覚醒
周囲はいつの間にか闇夜に包まれていた。イシュタルの手から炎が出るたびにわずかに周囲を照らし、炎が消えると闇に飲み込まれる。
――
弾かれたようにその視線の先を見返した。今まで休みなく続けていた魔法の練習をやめ、しばらく動かないままそちらをずっと見やる。遠くの方でわずかに何かが動いた気がした。
木々のざわめきが先ほどよりもはっきりと聞こえ始めた。
肌がざわつく感覚。自分の拍動が大きく聞こえる。
こちらに近づいている。
いつの間にか口で息をしていることに気が付いた。口の中が異様に乾いている。
と、こちらに近づいていた何かの視線が消えた。
「すまんすまん。つい集中してしまってほったらかしにしておった」
カームが隠れ家の入り口から顔を出す。
「帰るぞ」
カームは言うべきことを言うと、地上に全身も見せないまますぐに螺旋階段を降りていく。
イシュタルは先ほどまで見つめていた場所を振り返った。しかし、先ほどまでいた何かはすでに影も形もない。
胸の辺りをつかむ。心臓がまだ息を上げている。火照った身体に夜風が沁みる。
イシュタルは一度首を捻ると、カームの家の入口へと歩き出した。
◇ ◇ ◇
イシュタルは二度、それを経験した。一度目は森に運ばれてくるときに。二度目は魔法の練習をしているときに。
それは、願いをかなえてくれるものかもしれない。
それがもしもそうなのだとしたら、
「いってきます」
月が頂点近くまで昇った頃、彼はそっと外に出た。
夜半の風は冷たく、煌々と照らす月は闇夜を浮き彫りにする。
伯爵家の夜の庭に出向いた時のことを思い出した。夜風や月の大きさは今の状況と似ていた。庭師によって綺麗に整えられた植物たち、レンガの歩道、ティーパーティーに使う白色で丸天板のテーブルと随分と背もたれの長い白色のイス、そして自分。それらを頭のどこかで俯瞰している自分が言った。「ああ、ここじゃない」
有名な絵画に下手な子どもの絵を付け足したかのような違和感。自分だけがこの場から浮いている感覚。
そんなことをぼんやりと思い出しているうちに、いつの間にかイシュタルの影は木々の影に埋もれていた。
イシュタルより何倍も背の高い樹木が肩を並べている。森の中には鋭い切れ味の切り株や、表皮だけがわずかにつながって折れた木など、自然にできたとは思えない痕跡がある。
――
落ち葉が踏み荒らされる音が聞こえた気がした。イシュタルが止まる。されど、落ち葉の上を歩く音は消えない。自分の足音でもなく、聞き違いでもない。
わずかな寒気が胸からすっと全身に広がる。それを皮切りに背筋が震え、全身が総毛立つ。
視線の先、ようやく闇の中から見えてくる姿。人型だが、人よりも一回り大きい。ゴブリンだった。一匹だけ。
向こうがこちらを見た気がした。
瞬間、ピリピリと肌を刺す感触とねっとりと肌に絡みつく感触が伝わってくる。
「ははは」
自然と声が発せられた。
心臓の音が大きく聞こえる。拍動が早鐘を打つ。血管の収縮がにわかに感じ取れる。動けと身体に鞭打つように脈拍の速度が更に上がっていく。顔の火照りとは裏腹に、背筋には冷たい汗が伝う。
どくどくと自分の体の中を動き回る血の息吹を感じているうちに、ふと世界が明瞭になった気がした。今までの――生きてきた全ての時において思考に霞がかかっていたことを今ここでようやく完全に理解した。
つま先に力を入れて地面を蹴りだす。
何ができるのか、がなぜか手に取るようにわかる。
木々に当たらないように踏み込むと、親指の経路に魔力を通し、下の土から踏み台を生成する。中指の経路を使って追い風を作り出すと同時、薬指のパスに魔力を通す。
指先から魔力を放つ瞬間、手を上にあげる。前方に炎の壁が噴き上がる。夜目に慣れたゴブリンが一瞬にして現れた熱の光に目を眩ませた。
「死ね」
炎の壁を切り裂く風――かまいたちがゴブリンを襲う。皮膚が切り裂かれ、青い血を滴らせる。ゴブリンの野太い怒りが闇夜に響き渡った。本番が始まる。
◇ ◇ ◇
肌を刺す感触が強くなる。場違いだとわかっていながら、頭の隅でこの感触の正体が物語によく出てくる単語――殺意であることに気が付いて喜んだ。
それを自覚した瞬間、まるで世界というパズルにようやくイシュタルというピースがはまったかのような錯覚を覚えた。全能感が身体を支配する。
「死ね!」
上から圧縮した空気で押しつぶそうとする。しかし、ゴブリンの膂力は人とは違う。過剰な重圧が上からのしかかっているにもかかわらず、動きが鈍くなった程度の効果しかない。
これじゃだめだ。
木の根に引っかからないよう慎重に後退する。ある程度距離を取ったところで今まで使っていた魔法をやめ、風の刃を飛ばす。ゴブリンは前で両手を交差させ、前傾姿勢になりながら走って前に詰めてきた。
ゴブリンがイシュタルのすぐそこまで迫ってきた。後退しながら魔法を放っていたイシュタルは尻餅をついた。両手を地面につく。風の刃が途切れた。
ゴブリンが勝利を確信したかのように吠える。人間の何倍も大きな手がイシュタルに伸びた。
イシュタルは見た。そのゴブリンの笑い顔を。
そして、それが消える瞬間を。
イシュタルが地面に手をつき、親指の経路を使用して空洞にした地面の上をゴブリンが踏みぬいた。太い足が地面に飲み込まれ、大きく姿勢を崩し、前に倒れこんだ。
イシュタルは素早く中指と薬指の経路にできる限りの魔力を通し、両手を持ち上げた。炎の竜巻が一瞬にして燃え上がりゴブリンの身体を包み込む。ゴブリンは渦巻く炎を、奇声を上げて突破しようと試みる。しかし、暴風の中立っていることがやっとな状態で抜け出すにはあまりも厚い壁だった。
十秒もしないうちにゴブリンの咆哮は消え去っていた。
それでもイシュタルは炎の竜巻を出現させ続けた。どれくらいの時が過ぎたかイシュタルには知覚できない。もう大丈夫だ、とふと思ってようやく竜巻を引っ込める。肉の焼ける匂いとわずかに生臭い臭いが交じりあい、イシュタルは思わず顔を顰めた。恐る恐る覗くと、人間よりも硬質な皮膚が火傷で膨張し、呻き声もあげず横たわっているゴブリンの姿があった。
イシュタルが近づくと、ゴブリンがわずかに動いた。死後の痙攣であることにイシュタルは気づかない。小指の経路から水を呼び出し、中指の経路と一緒に魔力を吐き出す。平たい水が音速を越えた速度で吐き出された。ゴブリンの首を通過し、地面をわずかに穿ち消えていく。ゴブリンの首がゆっくりと胴体から離れた。
終わった。
ひと息ついたのも束の間、木に炎が燃え移っているので自分の持てる限りの魔力で消火活動に当たる。
ようやく消火活動を終えて余裕を取り戻したイシュタルは、動かなくなったゴブリンを見下ろす。
イシュタルは小さく微笑むと、その場を後にした。