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「間に合った…!」
本庄ハナが、地下にある小さなお笑いシアターに到着したのは開演の5分前だった。定員は30人ほどで、客席はほぼ満席に近い。
「やぁ、ハナちゃん、やっぱり来たね!」
「あっ、ユウトさん!こんにちわ。」
この男はお笑いライブに訪れる常連客のユウトさん。プロのミュージシャンを目指すフリーターでハナとは同い年だ。この知る人ぞ知るマイナーな地下劇場にはコアなお笑いファンが多く、ハナの顔見知りも多い。
「今日はほとんど新ネタだってさ!」
「うわぁ、本当ですか~!!」
好きなことを分かち合える同志に、ハナも思わず手を取り合って喜びにジャンプする。
「おい、随分と楽しそうだな。本庄君。」
聞き覚えのある威圧感満載の低い声と、視界を暗くした影の濃さからうかがえる高身長…背筋がゾワリと粟立つ。
「社長…どうして…ここに?」
「もともと君が俺と来たいと言ったんだろう。」
「へ?…あっ!」
常連仲間のユウトさんと組んだ手を引き剥がされ、強引に腕を掴まれる。
「っ…離して下さい!」
「来なさい。君の席は最前列だ。」
「なっ、ちょっと…!」
引き擦られるように最前列のど真ん中に座らされ、その隣に社長も腰を降ろす。一色湊人のモデル並みのルックスに場違いな一流スーツ…何より凡人離れした圧倒的な支配者オーラに何かを感じ取った周囲の客がざわめき始めた。
(ど、どうしよう…完全に浮いてるし…一色社長はメイディアにも素顔を公開しているから、バレるのは時間の問題かも…)
「社長…本当にご覧になっていくおつもりですか?」
ひきつった表情のハナがたずねる。
「もちろんだ。」
顔色ひとつ変えずに一色湊人がうなずく。
「な、なぜ急に?」
「ただ…みたかったからだ。」
(本庄ハナ…君の笑った顔がもう一度みたい。どうしてもホテルで食事をした時の君の笑顔が頭から離れない。切なくて胸が痛んで…夢にまでみるほどだ…この感情は…何なんだ…)
「でも社長はお忙しいのに、何もこんな―――」
「もう黙れ。始まるぞ。」
ハナの急降下したテンションとは対照的な、突き抜けて明るい出囃子が流れる。
(この瞬間、いつもならワクワクして最高の気分なのに…ほんと最低…この男…どうやって帰らせようか…ハナはため息を吐きながらこっそりと手元の携帯を取り出した。)
ハナが考えを巡らせている内に『わぁ~っ』という歓声とともにお目当ての芸人がステージの中央に現れる。
(近い! 流石は最前列の中央だ…。もう、一色社長なんてどうでもいいや。この楽しい時間を満喫しよう!そうでなきゃわたしの愛する芸人様に失礼だもの…!!)
それから、ハナは意識的に隣の一色社長の存在を消し去り、何度も大笑いしてライブを満喫した。
◇
「本庄君もあんなに大口を開けて笑うんだな。」
ライブ終了後、一色湊人がまだ夢見心地のハナの頬を軽く摘まむ。
「ちょ、触らないで下さい…!」
「しかし妬けるな…。こんなに長い時間俺といて、始終、他の男に釘付けだった女性は君が始めてだ。」
言葉とは裏腹に、機嫌の良さそうな一色社長は微笑みながら男の色気が滴る流し目をよこしてきた。
「…っ」
(本当に、社長は急にどうしたんだろう…以前のホテルランチでは汚い物でも見るように私のことを蔑んでいたはずなのに…)
「どうだ、本庄君。この後食事でも?」
「え?」
(ダメだ…一色湊人の本心が全然読めない。ライブ直後で頭も回らないし、この状態で食事に行ったら完全に社長のペースに呑まれる…!!)
「行こうか。外に車を待たせてある。」
「あ、あの―――」
(まだ返事してないのに…!さすがの強引さ…!!)
「そうだ、君の大好物のケーキも用意させてある。もちろんホールでね。あぁ、また現金が欲しければ言いなさい。最近の君の働きにはもっと報酬が必要だと思っていた。」
「なっ、別にわたしはそんな…」
その場を動こうとしないハナに焦れたように、一色社長は彼女の腰に手を回し鮮やかに出口までエスコートしようとする。
「ちょっ…」
(この手の自信過剰な男は、逃げれば逃げるほど、その支配欲の強さゆえ、しつこくしつこく追ってくる。)
ハナがすぐ自宅に帰るのを諦めて出口を出た時――――――
「あのっ、もしかして一色湊人さんですかっ?」
「てか、もしかしなくてもそうだよっ! こんな凄オーラの人いないもん!!」
「きゃ~! 写真より実物の方がカッコイイ!!」
「今日は、モデルの『サクラ』さんとご一緒じゃないんですかぁ?」
「社長の生スーツ姿、ヤバーイッ!!」
パシャ、と誰かが携帯で写真を撮り出すと、二人は一斉にフラッシュに包まれる。
(一か八かだったけど、狙い通り…いや、それ以上の人数だわ…)
実は、お笑いライブ中にユウトさんにメールしてSNSで情報を拡散してもらったのた。『なんと、あの財界の貴公子、一色湊人社長が地下劇場に降臨!!』と。
社長もこれは予想外だったらしく、彼が何か言葉を発する前に数十人もの女性に囲まれてしまった。そして、隣の女性がモデルの『サクラ』ならともかく、平凡な容姿のハナは全く周りの目に映っていない。
(今だ…!)
「あっ、待て! 本庄君!!」
ハナは腰に回された一色湊人の腕を振りほどいて、全速力で細い路地を走り出す。
(本当は逃げるのは得策じゃないけど、今日のところは家に帰って落ち着いて今後の作戦を立てよう…!!)
無事に大通りの人ゴミに紛れることに成功したハナは、大きく深呼吸した。それから、いつもそうしているようにコンビニのチーズケーキを買って帰宅すると、ドアの前には例のホテルの新作ホールケーキと瑞々しい薔薇の花束が届けられていた。




