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本庄ハナは、勤務中は無表情に等しい。肩まである黒髪に、幾分長めの前髪は、少しうつむくと小さな目元まですっかりと覆ってしまう。

しかし、今、化粧室の鏡に映る彼女の表情は、明らかに動揺していた。


(あの男…あの男だけは今世でも来世でも来来世でも、金輪際、会いたくなかったのに…!! 生まれ変わる時に、神様に肝心なことを頼み忘れてしまった…!!)


後悔に、唇を噛みしめる。


(彼は、前世の『桜木花魁』の馴染み客の一人だった。しかもかなりディープな関係の…。

ただ、さっきは一色社長がこちらに向かって来るような気がして、思わず逃げてきてしまったけれど、はたして彼は、私が、前世の『桜木』だと本当に気付いただろうか…? いや、その可能性は低い。何故なら、彼が進路を変えた方向、私の背後には、職員用の裏口のエレベータがあったからだ。

冷静に考えれば、これ以上の混乱を避けるために、中央エレベータではなく、急遽そちらに向かったのだろう。)


「そんなことにも気付けないなんて、らしくないな…」


ハナは、久しぶりに揺さぶられた感情に戸惑いながら、ため息を吐いて、地下3階へと戻った。



庶用務課の重い扉を開けると、いつも窓際の固定場所にいるはずの下平課長がすぐ目の前に立っていた。


「本庄君、待ってたよ。」


「課長、どうしたんですか?」


「さっき、社長の秘書が来てさ…ここ解散だって。」


「え?」


「庶用務課は解散、全員クビだって。」


「えっ?!」


篠崎まいと、武藤かおりも、突然のことに青ざめている。


「あり得ないっ。こんな…」


そう言って、唇を噛み締める篠崎まいは他の部署を転々として、最近ようやくこの庶用務課に落ち着いたところだった。仕事は出来るが、ケンカっぱやく、思ったことがすぐ口をついて出てしまうため彼女を上手く使える上司に恵まれなかったせいだ。


「どうしよう、これから子供にお金がかかるのに…」


シングルマザーの武藤かおりは、仕事は丁寧だが、はっきりいってスピードに欠ける。子供が病気がちで、休暇や早退を余儀なくされる彼女にとって、ノルマのある他部署では無理があり、課によってはイジメもあったようだ。それでも子供の養育費のために彼女は会社を辞めなかった。

庶用務課にきてから、ハナは、彼女には主に篠崎まいの手掛けた仕事の最終的なチェックを頼んでいた。慎重なため、細かいミスにも良く気付けるし長年の経験からくる豊富な知識は庶用務課の財産だ。


「ハハ、僕はあと10年も住宅ローンが残っているんだがね…」


下平課長は、事実上、左遷されてこの庶用務課にやってきた。男性同士の出世争いに破れた上に、どうやら重大な発注ミスの責任を一人追わされたらしい。時々、その当時を思い出してか、切なそうに遠くを眺めてフリーズする時がある。

基本的には、無気力な管理職キャラだが、根は優しく、度々早退する武藤かおりのフォローを進んで引き受けてくれる。


「…わたし、ちょっと社長室に行ってきます。」


ハナは、考えるより先に身体が動いていた。



最上階の社長室の前は、既に何人もの男性管理職が並んでいた。その表情はだれも険しく、一人の男性が握りしめていた資料には、目を疑うような売り上げ目標がチラリと見えた。

(被害は、庶用務課(うち)だけじゃなかったのね…まぁ、他の部署はリストラまでとはいかないだろうけど…)


「お次は、どこの部署かな? あぁ、庶用務課の本庄さん、今、お迎えに行こうと思ってたんですよ。」


「え?」


扉の前にいた細身の若い男性秘書が、ハナの姿に気付いて軽く微笑む。銀髪にピアスで、中性的な容姿をしている。社会人なのにまるで芸術家かアーティストみたいだ。


「どうぞ、お入り下さい、本庄さん。代表がお待ちです。」


順番を待っていた男達は、よりによって庶用務課のハナを優先したことに抗議の声を挙げたが、「お待ち下さい」と、微笑む秘書の男の不思議な威圧感に一瞬にして押し黙った。


「失礼いたします。庶用務課の本庄と申します。」


「あぁ、よく来たね。」


物がほとんどない、シックな部屋の中央の、重厚な書斎机に一色湊人は腰かけていた。

サングラスではなく、今は、黒淵の眼鏡を掛けて、目線は手元の書類に落としたままだ。少し不機嫌そうに眉間に寄った形の良い眉から、考えごとをしているように時々こめかみをトンと叩く長い指先まで、この男はイチイチ絵になる。


社長と言えど、初めて来社したのなら、挨拶がてら各部署を見てまわるものなのに、この男はもう本格的な仕事モードに入っている。

(でもよかった…この様子だと、私が前世の『桜木』だと気付いてないみたいだ。きっと、多くの人がそうであるように、生まれる前のことは全て忘れてしまっているのだろう。)

ハナは、ほっとしつつ、咳払いをして一歩前に出た。


「単刀直入に申し上げますと、庶用務課の廃止と社員の解雇の件、お考え直しいただけませんか?」


一色代表は、依然として俯いたまま言った。


「それはできない。」


(即答か! 予想はしてたけど…)


「でも、本庄さん、君には僕の右腕になってもらおうと思う。」


「え? 右腕って…」


「ここに来る前ね、そこの秘書の片桐に、社内を隅々まで調査させたんだよ。君は非常に優秀な人材ようだ。」


「は?」


「庶用務課は、他の部署では使い者にならない無能な社員が集まる、いわば会社の掃き溜めのような場所だった。それを君は、ここ数年で通常の単純な雑務に加えて、プラスα、いや、それ以上の仕事ができる課へと成長させた。」


一色湊人は眼鏡を外して、ようやく顔を上げると、さきほど女子社員たちを魅了したステキな笑顔で、ハナを見上げた。

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