創世の魔女――カーミン・エルドレット
カーミン・エルドレットことカームの家は泉の近く――地下にあった。入口は草で巧妙にカムフラージュされており、あるとわかっていれば見つけられるだろうが、ぱっと見ではここに入口があることなど気づけない。
「元は土蜘蛛の巣だったんだが、それを奪ってここまで立派にしたんだよ」
教会の大聖堂のように上に広い構造。上から見れば書棚の置いてあるスペースと居住スペースがはっきりと中央付近で分断されていることがわかる。あちこちの壁にはランプが吊り下げられていて、それらがガラスの内で光を発していた。イシュタルが螺旋階段を下りている段階で部屋の内装が上から分かるほどの明るさ。
「今日からここで暮らすことになる。不自由なことがあるなら遠慮なくいってくれ。できるだけ対処しよう」
「寝るところは」
「それくらい考えてる。そんなしょうもないことしか聞けないなら二、三日は黙れ。お前が来ることなんて想定してないんだからな。何の用意もできてないのも当然じゃないか。文句を言うなら先に知らせなさい」
カームは理不尽を地で行く性格のようだ。そして、特徴のつかめないしゃべり方をする。自由奔放を絵に描いたような人物だ。
「世界とずれないように生きるにはどうすればいいでしょうか」
「ふん、そんなこと、私が知るはずないだろう。知ってたらお前なんかすぐさまここらの生き物に食わせて終わりだ」
ばかばかしいとでもいうように鼻を鳴らす。
「料理はできるか?」
「できません」
「着替えは自分でできるか?」
「できます」
「洗濯は?」
「できません」
「ちっ、これだから貴族のガキは」
大きなため息をこぼす。
「創世の魔女と先ほど名乗っておられましたが、聞いたことがありません。自称でしょうか?」
「ほう、馬鹿にしたからその意趣返しか。それが自分の無知をさらけ出しているという裏返しであるとも知らず、無邪気でまぬけで愚かだな」
「年齢はあまり変わらないように思えますが、いくつですか」
カームの額に青筋が浮かんだ。
「このガキぶち殺してやろうか」
ある程度年を取った人間に対してマナー違反となる、と習ったことがある。
「答えられないほどお年を召されているということでしょうか」
「若返りの薬を飲んだから、実質お前と変わらん」
若返りの薬はおとぎ話の中で出てきたので知っている。つまり、それなりの年齢であることを自白しているも同じだ。
「では結構おばあちゃ――」
「それ以上しゃべるな小僧。舌を切り取ってお前の喉元に突っ込むぞ」
行動がより具体的になってきた。イシュタルは素直に頭を下げた。
「親しき中にも礼儀あり、というやつだ。あまりにも失礼なことが続くと、目を開けたらどこかの生き物の腹の中、なんてことがあるかもしれないぞ」
おどろおどろしく話すもイシュタルは無反応。その様子を見て、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「なるほど。世界とずれてるとは何ぞやと思ったが、感情が薄いだけか。ならば」
居住スペースの奥にある壁の穴に入り、数分もすると、一つの細長い瓶を持って帰る。瓶の中は紫の液体で半分ちょっと満たされており、カームが歩くたびに振動で紫が揺れる。
「恐怖を増強する薬だ。これを飲んでから――くふふ」
カームはイシュタルの鼻をつまんで頭を後ろにそらせる。瓶の底の方を親指と人差し指で摘まみ、瓶の口を円の中心として180°近くまで持ち上げ、紫色の液体をイシュタルの意思とは無
関係に流し込んでいく。次から次へと注がれる液体を喉元で押さえていることができず、飲み込まざるを得なくなった。ごくりと何度も喉を鳴らしながら消化管にくぐらせる。しかし、全てを飲み込むことはできず、鼻から少しだけ薄くなった紫色が鼻の筋を伝う。
カームが空になった瓶をぞんざいに投げた。
投げられた瓶は回転して空を飛んだあと、消えた。それはまるで見えない壁があるかのように、とある地点から吸い込まれるように消えていった。
「では実験だ」
カームの顔の横、何もないはずの空間からナイフが飛び出す。カームが小さく手を払うと、空中から飛び出たナイフがイシュタルの顔を目掛けて一直線に飛んでいく。
イシュタルはそれを認識し、避けるために少し動くが間に合わない。イシュタルは飛んでくるナイフをひたすら目で追う。すると、ナイフはイシュタルの眼前でぴたりと止まり、力なく落ちていき、からん、という無機質な音が鳴る。ナイフ同士がぶつかる音も合わせると、投げられたナイフの数倍の音が連続して響いた。
「どんな強靭な精神を持ってたとしても泣き叫ぶくらいのことはするはずなんだが」
カームは落ちたナイフを拾い――
イシュタルの手の甲に突き刺す。
鮮血がナイフの先端を伝って地面に落ちる。常人であれば自分の身に何が起こったかを認識した後に取り乱すはずだ。先の液体の効果も合わせれば、取り乱すという言葉では済まない。発狂していいはずだ。
しかし、イシュタルは事態を認識したうえで自然体を保っている。
「ふーむ」
ぐりぐりぐりぐりぐりぐり
カームはナイフを上下前後左右に動かし、傷口を広げる。けれど、イシュタルに目立った反応はない。
カームはナイフを持たない左手を前頭部に乗せると、親指を伸ばしてイシュタルの瞼を大きくかっぴろげてのぞき込む。まただ、またあのぼやけた感覚が訪れる。
「痛いか」
カームが尋ねる。
「痛いです」
「痛いのか。なるほどなるほど、これは重症だ」
カームはナイフを抜き、角度を変えて刺す。まるで一定のリズムを刻む手遊びのようだ。
「いやはや、私でさえもこれを飲んだ後は小便を漏らしたというのに。お前ときたら」
ナイフの動きがさらに加速する。イシュタルの手の甲の中央には小さな穴が開き、それを中心に手のひらまで貫通した刺し傷が放射線状に広がっていた。
「実験体を大切にしなければならないとは常々思っていたが、ぞんざいに扱ってしまうのが悪い癖だと思っていたが、本当に大事なものだとこうも違うのか。大切なものは今までなかったんだ。だからぞんざいにしか扱えなかった。ははは、そうかそうか。仕方のないことだったんだ。素晴らしい。素晴らしいぞ。まだ残ってたんだ」
ようやくナイフを引き抜き、血で濡れたナイフにきらめく自身の像を見て、高らかに笑う。
「今日という日に感謝しよう。今日はいい日だ」
ナイフを放り投げる。先ほどの瓶と同様、何もない空間に吸い込まれて消えていく。カームはもう一度奥の壁の穴に入り、今度は別の瓶を持ってくる。中に入っているのは深い青。群青色だ。
「情緒を――成長するにつれ自然と宿る何かを、何らかの事情でどこかへとおいてきたわけか。しかし、そこに知性はあると。だとすれば」
瓶の蓋をきゅぽっと勢いよく取り、ひっくり返す。
中の液体がイシュタルの手の甲に伝い落ちる。すると、手の甲から手のひらまで貫通していた傷に変化が起きる。
ぼこ ぼこ ぼこ ぼこ
ぼこ ぼこぼこ ぼこぼこぼこ
ぼこぼこぼこぼこぼこぼこぼこぼこ
水が沸騰して水泡ができるかのように肉が生えていく。ものの数秒で肉は完全に結合し、傷跡など見る影もない。
カームがイシュタルの目をのぞき込む。ぼやけた感覚。
「お前が世界とずれていると認識したのはいつごろだ」
「ずっと前、意識があった時からずっと感じていました」
自分よりも自分を知っている自分がいるかのように、素早く言葉が紡がれる。
カームが目を外すと、身体と思考の自由が戻ってくる。カームの赤い瞳には何らかの魔法がかけられているのかもしれない。
カームは何もない空間から黒のローブを取り出し、弾むような足取りで螺旋階段を駆け上がる。
「この部屋のものは何でも使っていい。飯も探せば見つかる。私は用事がある。もしも一か月たっても戻ってこなければ、そこのボタンを押せ、そうすれば何かしら解決するだろう」
カームはそれだけ言い捨てると、地上へと姿を消した。
イシュタルは『そこのボタン』――蜘蛛を模した八つ足、中央にボタンがある――を確認し、書棚のほうへと向かっていった。
適当に本を取り出し、難解な術式をいくつか見てからぱたりと本を閉じ、元の場所に戻した。
いくつか見ていくうちに書棚が分類ごとに分かれていることに気が付いた。そして、物語の書かれた書棚を見つけると、左上から取っていく。
時間をかけて読み終わると次の本に手をかける。
彼は時間の許すまま、ひたすら本を読み続けた。