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「うわっ、社長その首の跡! 何プレイですか?」
庶用務課から社長室に戻った秘書・片桐は、一色湊人の首にくっきりと浮かぶ赤い痣に目を丸くする。
「まったく…午後から重要な会議ですよ。」
片桐は自らのポケットからスカーフを取り出し、社長の首に巻いた。
「あと、クロノス社との商談ですが一週間後の予定を明後日に変更できないかと先方から連絡がありました。いかが致しますか?」
「…。」
「社長、聞いてますか~?」
片桐は、椅子に座ったままぼんやりと一点を見つめている社長の前でヒラヒラと手を振る。
「…先方の言う通りにしろ。」
一色社長は、スッと立ち上がるとハナに叩かれて切れた口内の血を吐き出す。
「まだ、準備が万全ではありませんが――――」
「問題ない。必ず口説き落とす。」
希少な獲物を前にしたような一色社長の鋭い瞳と、僅かに上がった口の端から狂気にも似た喜悦がこぼれる。庶用務課に戻って仕事を再開させていたハナの背筋にブルッと悪寒が走った。
◇
社長を思わず引っぱたいて(=ハナの前世が桜木花魁だとバレて)から2週間が過ぎた。
今のところは平穏無事な毎日を送っている。なぜならあの後、社長と片桐さんは急遽、海外出張に行ってしまったからだ。
ただ、その間にも社長から自宅に花束やらケーキやら高価な靴やら洋服やら、挙げ句には宝飾品までもが毎日のように届くから、ついにハナの独り暮らしのワンルームの部屋はそれらでいっぱいになってしまった。
(万策尽きた…もうこうなったら、正直に本音を話そう。今世、私は自由に生きたい。望むのは、ただそれだけ。だから、わたしをどうか放っておいて下さい。お願いします、どうかお願いしますと。必要なら土下座でも何でもしよう。最後は真心…そう、最後に残るのはマゴコロだ…)
前世でさんざん恋の駆け引きをして数多の男を手玉に取ってきたのに…最後に行き着いた方法がこんなチープなものなんて我ながら情けなくて泣けてきた…でも、もうなんにも思い浮かばないし時間もない。
「本庄さん、今日は何だかキレイねぇ。」
武藤かおりがハナの頭から靴の先まで興味深そうにと眺める。
「うわ、全身めっちゃハイブランドじゃないですか! どうしたんスか、先輩?!」
篠崎まいは、無遠慮にハナの背中のタグを覗いてきた。
「…今日は、結婚式の二次会に行くんデス。」
もちろん嘘だ。
今日は一色社長が海外出張から帰ってくる。そして、早速空港近くのレストランに食事に誘われているのだ。ドレスコードはないが、社長の対面もあるから下手な服装では行けない。TPOは大事だ。だから今日、不本意ながらもプレゼントされた洋服にはじめて袖を通した。上品なピンクベージュのワンピースは肌触りが心地よく、揃いのハイヒールは一日中履いていても不思議と疲れなかった。
「本庄さん。お迎えに上がりました。」
定時ピッタリに、ビルの玄関前に片桐が現れる。黒塗りのリムジンに一色社長は乗車していないようだ。
「桜木…あぁ…やはり美しい…」
「え?」
頬をポッと染めて片桐がうつむく。
「いえ。さぁ、お乗りください。社長がお待ちです。」
「はい。」
ざわめき出した周囲から逃れるように、ハナはそそくさと車に乗り込む。
「本庄さん、お飲みものはいかがします?」
シックな内装の車内には、シャンパンやらワインやらが並んでいる。
「いえ結構です、片桐さん。」
(社長にマゴコロ土下座…上手くできるだろうか…でもやらねば…額が擦りきれるほど床に這いつくばって両手はきれいに斜め45度…ドラマだとその流れで靴なんか舐めたりするんだっけ…さすがにちょっとイヤだけど…求められたら何だってやらなければ…)
「本庄さん、どうかしましたか?」
眉間にシワを寄せブツブツと呟くハナの顔を片桐が覗き込む。中性的な美青年のドアップに反射的に退けぞった。
「い、いえ…何でもありません。」
ハンカチで汗を拭うハナを、片桐はしばらくじっと見つめていた。
「ウチの社長は、モデル顔負けのルックスにゆくゆくは一色グループの総帥になる男です。女性なら誰しも憧れるはずの一色湊人からのアプローチなのに、あなたはどうして必死に彼から逃れようとしているのですか?」
「はぁ…」
(まぁ…前世の記憶なんかなければ、間違いなく秒で彼に堕ちていただろうけど…)
「理由を教えていただけますか?」
片桐は、ふらっと庶用務課に来ていた時とは違い、いたって真剣な顔をしていた。ハナはゆっくりと口を開く。
「片桐さん…いえ、高田屋の旦那ならご存知でしょう。前世で私は籠の鳥でした。24時間監視され、自由に外にも出られない。男性客を繋ぎとめるために毎日身を削って、次第に心まで蝕まれていく…そんな日常を生きていました。」
「桜木花魁…」
(登楼したのは一回きりなのに、僕のことを覚えていてくれたなんて…。それにしても、当時は浮世の憂いも穢れも知らない天上人のような笑みをたたえていた彼女も、人並みに…いや、きっと常人の何十倍、何百倍も苦しんでいたんだろう…)
「もう、嫌なんですよ。今世は一人自由に生きたい。行きたいところに行って、食べたいものを食べて、笑いたいときには口を思いっきり開けて笑いたい。ただそれだけです。」
「…。」
(前世で彼女は雲の上の人だった。一度きりだったけれど出逢えたこと自体が奇跡だった。しかも、女性嫌いな僕に男女のまぐわいの素晴らしさを教えてくれた唯一の女。前世の苦手な妻とそういう行為をしなければならない時には、事前に当時大ヒットだった『桜木花魁の浮世絵シリーズ』をこっそり眺めて気分を昂らせた。
今世だって、どんな女性と付き合っても頭の片隅にはいつも桜木花魁がいた。唯一無二の僕の天女…今世でも逢えたなんて…震えるほどの感動とはこういうことだったんだと思った…たとえライバルが前世の間夫・菊川屋清右衛門でも絶対諦めたくない。)
「本庄ハナさん。一色社長ではなく、僕と付き合いませんか?」
「え?」
「正確には、付き合っているフリです。もちろん、僕は一切束縛はしませんし、プライベートで会わなくて結構です。あなたの時間は全てあなたのものです。」
「え? でも、それで片桐さんになんのメリットが?」
「あなたは前世の僕の恩人です。随分遅くなってしまいましたが、ぜひ今世こそ恩返しさせて下さい。」
「でも―――」
「とりあえず、そういうことにしてあとは一色社長の出方をみましょう! ダメだったらまた他の策を考えればいい。ただ、彼氏がいるあなたにすぐ手出しすることはないでしょう。」
ハナの瞳が迷いに揺れた。すかさず片桐が動く。
「はい! じゃあ早速これペアリングです! お互いのイニシャルが刻印してあるんですよ!!」
「は?! 片桐さん! あ、あなた最初から…!!」
「ほら、着きましたよ!!」
「ちょっ…」
ハナは、左手の薬指に無理矢理ジャストサイズのペアリングをはめられて、片桐の強引かつ鮮やかなエスコートで約束のレストランの前に立っていた。




