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既に、ビルの入り口付近からロビーの通路はウェヌスタの社員で埋め尽くされていた。それどころか、どこで情報が漏れたか違うフロアの別会社の女子社員まで入り混じっているようだ。
「こんな遠くからじゃ、きっとよく見えないわね。」
小柄な武藤かおりは、背伸びをしながら残念そうにため息を付く。
「くぅ~、化粧直してる暇があったら、早くここに来ればよかった~!」
篠崎まいは、悔しそうにしながらも、人だかりに飛び込み最前列に食い込もうとする勢いだ。
「本庄君は、前にいかなくていいのかい?」
下平課長が、ぼそっと呟く。
「わたくしは、結構です。」
(それより、この無駄な時間の分、早く家に帰って、お笑い芸人『ライスボールマン』のDVD(3周目)をみたい…あぁ…やっぱり二人の漫才の掛け合いは 最高だったな…)
ハナは、思い出し笑いで緩んだ口元を手で覆う。
と、間もなく黒塗りのリムジンが到着し、モデルのようなルックスの男が姿を現した。上等なダークグレーのスーツに嫌みなくらいよく似合った濃紺のサングラス。日本と東欧のハーフらしく、足が長く上背があるためロビーのハナにも、その際立った容姿がよく拝めた。周りの女子社員は、黄色い声が漏れそうになるのを、やっとのことで押さえているようだ。というのも、社会人としての弁えもさることながら、サングラスを外した一色湊人は、確かに美しい顔立ちをしていたが、整いすぎたその鋭利な印象の表情はモデルというより経営者としての厳しさを連想させた。
(場の、空気が、一瞬で変わってしまった…)
本庄ハナは、彼に魅せられた女子社員とは、別の意味で一色湊人という男に惹き付けられていた。
(支配者になる男は、その場の空間を掌握できるオーラを持っている。前世で、一流の男ばかり相手にしてきたハナにとって、本物と、そうでない者をかぎ分ける嗅覚は確かだった。なぜなら、それは商売上の死活問題でもあったからだ。
特に、大層な肩書きを持った偽物ほどタチが悪い。そういう男は、女の前で無駄に虚勢を張りたがり、最終的には金銭的にも精神的にも果てて潰れる者が多い。男にとって、吉原はあくまで夢の世界であり、夢と現実の区別がつかなくなって遊ぶ金も尽きた挙げ句、心中しようと刃物を向けられた日にゃあ溜まったもんじゃあない。
こちらだって、命がけの商売なのだ。だから『桜木』は、下級遊女とは違い、客を選べる立場の「花魁」にまで昇りつめた。)
「まぁ、もう今世では、関係のない特技だけどね。」
ハナは周りに聞こえないようポツリと呟く。
(間違いなく、一色湊人は本物だ。あの男の会社なら、この先何かあってもきっと大丈夫だろう。)
本庄ハナが、自身の充実したフリーダム・ライフの安泰を確信して、ほっとしつつ腕時計を見下ろした瞬間、ついに女子社員から、「きゃぁっ」という黄色い声が上がった。
一色湊人が、ニコリと社員に微笑みかけたのだ。
面立ちが整いすぎて冷たい印象が先行する彼が、一度微笑めば鋭利さの中に絶妙に甘さが混じり合う。それは、男性に興味のないハナでも思わず息を呑んでしまうほどの破壊力があった。周囲の男性管理職が、いくら諌めても、アイドルに声援を送るかのような女子社員の興奮は、いよいよ収拾がつかなくなっている。
(だから、全社員で出迎えなんて辞めた方が良かったのに…時間と労力にムダムダ…!)
ハナが、冷めた視線を向けた瞬間、バチッ、と、一色代表と目が合った。
(あ…何…?)
一見、薄い黒色の瞳は、僅かな陽の光を得て、淡いブルーグレーに発色する。希少な玉石ようなそれに、ハナが思わず見とれていると、一色代表は、目を細めて、ふっ、と、口角の端を上げた。
(まさか、この男は……)
自分にこそ、一色代表は微笑み掛けたのだと、興奮する数多の女子社員の後ろで、背筋に言いようのない悪寒が走ったハナは、一歩後ずさる。
(あの、全てを見透かしたような妙に澄んだ瞳。自信と余裕たっぷりの笑みは、口の右端が左のそれより、クッと高く上がるクセがある。何より、人生に腹を括った男の、その垢抜けた佇まいは姿形は違えど懐かしいほどの既視感を覚えた。
まさか…この男…いや、彼は…間違いなく…前世の…)
カツンッ、と、シャープな革靴の音が鳴り、一色湊人が、ハナの方へ身体の向きを変える。
「う…ぁ…」
(こっちに、来る…?)
本来の通路を横切り、一定の距離を保っていた女子社員の集団に、自ら飛び込むような形になった一色湊人に、いよいよ女達が群がりはじめた。
(む、無理…!!)
女子社員に囲まれて、足止めを食らった一色代表にくるりと背を向けて、ハナは、そのまま近くのトイレへ駆け込んだ。