もう現世では、縁のないあなたへ
あの時は、ごめんなさい。
あの時は、ありがとう。
「またね」、「じゃあね」、繰り返し伝えていたはずのものが、ある日突然ぷっつんと途切れて終わりを告げる。
会えなくなる前に伝えておくべきだったのだろうか。
それとも、伝えられなかったことに意味があるだろうか。
鮮烈な過去と邂逅するには、言葉を交わした時間と瞬間的で断片的記憶だけが頼りだろうか。
ここで後悔から始まる、このもどかしいこの‘’言葉の切れ端‘’について考えてみたい。
私が、考える‘’言葉の切れ端‘’とは、もう話さない関係になったひとに対して、存在するはずない未来の対話を思い描くこのだ。
二人で行くはずだった場所で、交わしていただろう空想の話。
今まで幾度と繰り返し笑いあった昔話。
あの時、伝えられなかった言葉が、今も心の中でささやいている。
「またね」と笑って手を振ったあの日、まさかそれが最後になるなんて思ってもみなかった。
交わした言葉の一つ一つが、今では宝物のように思える。
大切で今後も手放すはずのない幸せのカケラ。
あの場所で、あの時間に、もう一度戻れるなら、何を伝えたいだろう。
「ありがとう」と「ごめんなさい」、そして「さようなら」。
伝え損ねた言葉たちが、今も胸の奥で静かに響いている。
でも、きっとそれで良かったのかもしれない。
言葉にできなかった想いが、私たちの関係をより深く、より特別なものにしてくれたのだから。
これからも、あなたとの思い出を胸に、前を向いて歩いていこう。
そして、いつかまた、どこかで会える日を信じて。
それまでの間、あなたとの思い出を胸に、私は歩き続けます。
もしも再び巡り会えたなら、その時こそ、伝えられなかった「ありがとう」と「ごめんなさい」を、心を込めて伝えたい。
言葉にすれば、心から無くなる思いもあるから。
この「言葉の切れ端」が、いつか完全な言葉となり、あなたに届くことを願って。
さようなら。
そして、ありがとう。
「泣かないで、そんなに泣いたら…」
言葉の切れ端を伝えることはなく、静かに泣き崩れた2022年の記憶の扉の暗がりに佇む私を一人、205号室へ残したあなたへ。