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 砂浜の影に置かれた服はきちんと畳んでそこにあった。

 アザラシの革のざらつきと柔らかなシャツの感触。

 ふわりと先日チリカの首筋から薫った懐かしい香りが立ち上り、体の奥を撫で上げられるような心地になる。

 抑え込むように走り出すと、向こう側でチリカが立ち上がるのが見えた。

 草むらのような小汚い色の俺のシャツからスラリと足が伸びている。

 髪をかきあげて縛りなおすと、裾が足の付け根ぎりぎりに持ち上がった。

—————刺激でしかねぇ…。

 脂汗の原因が全力で走っているからではないことを承知したが、放り投げて逃げるわけにもいかない。

 何とか傍まで行って、

「ほら!」

 声だけかけて、すぐに立ち去ろうとすると、

「ちょっと待って」

 足だけ止めて、決して振り返るまいと拳を握りしめる。

 背後でバサリと音が聞こえ、

「服返すから」

 手だけ後ろに差し出すと、着慣れた自分の服の感触。

 しっとりと湿っていた。

 頭の中にある歳とともに太くなった理性の糸が、ぶちぶちと音を立ててちぎれ始める。

—————これ以上は無理だ。

 数多の中がショッキングピンクに塗りつぶされそうになり、そのまま手に服を持ったまま、足早に歩き、そして駆け足になった。

 後ろで衣擦れの音が聞こえるのを必死で聞かないようにすると、どんどん離れているはずなのに音が大きくなる気がした。

 自分の呼吸が激しくなり、部屋のドアを開けて飛び込んだ。

 可能な限り遠くにチリカで湿った上着を放り投げ、ベッドにうつ伏せに倒れる。

—————絶対このままじゃ眠れない。

 やることは一つ。棚の上に手を伸ばし、ボロ布の入った箱を手に取った。




***********************************




「どうした?」

「いや、別になんも」

「…そうか」

 カザミ軍曹は訝し見ながら通り過ぎた。

 あの放り投げたシャツはそのまま指一本触れずに出勤してきた。

 昨日はよくよく考えると、婆のところに行ったあたりからおかしかった気がする。

 手元は切り替えて仕事をしているが、頭の中では自己嫌悪といら立ちが渦巻いていた。

 寝不足もあるだろう。

—————いい年こいて馬鹿過ぎる。

 風俗にでも寄ったらと言われたことが過去にも何度かあるが、未だにあの甘ったる過ぎる香と汗と何某かのにおいが混ざった空気感が好きになれない。

 足しげく通う奴らを横目に内心で『お疲れさん』と呟くぐらいだ。

—————昨日の俺だって、疲れていただけだ。

 だが一方で、あのときのチリカの目の青い輝きは何とかして調べないといけない。

 婆のところに聞きに行くのが一番なのだろうが癪に障る。話が出てくるとも思えず。

 他にそういう話を知っていそうなのは誰だろうと考えながら日中帯を過ごすはめになってしまった。

 夜になって漁が始まるころ、ようやくと晩飯休憩がてら詰所を出る。

 向こうのほうでドネア爺がタバコをふかしているのが見えて、ゆっくりと歩いていくと、向こうもこちらに気づいたようだ。

「あれからどうです?」

「いやいや、好調じゃ」

 タバコの煙を円にして噴き出す。ぽつぽつと3つ輪っかができた。

「魔物は久しぶりだったが、ことなく済んでよかったもんだ…」

 煙をかみしめるようにしみじみと漁船の明かりを見つめる爺。

「前に魔物が出たのは五年前でしたっけ」

「んん? もうそんななったか」

 星明りがかすむ光が遠ざかっていくのを、二人で眺めながら、

「その前は俺は知らないんですが、出現は同じように五年毎ぐらい?」

「いや、昔はもうちょっと多かった気がするが…どうだったかな?

 もうここ最近の一年はほんのひと月のようでな」

 吸い終わったタバコを落として靴で踏んづけて火を消すと、手元の明かりは俺が持っているランタンだけになった。

―――――もしかしてドネア爺ならなんか知ってるか?

 どういう聞き方をすべきか少しだけ考えた後、

「青く目が光る魔物って知ってますか?」

 ドネア爺は俺のほうを向いた。

「この前のはそんなんだったのか?」

「いえ、前のはもっとこう…あの辺の空の雲みたいなやつでした」

 夜空のうすぼんやりした輝きの流れを指差すと、ドネア爺は、

「天の川か。思いのほかロマンチックな例え方するんじゃな」

 わしゃー女じゃねぇぞぉーとからかうように笑う爺。その間に、言い分けを練り直した。

「十年前ぐらいに都にいたとき誰だったかに聞いたんです。

 そういうのに逢って、取り逃したことがあるって」

 ドネア爺はほおと息をついた。

「何かよくわからんなぁと思って聞き流してたんですけど、魔物の話では聞いたことないから。

 海らへんで出たってことだったんで、今回の騒ぎで思い出しまして」

「なるほどね」

 ドネア爺はもう一本懐から煙草を取り出し、『火ぃ、借りるぞ』とランタンの日にタバコの端を突っ込んだ。

 ぷかぷかと吹かすと、

「わしが聞いたことある青い目の生き物は人魚だけじゃ」

 あの時のチリカの姿を思い出し、再び全身が凍り付いた。

「うちのじいさんが生きてた頃に、『ひいじいさんに聞いたことある』つって、夜寝るときになぁ。

 まだわしが寝小便ちびっとったころだ」

 夜風が涼しい。昨日のあのシャツの湿り気とチリカの真っ青な鋭い視線。

 チリカの匂いも一緒に思い出したが、性欲は湧かなかった。

「海に潜ったときだけ夜光虫なんかよりずっと強く真っ青に光るらしいんじゃ。

 魔法でも使っとるんかと思うぐらいで、真夜中の海でも何だって見えるんじゃと。

 大昔は海の中にはいくつも人魚の国が栄えとって、ここいらの…ほれ、あの岩の、もっと向こうの、海のどまんなかにも、ほんのちいーさい人魚の国があったとかってな。

 ここいらにも偶に色々寄ってきたりして、貿易もあったって話。

 何があったんかは知らんが、兎に角もう今はない。絶滅したって言われとるじゃ。

 その血筋のものは、雨上がりの空気で目が光ると、じいさんは言っておったな」

「初めて聞く話ですね」

「ほぉ、そうか。

 まあ…そうじゃな。そんなの知っとりそうなのはもうワシと婆と…あと何人残っとるかな」

―――――婆め。

 別に婆に聞いたわけでもないのに皺くちゃの顔を思い出して苛立った。

「なんで国はなくなったんですか?」

「他所の国…人間の国と戦になったんじゃと。

 ただ、特にその国は最初のほうに攻め込まれたそうでなぁ。三日もたんかったって話で。

 まー、ガキンチョの寝物語だったもんで、血なまぐさいとこは…」

 避けた、ということか。

「逃げ延びた人魚も、この港に暫くはおったそうじゃが、すぐに追っ手が来るとわかっとったろうから、早々に他所に移ったもんでな。

 この港町はとりわけ、人魚やその末裔はおらんようになったんじゃと。

 わしのガキの頃はもう絶滅しとったが、人魚の末裔も末裔を探しに来る輩も、そういう理由でここの街は少なかったんじゃ」

 確かに迫害があるという話は聞いたことがあるが、この辺りではそもそも『人魚』というキーワード自体ほとんど聞いたことがない。

 自分自身知っているのは都にいたころにそういう政治派閥の影響力が少し強くなったためだった。

「この前若いのが無礼した詫びぐらいにはなったかの?」

 爺の飄けた髭面と半分になったタバコ。

「十分に」

 タバコの香りが、チリカの香をとうとう完全に塗りつぶしていった。

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