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水流の海  作者: 氷室冬彦
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0 刹那に過ぎる大海の思い

苦しい。


途方もない量の水の渦に巻き込まれ、数十キロあるはずの己の体が、風に飛ばされる紙屑のようにその流れに弄ばれる。絶え間なく押し寄せる激流と耐え難い窒息感に、体内の酸素と残り少ない体力がみるみる奪われていく。


全身の至る所に障害物がぶち当たる。衝撃と痛みに怯んだ一瞬、唇の隙間から体内に溜め込んだ気体が容赦なく漏れ出した。腕の中に抱きしめた小さな身体は既にぴくりとも動かず、それでも絶対に離すまいと必死に身体を曲げ、大海と言う悪魔から守るようにして覆いかぶさる。


何故だ。


泳ぎは得意であったはずなのに。


いくら脚をばたつかせて抵抗を試みても、この奔流ほんりゅうの前では人間の力など無いも同然だった。もがけばもがくほど体は沈み、運動の代償に体が酸素の供給を求め、やがて自らの意思で呼吸を止めることが困難になった。鼻孔から口腔から塩辛い大量の水が体内に流れ込む。それを拒もうとする本能が水と一緒に体内に残った空気を更に吐き出した。もはや天地も分からない。方向感覚などとうに麻痺してしまった。


苦しい。


「死」の文字が脳裏をぎる。そしてその予感を払拭できるだけの希望を一切見出だすことができないまま、依然として波にもまれ続けた。


小さな体を拘束する腕に力がこもる。岩場にぶつけたのか右手が激しく痛み、そのせいで水に触れている感覚すらわからない。


酸欠により意識が朦朧としてくるなか、せめて彼女だけは救いたいと強く願った。しかし、おそらくもう手遅れだろう。だがもしこの世に神などという胡散臭いものが存在するのであれば、自分の命を差し出しても構わないから、どうか彼女だけは助けてやってほしい。罪なき少女の幼い命をこんなところで絶たせてしまうなど、この上なく無情な仕打ちである。


苦しい。


秋が目前に迫った、ある嵐の日のことだった。



*



鉄の塊がガスを吐き出す音と、肩を揺さぶられる感覚で目を覚ました。瞬間にあたりが騒がしくなる。通路を歩く無数の足音と、空間に充満した人々の声は耳障りな雑音にしか聞こえない。


真正面に立つ女は後頭部でひとつにまとめた白髪はくはつの先を、窓から吹き込んでくる、かすかに潮の香りを含んだ風になびかせながらこちらを見ていた。顔をあげると彼女は着いたよ、と言って前屈みに曲げていた背筋を伸ばす。


「皆は先に行ったの。はやく追い付かないと置いてかれるよ、一罪(かずさ)


「……わかってらァ」


男は粗暴に答え、座席から腰を浮かせた。コートの尻のあたりを叩きながら通路に出るが、女が着いてこないのを不審に感じ、振り返る。


「どうした、一之瀬(いちのせ)


「嫌な夢でも見たの? 顔色、あまり良くない」


男の顔をじっと見上げながら女は問いかけた。その鋭い観察眼から逃れたい思いから顔をそらす。彼女の言う通りだった。


「……ただの夢なら良いんだけどな」


さっさと行くぞ――会話を切って歩き出す。女は一度頷くと、その後ろを着いていった。


次回は九月四日に更新します。

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