺が最後にあの国の地面を踏んだのは三年前だぞ。三年もありゃ町並みも変わってるに決まってらァ」


「町並みは変わっても街は変わらねえよ。それに、古い記憶でもないよりマシじゃん」


「そういうモンか?」


「そうだよ」


そんなことを話しているうちに三人分の料理が運ばれてくる。カナはオムライス、リアはパンとスープのセット、一罪はサンドイッチをそれぞれ飲み物と一緒に注文しており、テーブルの上にそれらが揃ったとき、カナがスプーンを持ち、したり顔で笑いながら手を合わせた。


「そんじゃ、ゴチになります」


「ちゃっかりしてやがるぜ」

次回は九月八日に更新します。

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