1 朝日と喧騒を厭う躁急
ロワリア国中心部に位置するロワリアギルドに水流一罪は属していた。ギルド第一棟三階、ギルド員たちの寮となる個室の並んだ空間は昼夜を問わず賑わいに満ちている。
騒がしいノックの音と、午前七時という時間帯におよそ似つかわしくない耳障りな声に目を覚ました。全身にねっとりと絡みつく重たい眠気を引きずりながら寝床を這い出て立ち上がる。しょぼつく目を擦り、腹の底から湧き上がるドロドロした熱い感情を尚も叩かれ続ける扉にぶつけた。鈍い音とともに外側からの音が止む。ドアノブを捻りゆっくりと扉を開くと、柑橘類を彷彿とさせる明るい髪色の少女がいた。袖が長く動きづらそうな白衣を羽織った少女はコバルトブルーの瞳に一罪の姿を捉えると上機嫌に笑った。
「おいクソガキ、てめえいい加減にしねえとぶん殴るぞ」
眉間に皺を寄せ、低い声で唸るように言う。こうすれば大抵の女や子どもは怯えるものだが、目の前のこの少女には全く何の効果もない。効果があるならこうして一罪を起こしに来たりなどしない。少女――甘夏柑奈はやはり一罪の態度に怖気ることなく――騒音に対する謝罪もなく――一罪の声にかぶせるようにして喋りだした。
「一罪のお寝坊さん、もう七時だよ! 起きるの遅いよォ」
「うるせえ、まだ七時だろが。てめえの起きる時間が早すぎるだけだクソガキ。そもそも、俺がいつ起きようがてめえにとやかく言われる筋合いは――」
「一罪寝ぐせ凄いよ。さては昨日お風呂の後に髪乾かさなかったね? 駄目だよ長いんだから、伸ばしてるならお手入れしなきゃ」
柑奈が笑いながら一罪の髪に手を伸ばす。ぺち、と痛くなさそうな音をたて、一罪の右手によって柑奈の手が弾かれた。一罪の、所々に赤色の混じった金髪は背中のあたりまで伸びている。いつもは左の側頭部のあたりで適当にまとめているのだが、男にしては長すぎるので、柑奈のような子どもは珍しがってすぐに触ろうとしてくるのだ。
「用件を言え。何の用だ」
「あのねあのね、支部長が一罪のこと呼んでたよって昨日言おうと思ってたの、さっきまで忘れてた!」
はあ? と疑問の声をもらす一罪。支部長――というのはこのギルドのギルド長である來坂礼のことだ。
「わざわざ人に頼まなくても、呼び出しの放送でもすりゃいいだろが」
「一罪は日ごろの行いが悪いから、呼び出しなんてしたら他の皆に何やったんだってからかわれるでしょ?」
「余計なお世話だッつの」
「とにかく支部長のところ行ってきなよ。お説教じゃないといいね!」
「うるせえ」
じゃあね、と元気に手を振りながら、柑奈は真正面の部屋に消えた。そこが彼女の自室なのだ。正面の住人がうるさいので部屋割りを変えてほしいと過去に何度も礼に申請したが未だなんの対処もなされていないことから、一罪のその願いを聞くつもりは彼にはないらしい。ため息を吐きながら苛立ったように頭を掻く。
それから一度部屋に引っ込むと、顔を洗い髪を結び、手早く身支度を整えて廊下に出た。こんな時間にも既に何人かのギルド員は起床しており、いつものように仲間たちと愉快そうに騒いでいる。見慣れた光景ではあるが、朝に弱い一罪には信じられないことだ。何故彼らは起きたばかりであんなにも活発なのか、甚だ疑問である。
階段へ向かって廊下を歩いているうちに二人ほどから声をかけられたが、軽くあしらって去る。相手が誰であってもすれ違えばとりあえず声をかけるのがここの住人だ。他人と関わるのが苦手だったり一匹狼な人間にとっては、ここでの生活はあまりいいものではないだろう。一罪もあまり人付き合いが得意なほうではなく、出て行きたいとまでは思わなくとも日頃から腹の立つことは多い。一罪自身が短気なせいもあるだろう。
三階から二階へ降りればギルド員たちのざわざわした話し声も静かになり、人通りも少なくなった。三階はほとんどギルド員たちの生活空間となっているのでどうしても騒がしくなるが、この階は来訪者や依頼人を招き入れることが多く、ギルドの子供もこのあたりでは普段よりいくらか大人しい。二階がいくら静かであっても、客人がまず足を踏み入れる一階が――三階ほどとまではいかずとも――騒がしい時点で無意味だと思うが、しかし何処もかしこもうるさいよりはマシだ。
ギルドの扉は大抵のものが同じような外形のものであるが、二階を歩いていると他とは違う大きな両開きの扉が目に入った。片側が開けっ放しの状態なのはいつものことである。扉の上に貼りつけられたプレートには「司令室」と書かれており、そこがロワリアギルド支部長、來坂礼の仕事場所であり休憩場所だ。
司令室の前まで到着すると開いた扉を拳で一度叩き、歩を止めることなくずかずかと室内に入っていく。一罪だけに限らず、ほとんどのギルド員が自らが属する組織のトップに対してこのような態度をとる。外部の者には立場を弁えない、躾がなっていない生意気な若者という風に映るだろうが、ありのままの姿で暮らし働く――というのがギルドの方針なのである。礼に対して敬語を使い、上司を敬い礼儀を徹底する者もいれば、他の友人と話すときと同じような口調で会話する者もいる。外で無礼な振る舞いさえしなければ、ここでは好きにすればいいのだ。來坂礼はこんなことでは怒らない。
司令室の手前側には二人掛けのソファがテーブルを挟んで向かい合わせになるように配置されており、奥に一組のデスクがあった。書類を挟んだファイルや分厚い本が所狭しと敷き詰められた本棚が壁に沿うようにしてずらりと並び、棚に収まりきらなかった書物などが床に散乱している。異様に面積の広いこの部屋はその散らかった書類たちのおかげで並の個室くらいの大きさに感じられなくもない。
司令室の奥には、大きな革張りのチェアに腰掛ける一人の美青年がいた。独特な色合いの綺麗な青髪、優しげな雰囲気を纏ったバイオレットの大きな瞳。童顔だが整った顔立ちをしており、空色の軍服を着崩して着用している。青年――來坂礼は眼鏡のレンズ越しに一罪を見るとにこりと微笑んで見せた。これがこの組織のトップに位置する男である。
「やっと来たか」
と礼が言う。怒っている様子はない。
「何の用だよ。俺ぁ近頃は何もやらかしちゃいねえぞ」
「説教の呼び出しじゃないよ。何か身に覚えでもあるのか?」
「説教じゃないなら何なんだよ」
「仕事のお知らせさ」
「仕事ォ? お前が直接指図するなんて珍しいじゃねえか」
一罪の仕事はギルドの副支部長である雷坂郁夜から指示を受けて書類や資料などの整理をすることが主な内容だ。一罪が礼から直接仕事の指導を受けることはあまりなく、なので素行の悪い一罪が彼から呼び出しをくらうときは十中八九、一罪の悪行に対する説教をするときなのだ。説教――といっても、彼が怒ることなどほとんどない。ただ言葉で優しく諭されるだけである。一罪にとってはただ疎ましいだけで、ハイ分かりましたと大人しく従うつもりはないのだが、彼は怒れば相当恐ろしいのだろうということはなんとなく悟っているので、あまり逆らおうとも思わない。
礼はデスクの引き出しから一枚の紙を取り出すと一罪に差し出した。
「そういうわけで、ちょっと任務に行ってきてもらおうか」
「どういうわけだよ。……おい、五軍の俺にゃ任務なんざ無縁なはずだろ」
ギルドにはそれぞれのギルド員たちの性質や能力によって「軍」と呼ばれる区分がされてある。一軍は礼のような組織のトップに立つ人物たちのことで、二軍はギルドの他に仕事を持つ者を指す。三軍はこの施設の整備やギルド員の武器の強化などを仕事としている人々のことで、あの甘夏柑奈はこの三軍に属しているらしい。四軍は「能力」を持ち、有害なカルセット――魔物や魔獣とも言われている――と戦うことの出来る、戦闘要員のギルド員のことで、五軍はカルセットへの対抗手段である「能力」を持たない非戦闘要員を指している。
このロワリアギルドはどんな依頼も請け負う「なんでも屋」のようなもので、ここに舞い込んでくる依頼といえば、各地で繁殖したカルセットの討伐などがほとんどなのだ。その「任務」に駆り出されるのは常に四軍の連中であり、五軍のギルド員はギルド内部での雑用などをこなして過ごしている。
舌打ちをし、礼の手から用紙を奪うようにして受け取りながら苛立った声で「行き先は」と問う。彼に反抗しても言葉と時間の無駄であることはここにきて一年経たないうちに学んだ。これが礼でなく他の人物であったならすぐに食って掛かっただろう。礼はデスクの上で手を組んだ。
「セリナ国――お前に馴染みのある場所だ。依頼内容自体はカルセット討伐らしいけど、それは他のギルド員に任せていい。ただセリナに初めて行く奴がほとんどだから、道案内をしてやってほしいんだ。任務に向かうメンバーには誰瓜もいるからそう大変でもないだろう」
「は――?」
手元の資料から顔を上げる。セリナ国というのは西の大陸にある小さな国のことだ。水資源の豊富な国で水の都と呼ばれている。一罪と彼の幼馴染である誰瓜――一之瀬誰瓜――の生まれ故郷である。
「おい、だったら俺が行く必要はねえだろが。その道案内も一之瀬にさせりゃいい。俺が行ったところで何の役にも立たねえってことくらい察しが付くだろ」
「これは誰瓜からの希望でもあるんだ。セリナへ向かうならお前も一緒でないと嫌なんだってさ」
「はあ?」
「いくら仕事で、ほんの三日ほどとはいえ、故郷へ戻ることに抵抗があるのはお前だけじゃないってことだよ。出発は明日、メンバーはそこに書いてある通りだ」
釈然としない気分のまま資料に視線を戻す。一罪と共に任務へ向かうメンバー一覧には、一罪を入れて八人の名前が記入されてあった。
一之瀬誰瓜。口兄ルイ。水流一罪。氷河樹誓南。雪白鬼礼。刹那声音。輪廻カナ。輪廻リア。
「なんだ、このおかしなメンバーは。戦力としちゃ申し分ないじゃねえか。ますます俺が行く必要ないだろ」
「だからさ、お前が行くのはそいつらの道案内と、誰瓜の精神衛生を保つためと、子守役のためであって、戦力として駆り出されるわけじゃないから安心しなって。怪我をする可能性はないとも言い切れないけどね」
「あ? おい、道案内だけじゃねえのか」
「ま、難しい仕事じゃないから。頑張れよ」
もう一度舌打ちをする。やってらんねえな、とぼやきながら司令室を出ようとすると不意に呼び止められ、振り返ると細長い茶封筒が目の前に飛んできた。咄嗟に右手で掴もうとするがうまくいかず指は封筒を弾き、そのままそれは床に落ちる。腰を曲げて拾い上げ、なんだこれ、と問うと礼はいつもの笑顔で、
「それ、探偵に届けておいて」
と言った。
探偵――というのは名の通り『探偵』をしている、第二軍に属する男のことだ。脚が長く高身長で、目つきも性格も足癖も悪く、辛辣で口も悪い。しかし何故か嫌われていない謎の人物である。
ただ、目つきが悪いのは一罪もそうだし、言葉遣いも普段の行いも乱暴なのだが、誰かに忌み嫌われている風な噂を耳にしたことはない。探偵と一罪に何か通ずるところがある――とは思わないが、ここの住人達は驚くほど他人を嫌いにならないのだ。探偵とはあまりきちんと話したことはないが、初めて会ったときにいけ好かない奴だという印象を抱いたことはしっかり覚えている。一罪自身が他人を嫌いすぎているだけかもしれないが、彼を嫌う者より彼を慕う者のほうが多いことには納得がいかない。
司令室を出ると一罪は大きく息を吐き、礼から預かった封筒をコートのポケットに仕舞うと、胸ポケットから煙草とライターを取り出した。手のひらサイズの小さな薄っぺらい箱から出した一本の煙草を口にくわえ、先端にライターの火を近づける。しかし、点火するより先に横から伸びてきた手にくわえていた煙草をさらわれた。ぎょっとして手が伸びてきた方を見ると、そこには左の頬に大きな傷痕がある茶髪の男が立っていた。
雷坂郁夜――このギルドの副支部長であり、一罪の上司にあたる人物だ。一罪は新しい煙草を出そうとするが、彼に奪われたそれが最後の一本であることに気付くと、郁夜の手から煙草をひったくろうとした。しかし郁夜は素早く一罪の手を避ける。
「返せッ」
「吸うなら外で吸えよ。司令室の前だぞ」
郁夜がため息交じりに言う。彼はどうも感情が表に出にくい性質らしく表情自体はほとんどないに等しいが、声の調子から怒っているわけではなく、どちらかというと呆れているのだと推測できた。一罪は郁夜の生真面目なところが大嫌いなのである。今度こそ彼から煙草を奪い返すと、うるせえな、と反抗的な言葉と目つきで郁夜を睨み、足早にその場を離れて行く。
その背中を見送りながら、郁夜は深く溜息を吐いた。
次回は九月六日に更新します。