捨てられた少年と拾う少女
出来損ないの成れの果て。そう呼ばれる一人の少年がいた。彼の名はイシュタル・ヘーゲー。
どこか浮世離れした雰囲気を醸し出す少年は、毎日をただ茫洋と生きていた。目の前のことがどこか他人事のように見えて、ここに生きている自分が本当だとは思えなかった。
勉強も、剣術も、魔法も、本気で取り組もうと思っても、自分の中の何かが加減をしてしまう。貴族としての性分をおよそ持ち合わせず、習い事もままならず、周りからは失望されて今に至る。
現在彼は馬車の中だった。
伯爵が持ち合わせるものとは到底思えぬおんぼろの馬車。商人からわざわざ買い取り、わざわざ汚らしく誂えたもの。見るものが見れば金のない行商人か、奴隷を運ぶ荷馬車とでも思うだろう。
なぜ彼がその中で揺られているのか。答えは簡単だ。追い出されたのだ。齢十にして、その将来性を見限られ、伯爵家にとって不要なものとして放り出された。そもそも彼は存在していない存在である。もしも彼が声高にヘーゲー家の子どもであることを主張しても、誰も取り合うものはいないであろう。
「どうしてこうなんだろう」
彼は怒ることもなく、追放を告げられても「はい」と素直に答え、事実を受け入れた。
当主であり彼の父であるゾノ・ヘーゲーはその様子を見て横に大きく首を振り、もうよいと言い残してイシュタルを部屋から追い出した。
少しの申し訳なさが残るものの、父に見限られたその事実さえ僅かも胸をえぐるものではなかった。
幌の継ぎ目から外を見た。木々が重なり合い、天頂を目指すように伸びている。その先には灰色の雲が薄く伸びていた。
――
進行方向である右の方から何かを感じた。彼はわずかに身を乗り出し、その正体を確かめる。
二足歩行のそれは、人間と似ているようでまるで違う。体色は緑、下半身には薄い腰布を履いたそれは、いわゆるゴブリンと呼ばれる魔物だ。
三匹のゴブリンが見慣れない馬車を見ている。
小柄の一匹と目が合った気がした。肌が総毛立つ。思わず首を引っ込めた。
「ふぅ」
一気に跳ねた心臓を抑え込むように胸をつかむ。思い切り走った時のようにどくどくと。まるで身体が打楽器にでもなったかのようだ。
これは何なのだろうか。幌の切れ目をそっと見、首をひねった。
◇ ◇ ◇
「ここでお別れです」
しばらくして辿り着いたそこは、森の中のオアシスだった。御者は御者台で馬を打ち鳴らし、来た道を去っていく。
指針など何もない。今までこれをやれ、あれをやれと指示をされ、流されるままに生きてきた代償。何をすればいいかわからない。
――
木の陰から何かが見つめていた。見られることには慣れっこだが、視線の質は違っている。屋敷にいた時に感じていたのは失望と憐れみに塗れた視線だ。今のこの視線はねっとりとしていて肌にべたつくような感覚。
視線の出どころを見つめる。ゴブリンが一匹、こちらを見ていた。だが、そいつは何かに感づき、そそくさと逃げていく。
「何をしている」
イシュタルは声がした方に振り返る。そこには燃えるような赤髪の女性が立っている。顔立ちや体型がまるで絵画の天使を模したような美しさ。違う意味で「浮世離れしている」とよく言われたが、実際に自分が体験してみると、なるほど確かにこの世のものとは思えない。
「息をしています」
「そんな子供じみた戯言を聞きたいわけではない」
口は動いているのに表情はまるで動かない。例えるならそれは人形。
「……」
少なくとも、イシュタルにとってそれは本気の答えだった。それ以外は特に思いつかない。
「お前の年はいくつだ」
女性の赤い目がのぞき込んでくる。頭の中がいつも以上にぼやけていく気がした。
「十になりました」
「なぜ斯様にそんな死んだ魚の目をしている」
「世界とずれているからです」
「そんな言葉、誰に習った?」
「誰にも」
口が滑るように動く。
「ふむ」
女性の姿が一瞬にして消え失せた。代わりに現れたのはイシュタルと同年代と思しき少女。消えた女性の娘か、と思うほどに消えた女性と今目の前にいる少女の姿は似ていた。
イシュタルの身体が弾かれたように数歩後退した。イシュタルはそれでようやく、先ほどまで自分の身体が動かなかったのだ、と気付いた。
「なるほど、これは面白い少年だ」
少女が顎に手を当てる。少女であるにもかかわらず、その仕草が様になっていることに違和感を覚えた。
「少年、なぜここに来た?」
「捨てられたから、だと思います」
さっきよりも口の滑りが悪い。やはり先ほどまでの状態が何かおかしかったんだ。
「ここに連れてきたやつはある程度腕の立つ輩だ。そんな奴に連れられてお前はやってきた。そして捨てられたと言った。逃がさないように? ここらで生贄なんて習慣はなかったと思うが」
それからもぶつぶつと考察を続ける少女。
「ヘーゲー伯爵の三男で、出来が悪いから捨てられました」
「もうちょっと考えれば出てきたかもしれないのに!」
少女は地団太を踏む。それは様になっていないが、年相応に見えた。
「これが恩を仇で返すってことか」
「それはこっちのセリフだ!」
少女が少年のふくらはぎを蹴る。
「ふん、まぁいい」少女は腕を組み、彼を睥睨する。「生きたいか?」
少女の赤い瞳に吸い込まれる。頭が靄で覆いつくされる――さっきの感覚が再び押し寄せてくる。
「生きてみたいです」
するりと出た答えに、自分自身がひどく驚いた。息をする死体、それが自分だと思っていた。
「面白い答えだ」
少女が自分自身の体に手を這わせ、身震いする。
「いい、いいよ、いい、すごくいい」
徐々に頬が紅潮し、「はぁ」と甘い息を吐く姿は少女とは思えない艶然さを醸し出している。
そんな少女に目もくれず、イシュタルはただ呆然と自分の手に目線を落としていた。
死んでもいい。いや、死んだほうがいい。それが自分の答えだと思ってた。
「この世界で生きる」
誰もが当たり前にできているのであろうそれを、自分がひたすらに望み続けたそれを。口に出すのも憚られたそれを、彼は呟いた。
「私が――創世の魔女と呼ばれた私、カーミン・エルドレットがその名と号に誓い、その願いをかなえよう。そして、必ず解いて見せよう。あははははははは」
少女は目を血走らせ、驚くほどに口角を吊り上げて笑う。
この世界に溶け込む自分。真剣に何かを成しえる自分。想像したが、いまいちピンとこない。
世界は全て他人事。
ふと、ゴブリンと目が合った時のことを思い出した。
産毛が少しざわついた。
適当に評価をぽちっていただくととても励みになります♪