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その現場調査は、予定していた調査員によって、近隣の住民に対する作業隠蔽魔法をかけた状態で行われた。
「これで全体の三分の二か」
ナム副隊長の懸念した通り、俺とナム副隊長以外の人物はこの調査の経緯部分の記憶を書き換えられていた。
1. 老朽化したアパートの取り壊し工事後、基礎の石を除去するところで魔法陣があることに気づいた
2. アパートを建てた大家は夜逃げしてどこかにいなくなっており、爺とは別人
3. あの爺はあのアパートに住んでいたこの町の不動産屋で、先日別の街に引っ越したらしい
4. もともとここの町長は何年か前からあの爺が持っていたこの町の不動産はすべてこの街が共同管理することにする手はずをつけており、来月から——あと3日後だが——街が管理することになっていた。
わずかにいた住民は婆が蒸発した後で全員退去しており、もう爺しか残っていない。
あの日ナム副隊長と俺が目にしたものを口に出せないほど、この話が通説となっていた。
「書き換えられたのは俺たちの記憶なんじゃねぇか?」
調査の様子を見ながらナム副隊長にこっそり聞くと、
「それはありません。後でお見せします」
ナム副隊長は『先立って確認しに来た昨日、その魔法陣の残りの魔力で大やけどした』ことになっている左手を少しだけ挙げて振った。
着々と表出する魔法陣。
全体で規則性があるようで、精緻な模様が浮き彫りになっていくにつれて人魚の魔法陣だけでなく人間の魔法の魔法陣も使われていることが分かりはじめる。
「『馬蹄』は人魚と人間の混血のテロ組織ですから。人間の魔法が使えるものもいたことは記録されています」
「爺一人とは思えんな」
「このアパートの建築計画が実施された年代には、まだ組織の活動が多少あったころですし、幹部メンバーもいましたから。
おそらく、『馬蹄』内でこの魔法陣を開発したといってよいかと」
ナム副隊長がどことなく嬉しそうに生唾を飲んでいる。
—————オタクだな、こりゃ。
チリカがナム副隊長から自ら離れて行った理由。
チリカがナム副隊長に『利ざや』と言っていたところはここにもあるのだろう。
チリカへの愛情よりも組織としての忠誠・出世欲に加えて強烈な探求心が勝ってしまうタイプに見えた。
—————もしナム副隊長にチリカが人魚だと知れたら。
当然、そういうこと。
この3日間、あのレストランにチリカがやってきていないのだけは確認した。
カイトに夜冷やかされたが、気にならなくなっていた。
そしてその懸念が現実にならないまま、結局、全て明らかになるまで3日かかって調査は完遂された。
後で…と言われたナム副隊長の腕も未だ見ることができていない。
そして今、詰所の小さな会議室の机一杯に、あのアパートの土地の魔法陣の絵図が広がっている。
長方形の土地をぐるりと呪文のリボンが縁取りの様に取り囲んでおり、その真ん中にひときわ大きな魔法陣。
その四隅に二つずつ中規模の魔法陣があり、さらに隙間は魔法陣と呪文で埋め尽くされている。
ナム副隊長はランドルと俺の目をまっすぐ見据え、
「世紀の大発見といっていいでしょう」
ランドルは急に発掘された魔法陣というお題にきょとんとした様子で、
「結局何なんだ?」
「人魚の魔法と人間の魔法を組合わせた大規模な記憶隠蔽・攻撃者排除の魔法陣とみられます。
ここ、見てください」
指差す先は中央の大きな魔法陣の片鱗。
「あのとき、海中で見つかった魔法陣の模様と同じだな」
「ええ。線と円が交わるところにある鱗模様。これが人魚の魔法陣の特徴です。
この中央の一番大きな円と、それを取り巻く8つの魔法陣は人魚の魔法陣。
残りの四隅にある円ものは人間の魔法陣です。
隙間を埋めるように書かれているのはこれも人間の魔法で、呪符に書かれているものと同じです。
で、敷地を取り囲むように書かれている呪文、こっちは人魚の魔法とみられます」
端に行くにつれ所せましと書き込みしている様子。
「中央の一番大きな円が記憶操作に関係するものとされている魔法陣と近しい記述を持っています。
この辺りに人魚の古い言葉でこの町がまだ村だったころの範囲を示す記述がみられます。
また、この辺りに、対象の人物を指定する箇所がある。『ここに住む人』。
多分この辺りに足を踏み入れた者が持っているこのアパートの住人に関する記憶を都合よく改ざん・隠蔽する魔法でしょう」
「村だった頃…ってことは、軍の詰め所と港は完全に含まれてるな」
「あの辺の商店の並びの途中辺りもですね。カイトのレストランのあたりはぎりぎり外か…?
でも、ここに住んでたら生活必需品は全部元々村だった範囲にある店舗に行かないと買えない」
「事実上死角なしか。まぁ…随分とやべぇヤツですね」
ランドルの苦い一言に、ナム副隊長はこっくりと頷いた。
「そういうことをやりそうな組織だから我々が百年もかけて秘密裏に追っていたということです」
「そういや、このアパートは流れ者が多くて人が良く入れ替わるって…」
「これまでももしかすると、『馬蹄』の残党が他所に移る時の中継拠点として使われていた可能性はあります。
このアパート界隈に足を踏み入れた人間について、ここの住人に関する記憶を書き換えることができる。
怪しい足取りを追って調査の過程で関係者は必ずここに来ますが、報告を上げる段階では『なにごともなかった』と」
「じゃあ今俺たちは何で話できてるんだ?」
「いい質問ですね。
多分ですが、アパートの床下の裏側にも魔法陣があったんだと思います」
ランドルが目を見開いているが、おそらく俺も今そんな顔になっているのだろう。
「多分、その魔法陣と合わせて一つの魔法になっていたのだろうと。
でも、アパートがなくなったことで今はもう魔法の効果がない状態です」
「だから、結局最終形が分からないってことでもありますね。本当に巧妙な…」
「廃材は? 業者から廃材を追えば、床材もあるんじゃないのか?」
記憶改ざんされてつい四日前にはまだアパートも大家兼不動産屋もいたことを覚えていないランドルの素朴な疑問。
下手にそのことをつつくと『俺たち二人がおかしいんじゃないか』説が浮上してややこしい。
ナム副隊長は絶望的な顔になりながら、何とか都合よいウソ——『大家も不動産屋もいなくなり、業者の特定も難しそう』——をついた。
「魔法ってすげえな」
思わずつぶやいた俺だけを見ながら、ナム副隊長は再びゆっくりと頷いた。
—————でもなんで俺とナム副隊長は覚えてるんだ?
この疑問は今ここでは聞くまい。記憶改ざんを掘り返さなかったのと同じ理由だ。
「で、その四隅にある円は、住人から気付かれない程度にわずかずつ魔力を徴収する仕組みです。
この魔法陣はここに住む住人から人魚・人間問わず魔力を吸うことで成立しています。生贄などは使わずとも問題ない。
もし勘がいい人間が魔力を吸われたことに気付いても、記憶隠蔽があります。そのこと自体、覚えていません」
「家賃以外にも取り立てしてたってことか」
「そうですね。
で、それ以外にある魔法陣や呪文は全て攻撃者を排除し、ここの住民を守ることに徹しています。
何種類かありますので、自然災害だけでなく魔物や盗難などの厄災も防げるようです。
水没しても良いようにしてあるのも特徴ですね。
人魚の魔法と人間の魔法を組み合わせているので、人間がこれを即時に破るのは至難の業かと」
「まるで要塞だな」
「そういう使い方をする想定だった可能性は否めないです」
ナム副隊長は自身の左腕をローブから出した。
包帯が巻かれているが、少し薬草の汁がにじみ出ている。
器用に右手で結び目をほどいて、薬草をくるんだ布を剥がすと、
「なんだそれ」
思わず口をついて出た。
全体的に赤紫にはれ上がっているが、あの日あの時よりだいぶましだ。
が、その上に、人魚の魔法の象徴といえる線の交差点にかぶさる鱗模様が浮かび上がっている。
赤黒い滲んだ線のそれは無数にあり、手先から腕全体に這い上がってとぐろを巻く蛇のようだった。
「それ、文章みたいだが、なんて書いてあるんだ?」
ランドルが指差したのは、隙間に何個か浮かんでいる文字のようなもの。
「例によって人魚の文字か? 呪いか何かか?」
「人魚の文字なのはそうですが、呪いとかそういうんじゃないです。
あの組織のスローガンのようなものですよ」
「スローガン?」
ナム副隊長は頷き、読み上げた。
「『我らの姫の行く先に幸多かれ』」




