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「その男、このぐらいの背格好で、ときどき甲高い声にならなかったか?」

「覚えてないわ。もう随分前だから。知ってる人?」

「婆の住んでたアパートの大家かもしれない」

「だったら家賃の取り立てかもね。なんで?」

 自分で汲んだ茶を一口だけ啜って、

「なんでだろうな」

 チリカに全部喋る気はない。

 チリカは未だ全面信用してはいけない人物。加えて、チリカが知っているという事実がチリカを危険にすることもある。

 チリカは俺を追求しなかった。

 いままでもずっとだ。それは俺がこの女に対して『いいな』と思うところ。

—————秘密を持っている人物は他人の秘密を探らない。

 ただ、だからこそチリカが持っている情報量は思いのほか少ないようだ。

—————爺の情報はどこかほかから探らないといけないわけか。

「あの婆は? あの頃から占い婆だったのか?」

「ええ。よく色んな人は来てたけど、私は奥で静かにしてたから」

「よくそんなのできたな」

 人魚の年齢はよくわからない。

 が、人間と同様の見た目と年齢だとすると、戦前にここに来たのであれば、まだ十歳になるかどうかの子どもだったと思われる。静かにし続けることは至難の業に思えた。

「国で色々あったから」

 戦のことだろう。

 前にあの沖の岩場では全くなかったピロートークを今ここでしているような気になる。

「あの婆、何者だったんだ?」

「さあ。でも、私のことは最初から『おひいさま』って呼んでたから、私のこと知ってるんだなって思った」

「は?」

「私が過去から未来に来てるっていう話をしてくれたのもお婆さん。

 教えてくれたから、それで落ち着いたの」

 俺がぽかんとしてチリカの顔を見ていると、

「そうよね。そうなんだけど。

 でも、なんで知ってたのかとか、聞いたことないし、聞く気もなかったし」

「…婆も実は人魚で、お前と同時代の過去からきたんじゃないか?」

 それだったら多少は腑に落ちる。

 チリカの顔を知っていて、誰かわかっていて、不憫に思って逃がす。ありえるストーリー。

「ううん。それはないわ」

「何故?」

「雨のなかローブびしょ濡れで普通に歩いて帰ってきてた。人魚だったら下半身が魚になっちゃう。

 それに、私の顔で分かったっていうより、話してて名前聞いて分かったみたいだったし。

 あのころのこの町のことは知らなかったもの」

 じゃあ一体、なぜ? という俺の顔色をチリカは読んでいた。

「誰かから口伝で聞いたとかかもね。

 この沖になった人魚の国で何があったのか知っていて、それで匿ってくれたとか」

「そんな良心溢れる婆だったか?」

「うん」

 チリカの中の婆と俺の中の婆の姿が明らかに食い違っている。

—————あの業突婆どうなってんだ?

 昔から仕事で相談事を持っていくたびに金かねカネとうるさく、最低限の情報で最大の利益を得る。

 ネックレスの相談をしたときの応対も、自分の中では完全にこれまでの婆のふるまいの路線通り。

 くそったれと舌打ちするにふさわしい人物だと思っていた。

 チリカにとってだけは違うらしい。

「ふふ…お茶飲んでるとは思えない渋~い顔してるけど」

 チリカを見やり、ため息をついた。

「どういう角度で見たらあの梅干し婆がそうなんのか分からんから」

「梅干し?」

「偶に軍で出る保存食」

「なんで梅干し婆なの?」

「しわくちゃだろ? 果物の塩漬だから」

「そんなのあるのね…って、ああ、あれかな」

 どこかで見た記憶をたどれたようだった。たぶんチリカの時代にはなかったのかもしれない。

 チリカはどうやって梅干しを入手して味見し、料理に組み込むかを考えだしたようだ。ぶつぶつと独り言を呟いている。しかし、

—————婆は過去から来たチリカに何を話して、何を話さなかったんだ。

 一つ、残酷な思い付きがあった。

「前、家族は人間に食われたって言ってたが、もしかして婆に聞いたのか?」

 チリカはピタリと固まり、俺の顔をみて、

「ええ。そう」

 やはり婆は婆。子どもにも容赦ないではないか。

「人魚の国がなくなった話と、生き残った人は陸に上がって人間の中に紛れてこっそり住んでた話。

 人魚狩りで食用に狩られて、純潔の人魚はもう生き残ってなくて、国もないっていうのも聞いた。

 人魚と人間の子どもは人魚の末裔って言われてて、差別にあってて、少しはましになってきたっていうのも、お婆さんから」

「精神、よく持ったな」

「それ以外どうしろっていうの?」

 チリカは俺を睨むように言った。

 さっき玄関ですっぽりと俺の両腕に収まっていた女が、急に屈強な兵士に見える。

 だが、謝るのも違うと思ってジッとコップにはいった茶の水面を見つめた。

「兎に角、私はお婆さんに情報をもらって、この町を出て、点々とする生活を選んだ。

 だから上手くいって、今があるの」

—————でも、これからもそうかは分からないじゃないか。

 そう思っていると、チリカが立ち上がって、

「もう眠くなってきちゃったから」

 そういいながら、スムーズに床で寝ようとするチリカに、

「ベッドあるから」

「いいわよ」

 立ち上がった俺の手を振り払い、あくびをしながら伸びをすると、強引に床に座り込んだ。

「慣れてるから」

 俺はチリカが固い床の上に身を投げ出して横たわるのを全く見慣れなかった。

 だから、

「あっ…! え、ちょ」 

 その体の下に両腕を差し込み、肩と膝裏を抱えて持ち上げる。

 軽く身じろぐチリカを無視してベッドに運んでそっと置いて、チリカに毛布をかぶせた。

「ボロいのは勘弁してくれ」

 後ろを向いた俺の背中に向けて、

「いいの?」

 振り返って『いいから』と言おうとしたのだが。

 チリカは一人分の人が入るスペースを開けるためにベッドの際まで寄って、毛布の片側を持ち上げていて。

「いい」

 俺の返事で持ち上げた片側を下ろすのを見とげ、俺自身は部屋の端にしゃがみこむ。

 小さく、『そ』という声が聞こえたかと思うと、すぐにスゥスゥと規則的な呼吸音。

 顔を覗き込んでもやはり完全に寝ている。

 疲れていたのは本当なのだろう。安らぎを得たチリカの寝息は穏やかそのもの。

 対して、カッコつけた俺のほうはここからが試練なのだが。

 さっきドアの前で得てしまった体の感触がありありと蘇る。

 とっととベッドインして本当のピロートークにしてしまってよかったじゃないか。

 なんなら最初はチリカのほうもそのつもりだっただろうに。

 婆に匿われていた時のチリカもこんな風に穏やかに眠っていたのだろうか。

 あの小さな部屋の隅で丸まっている子供を思い浮かべると、今自分にさざ波や大波になって訪れている性欲という悪魔が多少引っ込んでいく。

 そんな目的で使っていい会話のエピソードでは全くなかったし、そんなつもりで聞いたわけじゃないエピソード。

 でも今は使えるものはなんでも使う必要があった。ドアを開けて表に出る時間ではないから。

 明日、チリカが起きた時、自分がチリカを襲わない自信がない。

 何とか鎮めるしかないが、多分それをしたことにチリカは翌朝気づくタイプ。

 プライドという文字だけで強引に抑え込んでも、睡魔は全く訪れない。

 その欲望が邪魔をする中、チリカの話を思い出し、何とか理性による想像を働かせようと試みる。

 子ども一人でやってきて、一人で料理人の修行をし、必死で生きてきた。

 チリカが大人になるまでの過程の、想像上の姿が出てくるようになり、限りなく今の姿形に近くなり、男が隣に並ぶ姿が出てきた辺りで、プライドを完全に諦めることにした。

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