16 水流の海
煙草の煙が風に流れ、かき消されていく。
――海が嫌いだ。
底に何があるのか、波が何処から来ているのか、中に何が潜んでいるのか、得体が知れない。暗く冷たく、時として牙を見せる、残酷な存在。
分からないのは恐ろしい。
恐ろしいから、嫌いなのだ。
全てを奪う存在だ。
奪うばかりの存在だ。
奪われるばかりの人生だ。
海から得たものは――何もない。
この国が嫌いだ。
人々が皆幸せで、笑顔に満ちていて、極めて穏やかで、眩しい。眩しいほどの光の中、そこで生まれた影はひときわ濃く、際立ち、目立つ。
不幸が浮き彫りになる。
嫌いだ。
不幸な自分を隠せないこの国が嫌いだ。
二度と足を踏み入れたくはない。
ここで失ったものは多くあった。
ここで得たものはほとんどない。
失ってばかりだ。
自分の命さえも失ってしまえば、いっそ楽になれたのかもしれない。
あのとき――。
雪白鬼礼がカルセットを倒さなければ。
口兄ルイがそれに加担しなければ。
あのとき、
一之瀬誰瓜が、一罪の名を呼ばなければ。
楽になる覚悟が出来たはずだ。
いつもそうだ。
いつも一罪を引き留めてくる。いつも一罪の邪魔をする。
そうしていつも――思いとどまってしまう。
楽になるまでの苦しみに耐える覚悟が――揺らいでしまう。
揺らぐのだ。
何故か、あの女の声に。
「あなたは目を離すとすぐに、何処か遠くへ行ってしまいそうになる」
「別に、常にそう願ってるわけじゃねえ。足掻こうとしないだけだ」
「これまでもそうだった。あなた自身が危機に陥った時、あなたはいつも、何の抵抗もせずに、ただ受動的に死を受け入れようとする」
死にたいわけではない。ただ、生きたくもないだけだ。だから、いつだって寿命を縮めている。自ら死ぬことはしないが、死ぬ機会が訪れれば受け入れる。ただそれだけのことだ。
「一罪」
海の上に切り立った崖の上、一之瀬誰瓜は海風に煽られる長い髪を手で押さえながら、一罪を見た。情愛と哀感と憂いを帯びた目に一罪の眉間に込もる力が僅かに解けた。
「私をひとりにしないで」
彼女もまた、あらゆるものを失ってきた。
自らを愛してくれた親を、自らを姉として慕ってくれた弟を。
そうしてギルドに来た。彼女に残ったものはただ一つ。
「一罪がいなくなったら、私――本当にひとりになっちゃうの」
一罪に残ったものも、ただ一つ。
「……死ぬときゃ別だ。どんな状況であれ、心中なんぞしたかねえ」
短くなった煙草を崖から放り、海に背を向け歩き出した。岩場の凹凸が靴の裏から伝わってくる。一罪たちの任務は終わった。しかし結局、何故浄水場にカルセットが発生したのか、原因はわからないままだ。
だがあの探偵のことだから、こんなことを思っているうちにさっさと解決してしまうのだろう。
なら、一罪が気にするようなことではない。
「帰るぞ」
「うん」
次回はあとがきです。




