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水流の海  作者: 氷室冬彦
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13 憂心杞憂に終わらず

微かに漂う水の音は、二人分の足音によってかき消された。服を絞って水を落とすカナの隣で一罪は、しきりにあたりを見回したり何度もポケットに手を出し入れしたりする己の挙動のおかしさを自覚し始める。どうにもそわそわしており落ち着きがない。


胸騒ぎがするのだ。


焦燥感とも違う。苛々しているのでもない。ただ胸の奥で別の生き物が蠢いているような、何かに心臓を撫でられているような、なんとも形容し難い気味の悪い気分なのだ。得体の知れない感情と対峙するのはひどく不愉快なものだった。


「一罪、どうかしたか?」


一罪の不審な挙動にカナが尋ねる。何と答えたものかと言葉に詰まった。


「……いや、なんでもねえ」


「そうか」


その時、カナの足が止まる。


「今、何か聞こえなかったか?」


「何か?」


「誰瓜たちかもしれない。急ごう!」


言って駆け出して行ったカナを追いかけると、先のほうから水の音が聞こえた。走る速度を上げて角を曲がり、目の前に広がった光景に思わず目を見開く。


通路より右側の水路の水の一部が天井に向けて伸びている。


平面だった水が重力に逆らい、その部分だけ凸面になって存在しているのだ。その突起した水から一本、細い水の線が触手のように伸びており、その先に――。


一之瀬誰瓜が。


地面から離れた高い位置で、首に水の触手が巻き付いた状態で持ち上げられていた。


首を絞められた誰瓜は首に巻き付いた透明な縄を引き剥がそうと水を掴むが、指がすり抜けて抵抗もできないようだった。水面から突起した水は固形型のように見えるが、そういうわけではないらしい。


液体型カルセット――それもこちらから触れることのできない、性質の悪いタイプだ。こんなものが存在するなど、聞いたことがない。きっと、あれがここに発生したスライムたちの母体なのだろう。


「誰瓜!」


カナが誰瓜を助けようと刀を抜く。そのまま水のカルセットに向かって行こうとするが、水中から現れたスライムたちに行く手を阻まれる。


「ああ! クソッ、邪魔だ退け!」


カナが怒鳴ると反抗するようにスライムは攻撃を開始する。


さっとあたりを見回す。口兄ルイが一罪のすぐ傍に倒れていた。呼吸はしているようだが気を失っているのか、起き上がる気配はない。通路の左側にあたる水路で氷河樹ひょうがき誓南が水中から起き上がり、スライムたちの相手をしながらも誰瓜のほうへ進もうとしていた。


「か……かず、さ……」


消え入りそうな声に名前を呼ばれる。誰瓜が苦痛に満ちた目で一罪を見ていた。息ができないのだ。


「……て、……かず……にげ……」


逃げて。


頭からさっと血の気が失せていくのがわかった。


あの液体型カルセットはこちらから触れられない。向こうからの攻撃はいつでも一方的な物で、こちらから攻撃を仕掛けても、ただ水を斬っているだけだ。倒すことはおろか、攻撃を加えることすらできない。誰瓜の次は一罪たちだ。水を使った攻撃といえば、例えばあの水を弾丸のようにして弾き出すだとか、あるいはその水で――、


相手を窒息させることだ。


窒息。


駄目だ。


水に巻き込まれると出てくることができなくなる。


誰瓜が。


――誰瓜がいなくなってしまう。


大事なものを何もかも、奪われてきたのだ。


水が全てを奪っていったのだ。


家族を。幸せを。利き手を。全て。


またひとつ、奪われてしまう。


「一罪!?」


気付けば体が動いていた。頭の中が真っ白で、何も考えられない。ただ、誰瓜を助けなければならないと思った。


一罪は液体カルセットに走り寄り、そこから伸びる水の管を鬼礼の能力によって武器化されたナイフで切断した。管は綺麗にスッパリと切れ、誰瓜の体が地面に落下しそうになる。しかし瞬時に管の断面から水の糸が伸び、修復され、再生した。


そしてカルセットの体から水の塊が排出され、猛スピードで一罪の体にぶつかった。衝撃で足が地面から離れ、後方へ飛ばされる。水路には落ちなかった代わりに背中を強く打った。


「一罪! 大丈夫か!?」


カナが一罪の背中を支え起こし、耳元で言う。


「……一罪、オレがあの管を斬る。切り口が繋がる前に切った断面の時間を止めれば、誰瓜を助けられるかもしれない。お前は誰瓜を受け止めてくれ。急ぐぞ!」


「あ、ああ……」


背中を押され、慌てて誰瓜のもとに向かう。カナも再びカルセットに挑んで行き、もう一度吐き出された水の塊をすんでのところで避け、再び誰瓜を捕える水の管を斬った。その瞬間、カナの右手首の腕時計が光る。


今度は切り口が再生されることはなかった。誰瓜は解放され、一罪が落ちてきた彼女を受け止める。その目が閉じられているのを見て、心臓がどくりと跳ね上がった。動悸が酷く乱れているのが分かった。


「い、一之瀬……おい、おい!」


肩を揺さぶる。声をかける。誰瓜の反応はない。


「一之瀬……おい、いくなッ、起きろ、誰瓜!」


そのとき、誰瓜の肩が揺れた。苦しそうに咳き込み、薄眼を開けて一罪を見る。荒い呼吸を繰り返しながら、誰瓜は無理に笑って見せた。


「だ……大丈、夫……」


「一罪、誰瓜を安全な場所まで連れて行け! こいつはオレが――うわっ」


カナの言葉はカルセットが放出した水の塊に遮られた。直撃を受けたカナの小柄な体は遠くまで飛ばされ、水路に落ちる。遠くからスライムたちと交戦中の誓南の声が聞こえた。


「一罪! そいつに物理攻撃はほとんど効かないわ! あんたはまだ動けるうちに、その子とルイを外まで連れて行きなさい! セリナを――」


呼んできて――誓南が言い終える前に、何か冷たい物が一罪の腕に触った。いや――腕だけではなく、腹や脚、首にも、ひんやりとしたゲルのような感触の何かが。


それが何かを理解する前に、体が強い力で後ろに引っ張られる。


誓南の動きが一瞬止まり、その隙に彼女の懐に飛び込んだスライムの攻撃を受けた。カナが慌てて水路からあがるのが見える。


一罪! 誰瓜が悲痛な面持ちに高い声で叫び、手を伸ばした。その顔はすぐにぼやけて見えなくなった。


差し出された手に、一罪の手は届かなかった。



*



冷たい。


――水だ。


ごぼ、と口から空気が洩れる。


息が。


水。


水が。


息ができない。


駄目だ。


水に、


水に呑まれると出てくることはできない。


苦しい。


苦しい。苦しい。


嫌だ。


怖い。


恐ろしい。


水が――。


奪われる?


今度はなにが?


何故――。


何故いつも奪われる。


苦しい。


息ができない。苦しい。


あの日と同じだ。


苦しい。


苦しい。


苦しい。


このままでは、


死んで――。



死ぬ?


すべてを奪われて。


家族もいなくて。


右手は動かなくて。


こんな、


こんな人生なら、


このまま死んでも――いや、


いっそ、死んだほうが――。



*



「一罪……一罪ッ!」


何度も名前を呼ぶが、カルセットに取り込まれた一罪には届かない。立ち上がろうにも酸欠で体が重く、思い通りに動くことができなかった。カナがカルセットに飛びかかるが、振り下ろされた刀はカルセットに傷をつけることもなく、指で風船を押したときのように表面で跳ね返される。


すぐそこにいるのに。


助けられない。


なんと非力なことか。


己の無力さが悲しくてたまらない。遣り切れなさに唇を噛みしめる。液体カルセットの中で窒息感にもがく一罪の姿が目に焼き付いた。


「か、一罪……」


誰瓜の傍で、カナがただ茫然と立ち尽くしていた。どうすればいいのかわからないのだろう。誰瓜の予感はあたり、カナは誰瓜を見ると泣きそうに眉を寄せ、どうすればいい、と言った。


「す、誰瓜……オレ、どうすればいい? どうしたらあいつを倒せる? どうしたら助けられる? 早く、早くしないと、一罪――」


「つべこべ言ってられないわよ!」


誓南が銀色の扇子を大きく振り、小規模な竜巻を発生させた。彼女の風属性系の能力であり、武器である扇子の能力だ。竜巻は水路の水を巻き込み、撒き散らしながら彼女の周囲にいたスライムたちを粉砕し、そのまま一罪を取り込んだ水のカルセットに向かっていった。


しかし、殺傷力のある風もカナの刀同様に表面で受け流され、効果は見られない。誓南の舌打ちが聞こえる。彼女はじゃぶじゃぶを音を立てながら水路を歩き、ようやく通路にあがった。


「一罪の息は一分も持つかどうか……ああ、もう、だから煙草やめなさいって、誰瓜が何度も言ってたのに! 物理が効かないんじゃ、本当にどうすればいいのよ!」


「ま――待って、待って……何秒経った? 一罪が取り込まれて今……」


誰瓜の不安の声に、誓南は返す言葉に詰まった。無言の答えに誰瓜の顔がみるみる青ざめていく。


「一罪ッ!!」


――その時、場の空気が一気に冷えた。


突然カルセットの中心部分――一罪がいるあたり――に大きな穴が開いた。


周囲の水が消え一瞬間、一罪の体が宙に浮かぶ。


振り返ると、肩で息をしながら、ぼろぼろのぬいぐるみの胴体に釘を深く突き刺すルイの姿があった。


そしてカルセットに穴が開いた直後、


その真上からひとつの影が落ち、液体型カルセットの上に着地・・した。


室温の著しい低下。


ビキビキと爆ぜるような音を立てながら水のカルセットが白く変色し、硬直する。


いや、厳密にいうと――氷結した。


凍った穴の中に一罪が力なく倒れている。彼はそのまましばらく動かなかったが、やがて口から水を吐き出すと激しく咳き込んだ。


「まったく、世話が焼けるね」


氷の上に蹲る影がす、と立ち上がった。僅かコンマ一秒の間に水のカルセットのみならず、周囲の水路をも巻き込んだ冷凍。能力レベルが特出して高い証拠だ。


「母体だなんていうから、もっと強いのを期待していたのに。この程度で終わりだなんてガッカリだよ」


氷上の影――雪白鬼礼は失望した顔で、つまらなさそうにため息を吐いた。

次回は随時更新します。

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