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—————あの女何なんだ。
夜に港に入れる岸に沿ってランプを手に持ってルースと歩く。
夜風が少し寒いこの時期、海水浴——一応、砂浜もある——しようというものはいない。
この緊急事態だから有難い限りではある。
今のところ海面に以上なし。
穏やかな夜の水面は星々と月を写しだし、ゆらりゆらりと平穏。
「なんもないとねむいっすね」
「お前は寝てきたんだろ」
へへっと笑う。
人っ子一人いない海岸を野郎と二人で歩き、港の端までやってきた。その先少し行った適当なところで、
「折り返すか」
「うぃっす」
今夜はこんな感じで行ったり来たりし、魔物が出たあのあたりに戻って来、を繰り返す予定。
何もなければよいが、と振り返った。
—————チリカ?
人影がなぜその人物と即座に気づいたのか。俺自身よくわからないまま、ランプを向けた。
一瞬だけ。
全裸に見えた。普段服を着ているとき見ていたボディラインそのままだが、褐色の肌は明かりを浴びた一瞬ですら艶やかで、想像よりもずっと…。
そんなことで自分の何かが破裂しそうになった結果、おい! という声がでない。
ふわふわとしたパーマのかかった髪がたなびいた。顔はこちらを向かない。でも、気づいたのだろう。
ランプの光を躱すように、チリカは海に飛び込んだ。
「ルース、ちょっとここで見てろ」
言うや否や服を脱ぐ。
「え、あ? なんすか? 何かいたんすか?」
「人が飛び込んだ。チリカに見えたけど」
少しだけ俺自身わからなくなりながら喋ると、戸惑うルースは脱ぎ捨てられた服を一応拾って畳んでいた。
命綱をルースに渡し、暗視用の水中ゴーグルを付けて銛を持ったまま海に飛び降りる。
ルースがビットに命綱を括り付けるのを見届けた後、
「この周辺を見てから、魔物が出た港に向かって泳ぐ。命綱の長さは十分足りてたはずだが、30分したら引いてくれ」
「うぃっす」
海に沈みこんだ。
—————あの女自殺願望でもあんのか?
この寒い時期に海に飛び込んで何しようって言うんだと悪態を付きながら、女が飛び込んだあたりまで向かう。
だが、何もいない。
確かに飛び込んだはず。波もほぼない。流されている可能性は考えにくい。
先日出たらしい魔物に喰われているのなら、辺りに血だまりができているはず。
—————どこ行ったんだ?
この短時間でこの場所から視界の外に泳ぎ去れるはずはなく。
海の透明度は高く、魔物が出たというポイントまでここからかなりあるが、その辺りまでなら水中でもある程度見えている。
たおやかに揺らぐ海藻は俺の今の気持ちなどどこ吹く風。
昼間のように一部だけ苔がない箇所などの海中の異常もなし。
—————なす術もなしか?
身投げした可能性のある女一人を見捨てることが出来ず、そう思いながらも魔物が出たほうに泳いでみることにした。
海面近くに浮き上がり、ルースに、一言港のほうに泳ぐことを宣言。
—————とんだ海中散歩だ。
あんな女でも死なれたら寝ざめが悪い。
飛び込む直前の肢体をつい思い出すと、海中でかぶりを振って消した。
その矢先だった。
海のほうから、黒い何かが近寄ってきたのは。
大きな鮫と魚の中間のような魔物は、頭部に光る目のようなものをいくつもつけていた。
逆立った鱗は棘のよう。ぎょろりと目の中にまばゆく光る液体のようなものが渦巻いている。
手足は生えていない。
—————上陸の危険はなさそうだ。
だが、俺自身は危ない。少し海岸から離れたところまで泳いで、港までの距離をショートカットしようとしていたためだ。
命綱を三回引いて、ルースに引き上げサインを出した。
が、その時には、魔物がすぐそばまで来ていた。
大きく口を上げ、強い水流を吐き出すと、あばらをかする。
—————骨が逝ったかもしれん。
ミシミシときしみ、痛みだす。
魔物は今、まっすぐ俺のほうに向かってきていた。捕食する気だろうか。
ルースが綱を引いているのは感じるのだが、先ほど水を吐き出してできた小さな海流に飲まれ、旨く抜けられない。
魔物に向かって銛を当てると、鼻づらに軽く刺さった。
このまま離脱できるだろうか。銛を引き抜くと、魔物の緑色の血が海に混じった。
魔物が俺のすぐ横で、大きな口を上げ始めたその矢先。
強い力で海流から自分の体が引き去られるのを感じた。
一瞬、目の前に魚の鱗のようなものが横切ったが、すぐ続いて首筋に強い打撃。
明らかに人の手だと思う感触のそれと、動きを止めて俺を引き去った何かを見ているような魔物が視界に入ったのを最後に、意識が途切れた。
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「で、出した結論が『人魚』?」
目が覚めたのは翌日の午後。詰所のベッドだった。
その次の日の朝あらましを報告した俺に一応冷静な顔を取り繕うランドルだが、笑いをこらえているのが隠しきれていない。
「そうとしか思えない」
引き去った何かは人の手のようで、体のような何かも見えた。だが、
「その前に見たっていうチリカも含め、お前なんか騙されたんじゃないか?」
俺が後ろを振り向いていた時、ルースは当然だが前方の警戒にあたっていた。だから見ていなかったのだという。
3回ロープが引かれるのを感じたルースは、魔物との攻防のさなか綱を引っ張って、最終的に俺を引き上げたようだった。
「綱が途中一瞬だけ軽くなった時は釣り餌よろしく曹長が魔物に食われたかと思いましたけど、怪我無しの代わりになんか別のもん持ってかれたんすか?」
ルースは寧ろ心配そうだった。
「絶滅した生き物の名前出してくるなんざ、お前随分ロマンチストになったんだな」
人魚の絶滅は百年前と言われている。人間との戦で国がなくなり、一部は陸地に逃げ延びた。
だが、人魚の肉は大変美味で、不老不死になるとの民間療法的な話。
それに対して好戦的で手名付けることは不可能な性格のうえ魔法も使える。
この二つから、ほとんどが捕らえられ殺されているという。
陸に上がると人に化けることができるので、『人との交配』での思想の伝播を危惧し、家畜化は行われなかった。
ただ、 逃げ延びたものがいるらしく、人として暮らし、人との間に子どもを設け、実際今も人魚の末裔とみられる人間がいる。
地方によってはこの人間にも人魚の肉と同じ効能があるとか、逆に異種族交配で呪われているとかいうまことしやかな話が出回っているため、人魚の末裔たちは安寧な生活は送れていないだろう。
「昨晩は被害なかったが、明日以降のためだ。魔物の特徴、改めていいか?」
そう。あんなデカいのが再度出現していたのに、全く被害がなかったのだという。
だが、再度出現した時のため、俺が得た魔物の情報は重要。ひとしきりランドル聞き取ったところでランドルは立ち去った。
「チリカさん、別にフツーにいましたし、万事OKじゃないすかね?」
店にいたらしいのだ。
ルースが聞き込みしたところ、確かに夜風にあたりに出たが、海に入ってはいないとのこと。
今日の午後にこの町を出るらしいから、
—————直で話すなら昼飯終わり時か。
あの女の嘘が俺の取り調べごときで暴けるとはどうしても思えないが、アリバイはない。
昨日俺が見た通り海に入っていたなら、チリカは魔物に遭遇しなかったか、遭遇したのに無事だったということ。
—————コイツが魔物を操って何かしてる可能性は疑わないとな。